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「教養」の居場所をめぐって――「東北の春」に向けて(29)

もうだいぶ前から、大学や専門学校で(非常勤講師として)教えるということをしている。はじめは自分のライフワーク――〈居場所づくり〉の市民活動――を支えるライスワークくらいの軽い気持ちで引き受け、アルバイト感覚で行っていた仕事だったが、いつのまにか勤務校や担当科目、コマ数が増え、現在は年間29コマ(計8校)の「専業非常勤」になってしまっている。

先日、勤務先からメールがあり、うち18コマぶんを占める科目を廃止するので契約は更新しませんと一方的に通告されるというできごとがあった。16年間とりくんできた〈居場所づくり〉実践である「ぷらっとほーむ」を2019年に解散して以来、新型コロナウィルス禍もあって、ライフワークなきライスワークだけにただただとりくんできたので、急に足元が崩れた感じである。

しかし、ただショックを受けて倒れたままでもいられない。コマ数が大きく減るということは、収入もまた激減するということである。空いた時間で何か別の仕事をつくりだし、収入を確保せねばならない。タイムリミットは約1年。これが、筆者の現在おかれた状況である。何をするか決めねばならないが、その前に、この場を借りて自身の現状を少し分析的にふりかえっておこうと思う。

ライスワークだからといって、何のえり好みもなしに仕事を引き受けてきたわけではない。大学や専門学校で学生たちに教える――中心は「社会学」だが、社会教育や若者支援、市民活動、ファシリテーションなど、さまざまな科目を担当している――ということには、筆者自身にとって重要な意味がある。ライフワークに通じる側面がある、といってもいいかもしれない。

というか、従事するなかでそういう意味を見出すようになってきたということなのだろう。それは、どのような意味か。筆者が担当しているのはいわゆる教養科目で、それぞれに専門をもち、具体的な目標をもって学ぶテーマ――例えば、教育、看護、保育、芸術など――がある学生たちが、そこに本格的に入っていく前あるいはその傍らで、視野を拡張し、ひろく世界を俯瞰するための学びを行う。

教養科目というと、「何のためにそんなことを?」「せっかく入学したんだから早く専門を学ばせろ」「テキトーに終わらせて余った時間で遊ぼう」など、冗長で無駄で意味のないものという捉えられかたが一般的かもしれない(筆者も学生のときはそうだった)。だが、その冗長性には意味がある。それは、世界そのものの冗長性や多様性の反映だからだ。要はそこで世界の多彩さを学ぶのである。

このことは、専門知を深く学ぶ人びとにとってとりわけ重要である。彼(女)らはそれぞれの分野の専門性を身につけ、病む人の看護にあたったり、子どもに何かを教えたり、作品をつくって美術館に展示したりする。しかし、その価値を必要とする人びとにただしく届けようとするなら、自身のもつ専門技術・知識のみならず、それを享受する相手の側にも適切に通暁している必要がある。

この点で、世界の多様さにふれることでそれらへの想像力を養っていく教養教育には重要な意味と役割がある。その患者さんは性的マイノリティかもしれないし、その子どもは虐待を受けているかもしれない。展示作品が含むステレオタイプに、観客の人びとの偏見が強化されてしまうかもしれない。このように、世界の多彩さを知らなければ、それをきちんと届けることさえできないのである。

そう考えると、ながらく地域で市民活動にとりくんできた筆者が「専門家の卵の人たち」に教養科目を教えることの意味も明らかになるように思われる。いずれ彼(女)らはそこで専門性を学んだ後、地域に着地し、その場所で人びとと関わりながら生きていくことになる。そうした地域の現状、そこにある多様性や課題などを彼(女)らに媒介するというのが、筆者のしてきた仕事なのだった。

ところで、上述の通り、そうした仕事を大学や専門学校は内部人材に担当させるのではなく、外部人材――筆者のような使い捨て非常勤――に安価で請け負わせて済ませてきた。それはつまり、その意味や役割をただしく認識しそこねているということである(さらにはそれらに割く予算さえもカットしようとしている)。その先に待っているのは、「使えない専門家」の大量排出だろう。

ここにあるのは、「教養教育の居場所」という問題だ。専門家たちの活躍のフィールドが病院や学校、美術館などの施設から幅広く地域に移行しつつある現在、彼(女)らがその力を適正に活かそうと思うなら教養教育を欠かすことはできない。だがいま、それは冗長で無駄なものとして、この社会のなかに居場所を見出しづらくなっている。この問題に対し、学外からできることは何だろうか。

(『みちのく春秋』2021年冬号 所収)

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