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『怪物』

 5月は1度しか映画館に行かなかった。多忙?森道に行ったりしてやたら土日が埋まっていたから?仕事ではやる気持ちがそうさせた?よくわからないが、まるでそのツケが回ってきたかのように、仕事で今までの自分からしてあり得ないようなミスを連発していた。映画を観る行為、否映画館に行くことそのものが、もはや自らのライフスタイルの中に埋め込まれているのではないか。意識的に映画館に足を運ぶ、そうすることで救われていた思いが多少なりともある。文字を読んでいて目が滑るように、映画を観ていて仕事のことがふと頭に浮かんであれはどうしようかね、と思いを巡らせるのをやめること、そういう動作一つ一つが気持ちを救っているのかもしれないと思った。

 反して、6月は2日目にして映画館へ行った。金曜日。公開日。そりゃあ、そうだ!『怪物』公開日。初めて発表されたのはいつだったか。是枝裕和×坂元裕二というその報せ。わたしは是枝監督の切り撮る「美しさ」のファンであり何より坂元裕二の大・大・大ファンである。さすがに映画館行きますわ。瑛太、田中裕子、高畑充希の坂元作品常連に、『万引き家族』の安藤サクラも参加と、演者も万全。しかし今作さすが是枝作品と言うべきか、そのスクリーンの中心には子役たちの姿がありました…

※ネタバレ含みます。

 私は坂元裕二のことが大好きで、マッチングアプリのコミュニティやSNSで「坂本」と誤記されているのを見るだけでキレるほどだ(※同じ文章の中で「坂本」と「坂元」が混在するのはいい、それは推敲のミスで、問題の本質が違う)。「好きって言っているのに漢字を誤用するってその時点で愛がないことを自白しているようなものじゃないですか、自分の人生の中でその人が占める割合の狭さを自白しているようなものじゃないですか」というオリジナル・光生さん(ex. 最高の離婚)の声が脳内で再生される一方「漢字?漢字を間違えたからどうしたっていうんですか?そういうところにこだわる人って結局人の誤りを指摘して自分が気持ちよくなりたいだけっていうか、そもそも漢字の間違いを指摘する人って挨拶って漢字で書けるのかな」とオリジナル・慎森が脳内で喚いていたりする。坂元裕二はたびたび、こういう演劇的な癖のある会話劇が魅力として挙げられるし実際にそれはそうだと思う。ドラマ・映画を観ていてこんなん坂元裕二しか書かんやろ、というセリフはよくある(『初恋の悪魔』の「食パンマンの絆創膏しかない」のくだりとか今作の安藤サクラが消防隊に「頑張れ〜!」と叫ぶ姿とか)。

 ただ、私が今まで本当の意味で彼の物語に魅入られてきた要素は他にあって、それは ①虚をついて大切なことを思い出される、類稀なるミスリード②大多数から爪弾きにされた人たちが営む密かな愛情を描くこと③レトリックの鬼であること おもにこの三要素である。(③については今作比較的控えめであったように思えるので割愛、そんなことないかもしれないが)

 ①について。坂元裕二作品は稀に「何も起こらない作品」文脈で語られるがめちゃくちゃ「何か起こる」。『大豆田とわ子と三人の元夫』6話では地獄の餃子パーティーで散々恋愛のことを語り尽くしながらも、最終的にかごめが絶命してしまうことで「そもそも生きているということ」の尊さを思い出させる。『カルテット』の真紀さんにしてもそう、「夫の失踪」が物語の軸となるものの、やがてそれ以上の「嘘」が明らかにされ、物語の見え方が180度変わる瞬間がある。

 物事、ひいては人間は、一つの眼差しから見つめるだけでは理解することができない。撮影の現場にいくつもカメラがあるように、様々な視座から見つめないと見えてこないものが多々ある。必要なのは視座だけにとどまらないだろう。様々な立場からひとつの事象を見つめることでようやく見えてくることがある。「ドラマ脚本家」であった坂元裕二はそのことを過去作品でも繰り返し描いてきていて、今作『怪物』ではそれが一つのギミックになっていた。前半2幕で描かれた「社会」と隔絶された第3幕の「楽園」。少年2人は山奥に楽園を築いていて、ただそこでかけがえのない時間を過ごしていただけだった。あ、坂元作品だ、と思った。何故か『最高の離婚』で光生と灯里が身を寄せていた笹塚の居酒屋の場面を回想した。そう、魅力その②である。たった2人だけの楽園、そんな場面をずっと描いてきたのが坂元さん。巻夫妻がバスローブを突然おっ広げること、馬淵とつみきっつぁんのワンルームでの愛、麦くんと絹ちゃんが「カラオケ屋さんに見えるカラオケ屋さん」で歌った『クロノスタシス』。それが今作では諏訪の山間部、廃電車の中で「怪物だーれだ?」と遊ぶ少年たちなのである。

 けれどユートピアは有限である。様々な外的要因(いじめ、教師の誤った介入、母親から無意識的に強いられたり、片や父親が意識的に強いてくるマチズモであり人権侵害)にそれを乱されていく、そして最後は自然の暴力に飲み込まれていく——筋書きとしては坂元作品の王道だと思う。もちろん細部の進化もあれど、今までわたしたちが愛してきた坂元作品に「カンヌ脚本賞」が与えられたことで、多くの大好きなキャラクターたちの顔が思い浮かぶ。

 そしてこの②の要素に是枝監督の演出が入って、今作はとんでもなく「美しく」なっていた。わたしは『ベイビー・ブローカー』の観覧車のシーンが大好きなのだが、3幕の2人のシーンは終始その気分を味わうかのようなものだった。時には光、時には影を使って2人だけの楽園が演出されていた。楽園。わたしは何故かこの作品のティザービジュアルを初めて観た頃から「楽園」という言葉を重ねていた。

 ラスト。2人が行き着いたのは「生まれ変わりなんてなかった!」ということ。自身のアイデンティティをそのまま受け入れ叫び散らしながら走り抜ける草原、そこに眩い光を当てる是枝監督という人の眼差しの優しさ、この2人で映画を作ってくれて本当に良かった、という場面が1番最後に来て、圧倒されてしまった。ただ、是枝監督が優しくも残酷な作り手である、ということもまた、このラストを観て思い知らされたのである。坂元作品らしく、核心めいたこと(誰が火をつけた?孫を轢いたのは校長?)は明言されず、シークエンスのみで描かれる。だからこそ最後の場面の2人についても、その美しさに魅入られつつも観客を「気持ちいい」ところに終着させない。

 本作を観た翌々日に『アフターサン』を観て、そちらはそちらで脳裏に残る映像と、使用楽曲『Under Pressure』が頭の中で再生されている。平日に突入したいまもなお、だ。そっちはそっちで何か書きたい。考える、感じる、ずっと忘れたくない、忘れたい、ひどい、うれしい、最高!…映画を観ている時の様々な感情、あまりにも人生に必要だ。稀代の作品、おそらくわたしはもう一度観る。

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