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フリースペースと“速さ/遅さ”について

フリースペースSORAとは何かについて、はじめての人に語る際に必ず説明するよう心がけていることがある。それは、SORAでは、フリースペースという場にいる子どもたち1人1人の時間感覚やペースを最大限尊重する構えをとっているということである。こうした構えには、いったいどのような思想的背景があるのか。今回はそのあたりを記述することで、フリースペースの社会的意義というものについて考えてみたい。

子どもであれ大人であれ、現代のこの高度に資本主義化された社会に生きるぼくたちは、「生産的であれ!」とか「効率的であれ!」といった規範を無意識の内に身体化されるプロセスの内部にある。この規範を時間という観点から語りなおすと、「もっと早く!」ということになる。極論的な言い方になるが、学校も企業もこの「速さ」の肯定を前提として回っているシステムだと言えるだろう。

現代日本のフリースクール/フリースペースは、一般的には、主に不登校児/生やひきこもり青年の居場所として理解されまた実践されているわけだが、速度という観点から見たときに、そこには切り離しがたい連関が存在している。不登校やひきこもりとは、学校や企業といった、他者により「速さ」を強制されるような場のそうした敷居の高さに違和を感じそれらの場を回避したり拒否したりしたケースだと言えるためだ。

そうやって他者により強要される類の「速さ」を拒絶した人たちにとって、敷居の低い場であろうとするなら、当然そこは、できうる限り「遅さ」が許される場、別の言い方をするなら、自らの速度を自分で決めてよい場であらねばなるまい。速度の自己決定権。フリースペースSORAが、子どもたち個々人のペースを尊重する根拠はまさにこの点にある。とはいえ、速度の自己決定などというものが許容可能かどうか、疑う向きもあろう。

フリースペースという実践の有する最もラディカルな側面は、まさにこの点にあると私は思う。スローに生きること、試行錯誤しながらゆっくり進むこと、ムダな時間を過ごすこと、無意味で無目的なものを愛すること、そしてその「遅さ」のなかで、手間ひまかけてじっくりと関係を築いていくこと。スロー・ライフ。こうしたこと全てが、効率性や速度を重視する現代日本の風潮のなかで静かに風化しつつあるような気がする。

そんな「速度社会」のなかで、フリースペースは「遅さ」という価値を積極的に生きようとする数少ない実践のなかのひとつなのではないかと思う。そうであればこそ、フリースペースは単に不登校やひきこもりの子どもたちのためだけに必要な場なのではなく、「速度社会」に生きる者全てにとって何らかのかたちで必要なものなのではないだろうか。フリースペースの社会的意義はまさにその点にあるのだと思う。

(『SORA模様』2002年8月 第16号 所収)

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