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フリースペースにおける動機の調達について

前回、SORAにおいて子どもたちを迎え入れるスタッフは「教育」や「指導」のような学校的な身振りを採用していないのだということやその根拠と意味について述べたが、その最後で、「指導」を回避することの効用に関して、「あえて“指導=教育”を行わない場をつくるという意味においてのみ教育的である」と述べた。では、そこで語られている「指導」とは異なる教育的身振りとはいったい如何なるものであるのか。今回はそのあたりを記述してみたいと思う。

一度でも来てくれたことのある方なら分かると思うが、SORAでは通って来た子どもたちが思い思いにそれぞれの望む過ごしかたをしている。スタッフや友達とお喋りして盛り上がっている子たちがいるかと思えば、黙々と読書している子、ぼーっと考え事している子、インターネットでなにやら熱心に調べものをしている子など、本当にさまざまだ。ところが、こんな話をすると関係者の大人たちは決まって驚愕する。「不登校の子どもたちが? ウソでしょ!」というわけだ。

SORAでのびやかに過ごし、それぞれ何かに夢中の子どもたち。彼らがどうやって動機付けや欲望を獲得したのか、そこがどうも「謎」らしい。フリースペースにおける動機調達の方法とは何か。種明かしをしよう。それは「何もしない」ということ。彼らに共通しているのは、誰も、誰かに強制されて何かをしているわけではないということだ。というのも、SORAには通ってきた子どもたちを何の合意もなく一律に規制するようなルールやメニューの類は存在しないからだ。

SORAにやってきた誰しもが、最初は「やりたいこと」の空白にとまどう。しかし、その空白のなかだからこそ、他者に急かされることなく、ゆっくりじっくり考え試行錯誤しながら、自分の欲望や動機を確認できるのではないかと思う。この、それぞれの動機模索のプロセスを、SORAはとりわけ大事にしている。自分で選択するプロセスであるだけに(他人に指示/強要されるものではないだけに)、その試行錯誤はそれだけ自らの自信にもつながりうるであろうから。

そしてそうであるがゆえに、スタッフは子どもたちへの積極的な干渉や働きかけを禁欲している。あくまで、子どもたちのイニシアチヴを待って、それらを支援するわけだ。しかし、実はそれだけがフリースペースの動機調達法の全てではない。ちょっとだけ考えてみよう。人はいったい何によって動機づけられるか。これは何も「不登校」の「子どもたち」のみに限定される話ではない。我々大人にもそのまま適応可能だ。

金銭や身体的な欲求充足をのぞけば、人は「おもしろそうな人/もの」に動機づけられるのではないかと思う。何やら楽しそうに生きている人やそうした人々の場には、自然と関心が集まる。そこには模倣の動機がうまれるもの。「指導」するまでもない。SORAでもスタッフは(というか自分は)そうありたいと考えている。そう考えると、結局のところ、フリースペースにおいて子どもたちの動機を喚起するということはつまり、自分自身の生を豊かにそして楽しく生きるということそのものだ。誰かに何者かになってほしいと思うなら、まずは自分がそうなるしかないのだ。何より自分が楽しくそして自由に生きるということ、それが私たちの方法である。

(『SORA模様』2002年10月 第18号 所収)

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