「主体としてとどまる」という選択。
■先日、山形県労働相談センター(山形県労連)にて、相談員の方々と「若年支援」をテーマに懇談する機会があった。昨年末には「フリーター労働相談110番」を開催するなど、若年労働支援に関し独自の取り組みを行っている方々であるということは以前より知ってはいたが、もっとよく知りたいと思っていたので、今回具体的に交流したり対話したりできたことは非常に有意義であった。そこでは幾つかの重要なヒントをいただいたように思う。以下で記述したい。
■労働の現場では、不当解雇や賃金未払い、いじめやセクハラ、うつ症状など、学校に劣らず、さまざまな問題が日々発生している。年長者よりも立場の弱い若年労働者や、正社員よりも立場の弱いパートタイム労働者あるいは「フリーター」、男性労働者よりも女性労働者において、それらは顕著であるだろう。ここで少し考えてみてほしい。もしあなたがそれらのうちで、より弱い立場に(たまたま)身をおくことになり、運悪く上位者からの被害にあってしまったとしたら?
■かつて、わたしはこう語ってきた。「そこが自分にとって居る価値のない場所なら、そこで自分が無力な歯車に過ぎないのであれば、さっさと場所を変えればよい。自分を必要としてくれて、自分が必要としている場所を求めて、さっさと移動すればよい」と。自己選択のすすめ。同じ根拠で、弱者の側にイニシアチヴを認めない――「世間とお前が対立しているなら、お前がこころを世間に合わせよ」と考える――「こころの専門家」には批判的なまなざしを向けてきた。
■だが待て。移動した先が「今よりマシ」だなどと、いったいどうして前提にできるだろう。誰もが軽やかに「移動できる」など、いったいどうして前提できるだろう。そう考えるなら、「逃げる」だけでは、「降りる」方法を伝えるだけでは、不十分だ。「逃げる」や「降りる」以外に、私たち弱者にできることは何なのか。相談員の方々によれば、「それは、そこに踏みとどまり、そこをよりマシな環境に改革していくことであり、労働組合はその手段だ」ということである。
■「逃げる/降りる」のでも「客体としてとどまる」のでもなく、「主体としてとどまる」こと。イニシアチヴの奪還。支援側から言えば、彼(女)が「主体」であれるための支援を行うこと。そう考えるなら、最近はやりの「ニート支援=就労支援」の不完全さが際立ってくる。若年を襲う困難は、就労時をもって終わるわけではない。労働過程でもそれは続く。とすれば、真に必要なのは、就労後も継続される支援、「就労支援」ならぬ、労働支援なのだ。
※『ぷらっとほーむ通信』035号(2006年03月号) 所収