小説『水泡』

 薄暗い部屋の隅に置かれた透明な水槽の中で生きている。白い砂利が敷かれた床を這うように歩く。水槽の中には水草と土管がある。それから、水槽内の水質や温度を調整する装置も備え付けられている。
 暮らしやすいように管理された環境で、決まった時間に決まった量の餌を貰う生活は楽である。野生だった時代がない私はこのような環境しか知らないのだが、それでも心の奥底に宿る野生の本能のようなものが、この生活が普通ではないことを告げている。人間に飼育される生活では餌を安定して得られるものの自由がなく、一方で野生の生活では必死になって餌を探し求めなければならないものの自由がある。後者のような生き方を経験していれば今の暮らしを心地よく思い手放したくないと感じるのかもしれないが、如何せん人間に飼われる道しか知らない私は、このような狭すぎる空間から早く抜け出して広い世界を自由に泳ぎ回りたいと強く願っている。しかし、今の生活が全くつまらないわけではない。水槽越しにこの部屋の持ち主、すなわち私の飼い主を観察することが日課になっていて、これがなかなかにおもしろいのだ。人間とは全くもって可笑しみ溢れる生き物である。
 この水槽から私が見たことのある人間は三人いる。一人は少年で、彼がこの部屋の持ち主だ。残る二人は彼よりずっと背が高く性別がそれぞれ異なっており、彼の両親だと思われる。
 部屋の外から少年と母親の声が聞こえる。
「ハヤト、ウールに今日の分の餌あげた?」
「あげたよ。ねぇお母さん、今日が何の日かわかる?」
 少年の声は嬉しそうに弾んでいる。
「えっ、何の日だっけ」
「うちにウールが来てから一ヶ月の記念日だよ。嬉しかったから日付まで覚えてるんだ」
「そうだったっけ。よく覚えてるねぇ」
「ハヤトは一人っ子だからなぁ。ウールは兄弟みたいなもんか」
 父親の声も聞こえる。
「うん。もう可愛くて仕方ないよ」
「しっかり世話するのよ。生き物なんだから、責任持たないと」
「もちろんだよ」
 少年が部屋に入ってきた。水槽の前に立ち、じっとこちらを覗き込む。彼が指で水槽の壁をなぞり始めたので、私はその指に近づくようにして泳いだ。少年がそれを見て笑みを浮かべる。こうすることで彼が喜ぶとわかっているので、私は進んでこの行動を取るのだった。



 その日の少年は忙しなかった。日々の観察に基づいて導き出した少年の生活周期によれば今日は休日であるはずだが、朝から慌ただしく準備に追われている。
 母親が少年に訊く。
「シオリちゃんが来るの何時だっけ?」
「十時だよ」
 少年は部屋を急いで片付けている。片付けていると言っても床に置かれたものを押し入れに詰め込んでいるだけであり、その場しのぎの行為に過ぎない。彼の部屋は綺麗に整理整頓されているとは言い難い様相を呈していた。
 そのとき、部屋の向こうから単調な音が聞こえ、
「あっ、ピンポン鳴った」
 少年が部屋を飛び出していった。片付けは、彼の見込みが甘くまだ途中の段階だった。
「えっと、散らかってるけど気にしないで」
 少年が部屋に戻ってくると、私の知らない人間が彼と一緒に入ってきた。その人物は彼と同じくらいの身長で、性別は彼と異なっていた。
「お邪魔します」
 私は全く未知の存在であるその少女の登場に困惑していた。警戒心を強めたが、それを悟られると彼に悪いので、混乱を誤魔化すように水の中を大袈裟に泳ぎ回った。
「あっ、これがペットのウーパールーパー? ハヤトくんが前に話してた」
「そうだよ。ウールって言うんだ。可愛いでしょ」
 少女が私の存在に気づき、近寄ってきた。見知らぬ人間に凝視されて私は緊張し、泳ぐ動きがぎこちなくなる。
「うん。可愛い。ちょっとキモ可愛いって感じ」
「キモは余計だよ。確かに大人になるとキモくなるって言うけど」
 二人が楽しそうに笑う。少女は好奇の眼差しで私を見つめていた。水槽の中で生きるということは、見られる対象として生きるということだ。私にとっては何気ない仕草であっても、それを人間は飽きもせずおもしろそうに眺めている。だが、彼らは自身も見られる対象であるということを認識しているだろうか。人間が私を物珍しそうに見るときに、私もまた人間をつぶさに観察していることを知っているだろうか。私には彼らが交わすメッセージの意味を理解することはできないが、その表情から、声の調子から、仕草から、実に多くの情報を掴み取ることができる。私が何も考えてなどいないと高を括っているからこそ、人間は私の前で本心を包み隠さず露わにする。店で売られていた頃から、私は人間を観察し解釈するのが趣味だった。
 それからしばらく二人は遊んでいた。私は途中で眠ってもよかったのだが、初めてこの部屋に来た少女の存在に気を取られて、彼女と少年をひたすら眺め続けていた。
 遊びが一段落した頃だった。
「……ねぇシオリちゃん」
「ん?」
 泡が、水の中でぷかぷかと生まれては消えていく。
「お願いがあるんだ」
「何?」
 少年も少女も、私のことは忘れて二人の世界にいた。
「シオリちゃん、僕とキスしてくれない?」
 少年は水槽に背を向けて座っていた。その位置で少女と対面していたので、私には少女の表情のみが見えている。
「……えっ? どうしたのハヤトくん」
「だから、僕と、キスを」
「ダメだよそんなの。私たち付き合ってないじゃん。ただの友達じゃん」
「……うん」
 少女の顔から、さっきまでの楽しげな表情が消えた。
「それにまだ私たち、そんな、キスなんかする歳じゃないよ」
「……」
「何なの?」
 私は泳ぐことを忘れ、ただ水の緩やかな流れに身を任せていた。
「何でそんなこと言うの? 私なら大丈夫だって思うから? 私の気持ちなんか考えもしないで?」
「ごめん。そんなつもりじゃ」
「どういうこと?」
「……ごめん」
「ひどいよ」
 少女は目に涙を浮かべている。少年は背中を丸め、後悔しているように見える。
「シオリちゃん、あの」
「……」
「……これ、」
 少年が少女に差し出す。
「……」
「これ、使っ」
「いいよ、自分の持ってるから」
 少女が涙を拭き取る。
「私もう帰るね」
「本当にごめん」
「……もういいよ。私、せっかくハヤトくんと今まで仲良くやってきたのに、このことで気まずい感じになりたくない。明日からも、普通に友達として過ごしていたい。それで、もし私のことが好きなら、じっくり考えてからちゃんと言って。ハヤトくんはもっと相手の気持ち考えた方がいいよ」
「……うん。ごめんね。ありがとう」
 そして少女は部屋を出て行った。少年は、母親に悟られぬように表情を取り繕ってから、少女を見送りに行った。



 このところ、人間の成長するスピードに驚くばかりだ。ここ最近で少年は身長がぐんと伸び、声が低くなり、性格が以前より大人しくなった。そして私は、少年に愛されなくなった。彼が水槽のもとに来るのは餌を与えるときだけであり、それ以外では私の存在などまるで認識していないかのような様子だった。これはある意味では仕方のないことである。愛はいつまでも持続するものではない。時が経てば衰え弱まって、やがて消えていく。
 少年が慣れた手つきで餌を袋から取り出し、水槽に投げ入れた。私はその餌を、同様に慣れた様子でぱくぱくと食べる。
 少年の目がどこか虚ろだ。私を飼い始めた頃、彼の眼差しは純真だった。それは未熟だったとも言える。彼はその未熟さゆえに人を傷つけたこともあった。私に向けてくれた愛情も、まっすぐで未熟だった時期ゆえのものだったのかもしれない。いま思えば何であんなものを可愛いと思っていたんだろう、と彼は考えているのかもしれない。
 少年が部屋から出て行く。タイミングからして、両親とともに食事を摂るのだと思われる。一人になった私は、見慣れ過ぎた水槽の中をいかに華麗に泳げるか試し始めた。人に見られているときはウーパールーパーらしく振る舞うことが行動原理になっているが、誰にも見られていないときには思う存分ウーパールーパーらしからぬ動きだってできる。もっとも、今や私の存在に注目する人間など一人もいないので(来客もない)、私はいつだって独創的な泳ぎの練習を重ねることができた。グッと足に力を込めて砂利が敷き詰められた床を蹴り、上へ上へと飛び上がっていくイメージで泳ぐ。体を横に捻りながら泳ぐとなお美しい。私の華麗なるダンスを見てくれ。代わり映えのしない水槽の中で孤独な生涯を送る私の、感情の横溢を脳裏に焼き付けてくれ。
 私は水の中でひたすら動かずにはいられなかった。何かが起こる。そう本能が告げていた。
『緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください』
 遠くから声が聞こえる。それを聞いた少年と両親が慌てているのがわかる。私は泳ぎを中止した。
「地震だって!」
「テーブルの下に隠れて!」
 そのとき、下から突き上げるような力を感じた。強い力。地に足つけて生きている生物は誰も抗えないと即座にわかるくらいの強い力だ。私は逃げるように土管の方向に向かった。
 刹那、空間がねじれて、空が地面に、地面が空になった。世界は宙を舞い、そしてどうすることもできずに落下した。その衝撃で水槽が割れた。水がもの凄い勢いで外へ流れ出る。私は体を激しく打ちつけられて、水槽の外に投げ出された。少年の部屋の床で、水を失った私は呼吸ができずにもがき苦しむ。圧倒的な力を前に、世界はこうも簡単に瓦解してしまうのか。水を奪われた私の意識は薄れ始めていた。もともと散らかっていた部屋が、この揺れでさらに混沌としている。
「ウール!」
 少年の呼ぶ声が聞こえる。彼は様変わりした部屋の様子に呆然としながらも、床に横たわる私の体を優しく持ち上げた。私は思う、彼に愛されていたのだと。さっきの揺れはかなり大きかった。彼も、彼の両親も、危険から逃れるために急いでどこかに避難する必要があるだろう。そんな土壇場の状況で、彼はまず私の安否を心配し、水槽の状態を確かめに来た。耐え難い苦しみの中で、私はただそのことを幸せに思った。
「水! 水に入れないと!」
 私を手に載せて、少年が奔走している。水槽に水質や温度を管理する装置が備わっていることから、私は人間の使っている水の中で生活することはできないのだと見当がついている。私が生活できるような水を即座に用意することはできないだろう。
「ハヤト、急ぎなさい」
「わかってる! でもウールを助けないと。水槽が割れたんだ。水に入れてあげたい」
 彼の手が震えている。
「あれ、水道壊れてるよ! 水が出ない」
「さっきの地震で水道管がやられたのかもな」
「どうしよう」
「とりあえず、大事な道具だけ持って早く避難所に行かないと。ハヤト、急いで準備しなさい」
 私は少年の手の上で力を抜き、薄れゆく意識のなかで彼に身を委ねた。世界の音が遠くなっていく。生命の灯が消えるとき、私は水を失った体に彼が優しく口づけするのを感じていた。

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