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「待つ」とは何であるか。

■不登校・ひきこもり等の悩み語りに対する紋切り型の返答パターンに、「待て」というのがある。いたずらに登校刺激ばかり与えるのではなく、当事者であるその人の悩みや葛藤や迷いや逡巡を、その過程とそこでの試行錯誤とを尊重し、腰をすえてその人の成長に寄り添うこと。その人がこれまでさんざん奪われ続けてきたであろうイニシアチヴを、その人に戻してあげること。そういう、支援者の側のかまえとして、「待て」は解釈されなくてはならない。

■だが、この「待て」は、それが実際の支援現場で用いられるようになると、上記のような当初のねらいや意味づけからはかけ離れていくようになり、信じがたいことに、「本人に動機づけが存在しないなら、それらが自然発生するまで待つことがふさわしい」といった、支援者側の怠慢や手抜きをも肯定するような機能を果たすようにもなった。「動機づけの自然発生」が、およそありそうもないということを考え合わせるなら、ここでいう「待つ」とは、放置することに等しい。

■当然ながら、「待つ」ことは、「何もしないこと」ではないし、その人に干渉せずに「放置すること」でもない。過剰な介入でも、過度の放置でもなく。むしろそこで求められているのは、適度の介入であり、適度の放置なのだ。だが実のところ、その「介入=放置」をどのような具体的な型において実践するかについては、適切な言語化がはかられずにきた。そこで改めて問いたいと思う。「待つ」とは、具体的に言うと、いったい何をすることなのか。

■わたしたちの考える「待つ」ことの内実とは、第一に、当事者のその人の中に動機づけが発生しやすくなるような環境要因の整備であり、第二に、つかず離れずの距離を保ちつつ、緩やかな刺激を与え続けることである。前者に関しては、欲望/動機とは結局のところ「みんなが欲しいものがほしい」に尽きるわけで、ということは利用者各自が互いの欲望のありか――わたしが欲しいものは何か――を目にすることができ、相互に参照し合えるような「欲望の可視化」が有効だ。

■後者に関して言うなら、問いかけ/返答などを通じて、その人が自分でも気付かずにもっている価値を掘り起こし、それらを言語化する手伝いをすること。その上でその人を「誘惑」することであり、その人の選択を「見守る」ことである。肝心なのは、イニシアチヴはあくまで当事者のその人にあるのだという事実を忘れないことだ。まとめよう。「待つ」とは何もしないことではない。その人のためにやれることをやりながら、距離を保ちつつ寄り添うことなのである。

※『ぷらっとほーむ通信』034号(2006年02月号) 所収

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