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批判からしかうまれないもの

前回、(宗主国しぐさをやめない)〈東京〉なんか滅びればいい、と書いたら、予想通り怒られたり呆れられたりした。「そんなことを言っても、東京と地方の対立を煽るだけで何の解決にもならない」「争いや批判は何も生まない、もっと建設的な議論を」みたいなおことばも頂戴した。既視感があるなあ、と思ったら、大学で講義の最後に学生たちに提出してもらっているリアクション・ペーパーの文言がちょうどそんな感じなのであった。

そこに並ぶのは「政府の人もがんばっているんだから、批判するのとかおかしい」「政治家なんてみんな悪人なんだからどうせ何も変わらない」「非正規もひきこもりもホームレスも生活保護も単なる甘え、ちゃんとがんばればそんなことにはならない」等々、苦笑せずにはおれないほどの典型的な自己責任論と冷笑主義。講義を受けて知識を獲得した後なので、だいぶ少なくなってはいるものの、なおその無知と冷酷とを強固に保持したい向きもいるのである。

そうしたレパートリーのひとつに、上記の「争いや批判はよくない」なる言説がある。奴隷制を批判すると「いや、奴隷主にもいい人はいたはず」とか、ファシズムを批判すると「いや、ヒトラーも家族思いだった」とか返ってくるネトウヨしぐさがその典型だが、そうした相対化(でもなんでもないのだが)にまんまと絡めとられ、批判そのものを「自粛」してしまっているというのが、本邦ネット世代のデフォルト・モードになっているらしい。

ファシズムやレイシズムがどうして批判されるかといえば、どんな人にも基本的人権を保障することが「近代」の諸システムを回していくのに必要な標準装備になっているからで、それを拒絶するならかつての〈疑似近代〉に回帰するしかない。本邦の保守派はむしろそれ――明治以来の貴族制――を望んでいるようだが、それがいかにおぞましいかは現在のコロナ禍で絶賛体験中である(貴族仲間・電通にはお金を配り、下々にはマスクを配る貴族制)。

地方差別もまた然り。それは、明治以来の〈疑似近代〉においてヒト・モノ・カネを中央に集めるために構築された表象に大きくは由来し、150年にわたって強化されてきた神話である。自分たちが植民地を強要される〈疑似近代〉を継続したいならともかく、それが嫌なら今後も従い続ける理由はない。声をあげたらいい。差別なんて、差別を続ける〈東京〉なんて滅びろ、と。そうした声の先にしか、東北が人間扱いされる未来などありえないと思う。(了)

『よりみち通信』12号(2020年8月)所収

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