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泣く

泣く という行動 これが生得的な行為だというのは、おとなになると

すっかり忘れていることです。
休みに一日面倒をみていると なにかと泣きわめく息子に、
「なに泣いとんねん! ミルクも飲んでるし、エアコンで涼しいし、布団もタオルも清潔だし、
なにが不満やねん!」
とか、まったく筋違いなツッコミをしていることが あります。

赤ちゃんは 泣くことでしか じぶんを表現できません(じょーしき)。

ですから、正しい対応は、
「こんどは どーした? なにか気に入らんことがあったのかな?
わしはどーしてあげたらええんかな?」と、いじる。
ですね(おーざっぱ)。

泣く、ということに トラウマみたいなものが あるのかもしれません。
むか~しむかし、
N市赴任中に出会ったバツイチ女性と婚約したあと 転勤辞令に
ホイホイと 社畜らしく素直にしたがって N市を離れたくない婚約者を
置いて 仕事中毒にかかりすっかり酔っぱらいになっていきました。
知らず識らず 心身が拒絶反応を示しだして、10年目の冬、突然、天啓のごとく
「やーめた」と
なったわけです。
それでも、偶然うまく仕事がつながって 路頭に迷わず働いていたのですが、
どーも 肩書以外にはなんの土台のないまま フラリーマンしているのに 背筋がうすら寒くなって、当時32ですね、
「えーい!やっ!!」と
背水の陣で 医科大学の看護学科に 一般入試をうけて進学することにしたんですね
(当時の会社にも、お世話になっていた先輩にも 内緒で)。
とーぜん というか、婚約者には 三十路のじぶんが 学生に戻りたいなんて 言い出せず。
で、受験する直前になって(11月くらいだったか)、どしゃぶりの秋雨のある日、
脱サラ計画を ヒマしていた営業中の車から 電話で ぶちまけたんです。
婚約者は 泣き出しました。
ぼくは 大人がメソメソ泣くなんてと 幻滅しました。
5年くらいの付き合いは 一瞬で 心から消えました。

あのとき、泣く というのは、 ”大”のおとなの(女性が)することではない、
という 強烈な思い込みに あらゆる認知 判断が 左右されてしまいました。
男は メソメソするもんじゃない。
そういう ジェンダーに 思考が支配されていたのもありますが、
それ以上に、
じぶん自身に 苦しくても 悔しくても 痛くても(アニメのテーマソングではありません)泣くな! と無意識に いいきかせて やせ我慢をしていきてきた。
ManBox というだそうな。
そういうじぶんの人生の歪みを客観視もせずに、
婚約者の 
人生のパートナーになろうという相手の決断に、泣くという反応しか返せないって、どういうこと?
と、歪んだ気持ちしか持てなかった。

あのとき、泣く という行動は 人間の生まれながらに身につけている まったき
自然な 素直な 気持ちの 表現方法なんだって、知っていたら。
子どもをもって 初めて、 あのときのことを 心から 謝ることができるような気がしました。
もしかして、別の選択もあったかも。

幸か不幸か 時間はもどりませんが(泣)

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