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夏途中経過エッセイ

 渋谷ストリーム近くの歩道橋から見上げた高速道路を、牛を乗せたトラックが走行していた。道行くギャル(おそらく)がそれに気づいたのに続いて私は見上げたのだ。気づきを得る機会が明らかに減ってきていて、人間楽なほうへ楽なほうへと流れたら、徐々に視野が狭まっていくのだろうか、牛たちはどこから来たのだろう、やっぱりマザー牧場だろうか、全然違うかもしれない。自分の知らないところで世界は回るし人生は営まれているのに、SNSをやっているとその全てを知ってしまいそうで怖い。脳みその外付けハードディスクがほしい。他人事だと思っていたアメリカの分断が、今明らかに日本に訪れようとしているけれどそれもインターネットだけの話で、職場では分断なんてみられない。世論とはいったい何なのだと思う。相手を傷つけることをためらわない発言やコミュニケーションを、それを本当に「論」としていいのだろうか。10年以上前からTwitterをしている。あの頃はこんなことなかった。南アフリカW杯を実況し、広瀬香美しか有名人をフォローしていなかったあの頃に戻りたい。noteだって始めた当初とは明らかに雰囲気が変わっている。運営元の不祥事を含めて。安住の地なんて長くは続かない。ことにインターネットにおいては。

 京都に残してきた友達が線香花火とスイカをやっていてひどく羨ましく、嫉妬をしてしまった。今年は夏らしいことを何一つやっていない。川沿いでその日の夜2食目となる担々麵をむさぼる片思い相手を見ていただけだ。これは一方通行の思いでしかない。誰かと共有してこそ夏なのである。それは明らかにそうなのだ。2年前の夏、「田植えフェス」と化したRUSH BALL1日目の帰りに、ドロドロになり異臭を放っていた靴を最寄り駅のごみ箱に捨てた。その時にその友達は一緒にいて、ああ自ら孤独を望んで東京に出てきたのか自分は、と悲しくなる。『サマーフィルムにのって』のハダシ組のひと夏もなんだかうらやましい。海に行きたい。フェスで半分くらい知らん曲でも楽しみたい。何をもって夏とすればいい?あれほど暑い中野球をしていたから得意だったはずの日差しに対しても、現場監督を3時間しただけで翌日まで軽い熱射病を引きずったあたり、もう敵わなくなってしまっている。

 せめて夏の小説を一つでも書ければ。脚本に舵を切る覚悟を決めたのだから、趣味で一つ短編を書けばいい。存在しないはずの夏を思って書いたそれを自分の夏と錯覚させてしまおうか。人生の3分の1は誤解とともに進んでいると思う。その覚悟があればより楽に生きていける。

 夏曲のプレイリストを組んだ。8月のプレイリストのつもりでいたけどすっかり夏曲が集まってしまい、自分の夏に対する意識の高さに驚いた。ポップソングに求められる機能の一つが人生の場面を具体的に切り取る、または彩ることだろう。みんなそれに応えている曲ばかりだ。オフィスと自室の往復だけに辟易とする夏は、この中盤でどうにか終わりとさせていただきたい。


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