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「地域」のいま、そしてこれから。

■「地方消滅」という衝撃
 突然ですが、「地方消滅」論というものをご存じでしょうか。これは、2014年に民間シンクタンク「日本創生会議」(増田寛也氏が座長)が人口減少問題に関する報告書――通称「増田レポート」――のなかで提起した議論です。同報告は『地方消滅』という題名の新書になっていますので手軽に読むことができます。
 「増田レポート」は、全国1799自治体のうち896の市区町村を「消滅可能性都市」――2040年までに若い女性の人口が50%以下に減少、自治体の存続が危ぶまれると予測される市区町村――と名指しで公表したことで話題となり、広く知られるにいたりました。
 山形県に関していうと、35市町村のうち8割に当たる28の市町村が「消滅可能性都市」とされました(該当しないのは山形市、米沢市、寒河江市、長井市、東根市、山辺町、高畠町)。これと同じ水準で、8割以上が「消滅可能性都市」になっているのが青森、秋田、岩手、島根。東北や山陰に偏っています。
 「消滅だなんて大げさな」とは思わないでください。ちょっと周囲を見回していただけば、郵便局や銀行の支店、小学校やお寺など、これまで私たちの生活を支えてきた社会的なインフラが次々と閉鎖、縮小している光景に出会うことができるでしょう。それ(公助の縮小・消滅)はすでに私たちの現実の一部なのです。
 
■「地域づくり」から「地域共生社会」へ
 こうした「地方消滅」言説には前史があります。1990年代に登場した「限界集落」論です。「限界集落」とは、人口の半数以上が65歳以上で、住民自治や冠婚葬祭などの共同生活が維持困難になりつつある集落のこと。総務省・国交省の2019年調査によれば、その割合は集落全体の約32%に及ぶそうです。
 さらにいうと、この「限界集落」言説にも前史があります。1960年代以来の「過疎/過密」論です。東京や大阪、名古屋、横浜のような太平洋岸の大都市圏に全国各地から若年人口が流入し「過密」が生じた一方で、その若者たちを送り出した地方では人口が減少し「過疎」が生じたという地域格差の問題です。
 これらの問題系に対しては、1970年代より地域主体のさまざまなとりくみが行われてきました。その一潮流が、地域ならではの価値を見出して観光資源とし、よその人びとをよぶというもので、それらは現在「地域づくり」と呼ばれています。交流人口を増やし、やがては移住・定住につなげようというものです。
 同じ発想が地域内のケアに適用されたものが「地域共生社会」です。要は、顔の見える助け合いのことで、「地域づくり」が足もとの価値を再発見しそれを経済に変換していくものであるなら、「地域共生社会」は、見出した地域資源をケアや福祉のために使っていこうというもので、両者は同じまなざしに基づく実践です。
 
■「地域共生社会」の限界
 顔の見える助け合い(共助)としての「地域共生社会」。そう、私たちはいまや、自分たちが必要と考えるケアや支援を自分たちでつくっていってかまわないし、むしろそれが推奨されているのだということです。介護保険やNPO、労働者協同組合など、それを後押ししてくれる制度やしくみもたくさんあります。
 とはいえ、もちろん共助は万能ではありません。それらは、公助――政府による非人称の支え――の不足ゆえに各自が自助――自分(とその家族)で対処すること――に努めねばならなくなり、その過重さから諸種の〈生きづらさ〉が生じていて、それをカバーするためにやむなく求められているものであるからです。
 そもそもが、広範囲の人びとに広がった〈生きづらさ〉――マクロな社会問題――を、基本的にミクロ・レヴェルの実践である自助や共助でカバーできるはずがありません。例えば、7人に1人といわれる「こどもの貧困」に、月1回開催のこども食堂の実践で対処できるかといえば、答えは明らかでしょう。
 加えて、「地域」とは、望めばそこから何でも欲しいものがとりだせる「ドラえもんの四次元ポケット」ではありません。それが中心市街地の「地域」かそれとも中山間地の「地域」かによって、そこにある資源の量や質は変わってくるでしょう。それを一律に「地域内で助け合いを完結させよ」は乱暴に過ぎます。
 
■共助を公助に変換する
 このように、公助の不足を補うための現場のあがきとして、現在の共助はあります。しかしそこには、その問題を解消するのに何をすればよいか、それにはどんな資源(人・モノ・金など)が必要で、それをどう調達するかといった問いを、実際のとりくみを通じて明らかにしていく社会実験の意味合いがあります。
 とはいえ、そうした実験の成果が政策や制度に活かされているかというと、そうとはいえない現状にあります。筆者の観察では、市民活動が低調といわれてきた東北や山形でも、3.11以降は「地域」内で多彩な主体が覚醒し、共助の活性化が生まれています。しかしそこからの公助への媒介がストップしています。
 例えば、コロナ禍で急増した不登校。教育行政はなんとか学校に復帰してもらおうとスクールソーシャルワーカーの活用などを少しずつ進めていますが、焼け石に水。それに対し、民間では現在、親の会が続々と立ち上がり、子どもたちが学べる学校外の居場所をつくりだそうと県内各地で運動・活動を展開しています。
 しかし、そうした現場からの声である「公助の再建・拡充」は未達成なまま。それどころか「公助の削減」を掲げる――新自由主義と呼ばれる立場です――政治家が選挙のたびに議席を増やしてきました。ここにあるねじれの正常化こそが、地域社会の課題ということになるでしょう。私たちの選択が問われています。

※長井市地域づくり推進課生涯学習推進室(自治公民館連絡協議会事務局)の依頼を受けて書いたもの。その後、監修がたっぷり入ったようですが、こちらが原文となります。

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