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36.取り残された人


 日曜日になった。

 家にはシバと僕しかいない。

 父は本当に応援に旅発った。「お好み焼きたくさん食べてこよう」と、羨ましがる千紗に何度も言っていた。

 母と千紗は出掛けていた。

 何でも学校の視聴覚室でパブリックビューイング的なものをするみたいだ。「一緒に応援しない?」と言ってきたけど断った。気まずい事は間違いない。

 父と母には、むかつきさえした。息子が辞めたのに、今までと変わらずに率先して応援に行く。皮肉としか思えない。

 家に誰もいなくなったので僕は一階のリビングに移動してテレビを点けた。チャンネルはもちろん駅伝中継だ。

 画面では注目チームが紹介されていた。映っていたのは一年生の兵藤だった。兵藤のいるチームが優勝候補みたいだ。高校生区間の全てに、都大路を制覇した兵藤の学校の選手を揃えている。充分に兵藤のチームの紹介をすると、次は一般区間に実力者を置く他のチームにスポットが当たる。

 僕らの県は紹介されなかった。新藤が映らなかった。一区と言っていた。でも当日に変更だってある。こんな時にスマホにギガがないのが腹立たしかった。試しに大会のサイトを開いてみると恐ろしく時間が掛かったのでスマホの電源を落とした。

 選手が続々と道路に引かれたスタートラインに並び始めた。画面では注目チームの選手が順繰りにアップで映されている。兵藤が映された時、その後ろの後ろに紺のハチマキをした見覚えのある顔があった。

 新藤だった。

 あ、と思った時には前の選手の陰に隠れてしまった。

 確かにいる。

 頑張れ新藤。

 心の中で何度も繰り返す。

 映像が後ろに引かれていくと、選手達が一斉に構えた。

 号砲が鳴った。一斉に四七人の選手が走り出した。沿道から歓声が沸き立つ。

 一区は7㎞。

 この区間に高校生のエース選手を配置するチームが多い。顔ぶれも有名な選手が多い。新藤がどんな走りをしてくれるか楽しみだった。と、思っている内にいきなり前に飛び出す選手がいた。

 新藤だった。

 大きなストライドだった。流れるように地面を蹴り上げて前に進んでいく。綺麗なフォームだった。

 ただ気になる事があった。新藤の右膝にはテーピングがある。でも、痛めているようには見えない。それほど新藤の脚の動きはダイナミックだった。大勢の選手が新藤の後ろで巨大な塊になって少し後ろを走っている。

 1㎞の記録は速かった。僕の全速力より速かった。

 実況と解説の人は新藤の積極的な走りを褒めた。そして新藤の名前が個人記録と共に画面の端に載った。それだけで興奮した。知っている人がデカデカとテレビ画面を占領している。手汗が凄かった。まだ序盤で勝負はこれからなのに、もう新藤が凄く思えた。

 こんな人と一緒に練習していたんだと思うと、嬉しくて誇らしかった。と、同時に今の自分を思い出して落ち込む。もったいない事したなと。

「この新藤君は去年の中学生区間で区間記録を更新しています」
「ああ、そうなんですね。でも、まだ一年生ですからね。これからの選手だと思います。悔いのないように思いっきり走って欲しいです」

 ついでのような言い方に腹が立った。「なめんなよ」と思わず声が出ていた。

 新藤は先頭を走り続けた。

 中間地点を過ぎると、後ろの塊から、一人、また一人と、選手が零れていく。まだまだ塊は大きいけど、それでも少しずつ小さくなっていた。

 僕は手に汗を握りながら画面を見守った。その間も後ろの塊は小さくなっていった。

 どんどん選手が置いていかれていく。塊の後ろは蟻の行列みたいになっている。もう画面に映らない選手もいる。新藤についていけない選手があんなにもいる。本当に凄いと思った。あれだけたくさんの選手を、新藤は振るい落としている。それでも、尚も前を見て走り続けている。

 新藤がさらにペースを上げた。軽快でいて力強い走りだった。後ろの塊が面白い程にばらけていく。離れていく選手はどれも歯を食いしばって辛そうだった。それに対して、新藤は涼しい顔で淡々と走っている。

 溜息が出た。どこにそんな力があるんだろう。何でこんなにも走れるんだろう。

 残り2㎞になると、後ろは数える程度になっていた。新藤の独占映像は続いた。その姿は最高に胸を震わせた。

 気がつくと僕は立ち上がっていた。座ってなんかいられない。新藤はとんでもない事をしている。もしかしたら一位になるかもしれない。

「これはもしかするともしかしますよ」
「そうですね。本当に素晴らしい走りです」

 実況と解説の声にも熱があった。「ほら見ろ」と、また抑えきれない声が出た。

 新藤は依然と淡々と走っているように見えた。後ろも気にしていない。開いた口が大きくなってきたけど余裕はありそうだった。

 後ろはいよいよ五人だけになっていた。

 ただ、この五人は僕でも知っている実力者だった。都大路でも区間賞を獲った選手もいるし、新藤が出場したインターハイでも上位になった選手達だ。そして兵藤もその中に残っていた。

 胸を押さえてないと心臓が出てきそうだった。新藤の走りから目が離せなかった。気がつくと、胸の前で祈るように手を握り締めていた。

 もうあと1㎞を切っていた。

 ここで、五人の陣形が変わった。一人の選手がスピードを上げた。それに四人がついていく。あっという間に新藤は五人に吸収されてしまった。

 やっぱり力を残していた。この五人が憎たらしく見えた。正統な走りなのに「卑怯者」と思わず口に出していた。

 新藤の姿が五人の陰に隠れてしまった。でも姿は隠れたままだった。離されていない。まだ分からない。

 一人が抜け出した。

 兵藤だった。二人が後ろにつく。三人の選手がズルズルと後退していった。

 その中に新藤がいた。

 苦しそうだった。でも前を見る目には力がある。

 先頭の兵藤がさらにスピードを上げた。

 残り500m。

 速かった。ぐんぐんと兵藤は後ろを置いていった。映像が切り替わって、兵藤が真横から映し出される。力強いフォームだった。物凄い勢いで景色が流されていく。

 やっぱり全国は凄い。こんな人達がいるんだと思うと果てしなく高い壁を痛感した。


 誰もついていけない──────。


 と、思った。

 映像が先頭を前から映す映像に切り替わる。

 実況が驚いた声を上げた。

 画面には兵藤の少し後ろで走る新藤の姿があった。

 僕は思わずテレビ画面を掴んだ。

 二位だ。しかも先頭の兵藤はすぐそこだ。実況の興奮した声が聞こえる。解説の声は上擦っていた。

 あと200mだった。

 兵藤がチラッと後ろを振り返ると、すぐに顔を戻して腕を強く振った。

 驚いたはずだ。遅れたはずだったのに、まだ追いすがってくる。

 新藤は兵藤に迫った。

 残り100m。

 凄い。凄い。本当に凄い。

 僕は叫んでいた。叫ばずにいられなかった。

 新藤が兵藤に並ぶ。

 映像は二人を真横から映した。とんでもない速さだった。沿道の観客が勢いよく飛んでいく。悲鳴のような歓声が上がっていた。凄い歓声だった。

 二人が同時にタスキを外した。

 どっちも引き下がらない。二人とも歯を食いしばって待ち構える中学生に目掛けて飛んでくる。

 腕を伸ばした。もつれ合うようにしてタスキが受け渡される。

 先に抜けたのは兵藤の方のチームだった。待ち構えていた中学生は、あらかじめ助走をつけていた。それでも兵藤のスピードが速いから突き飛ばされながらタスキを受け取っていた。一方で、新藤の方の中学生は突っ立ったままだった。物凄い勢いで迫りくる新藤にビビっていた。急ブレーキを掛けた新藤からタスキを受け取った時には、もう先頭とは差があった。画面の下で二つの県名が同時に表示された。


 一位に表示されたのは兵藤の方だった。


 新藤は二位だった。


 一気に身体の力が抜けた。

 僕はソファーに倒れ込んだ。テレビから歓声が聞こえる。その音が空っぽになった身体を通り抜けていく。

 動けなかった。感動のあまり何も考えられなかった。

 本当に凄い人だと思った。

 今のこの気持ちを誰かに伝えたかった。衝動的に叫びそうだった。「うちのチームメイトは凄いだろ!」と。

 でも、立ち上がった所で気づく。


 ここには僕しかいない事に。


 それで一気に興奮が冷めた。そして僕は改めて気づく。僕はもう駅伝部じゃない事に。僕は新藤をチームメイトと呼べる間柄じゃなかった。

 ふと駅伝部の皆が浮かんだ。皆は現地で応援しているはず。今頃は新藤に駆け付けて喜び合っているんだろうな。

 テレビから歓声と実況の声が聞こえる。なんか空しく響いて聞こえた。

 ふと思った。

 自分は何をしてるんだろうと。

 今の自分の、この状況が物凄く虚しく思えた。

 独りで昔の仲間の活躍を見て興奮している。誰ともこの興奮を分かち合えずに、独り寂しく虚しい思いをしている。なんて悲しい人なんだろう。

 足が自然と庭に向いていた。カーテンを開けると、背中を向けて座るシバが見えた。

 シバはウッドデッキから見える外の景色を眺めている。ただ道があって家が並んでいるだけの見慣れた景色だ。車も人もいない静かな景色だった。

 サッシ戸を開けると、シバが顔だけ向けた。そしてすぐに顔を戻す。

 少しだけ向けた顔は無感情な顔だった。まるで僕を空気として見たような、そこに誰もいなかったと思えるぐらいの、素気なさ過ぎる態度だった。傷ついた僕はサッシ戸を閉めてテレビに向き直った。

 二区の中学生区間で、順位は15位まで落ちていた。今テレビを映しているのは三区の一般区間で、先頭を走っているのは大学生の人気選手だった。その後ろを実業団の選手が集団を築いて追う展開となっている。その中に県代表の選手はいない。さらにその後ろの集団にもいない。コースが直線になって、かろうじてユニフォームの色が見えて、あれがそうなのかも、と思うぐらいの位置を走っていた。

 先頭は目まぐるしく入れ替わった。大学生の人気選手と実業団の選手の意地のぶつかり合いが展開されて、結局、数人が団子状態となって第三中継所にタスキが繋がれた。

 四区は高校生区間の5㎞。

 キャプテンが走るかと思ったけど、二画面の小さい方の映像でかろうじて見えたのは、知らない人だった。

 この辺りから順位間の距離が離れていった。

 先頭は独走状態だった。後続の差はなかなか詰まらない。このまま終わりそうな予感がした。僕らの県は全く映されない。先頭の映像からも姿は映らない。

 そして先頭は五区にタスキを渡した。独走状態だけど、五区は高校生区間で最長の8.5㎞。この区間に高校生エースを投入するチームもあるので巻き返しはあるかもしれない。

 映像は二画面になって、大きい方は一位を追う後続を映している。僕は小さい方の中継所の映像を見入った。

 五区はキャプテンのはず。

 次々と選手が中継所に飛び込んでいって、そこから選手が吐き出されるようにして走っていく。

 キャプテンの姿は見えなかった。画面の下には通過した順に県名が羅列されている。まだ僕らの県名はない。

 僕は小さい方の映像と下の通過チームを交互に見ていった。キャプテンの姿は見えないし、県名も出ない。もどかしい気持ちでいると、一瞬だけ見覚えのある姿が走ってくのが見えた気がした。

 あ、と声を上げた時にはその選手は画面から消えていた。下の通過チームを見ると僕らの県名が確かにあった。

 29位まで落ちていた。それでも県名の枠は、過去最高順位を示す黄色の枠で表示されていた。

 大きな画面に目を移す。この時点で先頭はもう1㎞に差し掛かっていた。先頭の中継からはキャプテンの姿は分からないし、どの位置にいるのかも分からない。中継はしばらく先頭だけを映した。目を凝らしても見えるわけないのに、ついキャプテンの姿を探していた。

 画面が変わった。先頭から1分以上離れた所だった。映されていたのは都大路でも活躍した選手だった。その選手が勢いのある走りで次々と前の選手を抜いていく。かなり注目されているみたいで、映像はこの選手をしばらく映していた。画面の下の方に『現在6人抜き』と文字がある。

 別の声が上がった。実況の人を呼んだのはバイクカメラの人だった。

「後ろから物凄い勢いの選手がいます。どんどん前の選手を追い抜いています」

 その声の後に画面が切り替わった。横から選手を映している。

 ハッと息を呑んだ。

 キャプテンだった。ただ、一瞬だけ誰かと思ってしまった。

 髪がないぐらいに剃り込まれていた。ごつごつした岩みたいな頭だった。ブタッ鼻で口は大きく開いて顔はかなり歪んでいる。不細工だった。でも執念が伝わってきた。沿道の人が右から左へどんどん飛んでいった。

 画面の切れ端から走る選手が出てくる。小刻みに回転するキャプテンの脚は、前の選手と見比べると面白いぐらいに違いが分かった。キャプテンの手足だけ倍速したように見える。それでいて体幹は全くぶれがない。相変わらずのロボット走りだった。右端から出てきた選手が画面中央のキャプテンに吸い寄せられ、そして左に流れて消えていく。次にまた右から新たに選手が現れて、キャプテンに引き寄せられては左に消えていく。画面はそんな映像を映していた。

 実況は一区を走った新藤と、このキャプテンが同じ学校の選手という事に触れてきた。

「この快走を見せる二人を擁しても都大路に出れなかったとなると、学校側もさぞ悔しかったでしょうね」
「そうでしょうね。予選大会では途中で棄権をしたらしいです。一区であの新藤君が区間賞の快走を見せたんですが、次の二区でリタイアがあったそうなんですね。三区で待っていたのが、いま走っている松島君だっただけに残念ですよね。都大路でこの二人の活躍が見られなかったのは本当に勿体なかったですね」

 黙って聞いていた。何とも言えない気分が胸を圧してきた。

 画面が先頭に変わった。先頭の選手は苦しそうだった。いつの間にか後続の姿が大きくなっている。でも相変わらず先頭からキャプテンは見えない。一方で、後ろでスタートした注目選手は先頭の中継から見える程に迫って来ていた。中継は先頭と、その注目選手を交互に映しながら進めていった。

 残り1㎞を過ぎて、とうとう映像を切り替えなくてもいい距離にまで迫っていた。

 区間新記録のペースだと実況は言った。名前の横に『現在9人抜き』と文字がある。感心しすぎて溜息しか出なかった。どうやったらこんな速く走れるんだろう。

「後ろはどうでしょう」

 実況のその声で映像が切り替わった。

 映像にキャプテンがいた。キャプテンは独りで走っていた。

 バイクカメラの人が言った。

「ちょっと疲れてきましたが、それでもここまで多くの選手を抜いてきています」

 ちょっと疲れてるどころじゃなかった。キャプテンは死に物狂いと言う言葉が似合う走り方をしていた。苦しみに喘いだ声がテレビからでも聞こえる。下に『13人抜き』と文字があった。

「すげえ」

 思わず声が上がった。テレビからも興奮した声が上がる。

「大健闘です。過去最高順位を大幅に上回って、尚も前を追い続けています。素晴らしいです。こうやって大躍進するチームが現れると刺激になりますよね」

 実況の声は嬉しそうだった。続けて解説の人が言った。

「応援している県内の人達にもいい刺激になると思います。この映像がきっかけで駅伝を始める子供達は増えると思います。そうやって強い選手が出てくるわけですから、今後が楽しみですよね」

 解説の人の言う通りだった。歪んだ顔は不細工だけど、この走りを観て憧れる人は絶対にいるはず。

 一度走るのを諦めた人間が、今は走りたくてうずうずしているのだから・・・・。

 何故か僕は正座をしていた。涙も出ていた。

 これだと懺悔を求める人みたいだ。でも、そうでもしないといけないような気がしていた。自分みたいな、弱くて脆い人間は・・・・。

 涙が止まらなかった。

 二人とも僕とは大違いだ。速さ以前に、その精神力の強さ、気持ちの強さがよく分かった。僕とは桁外れに違う。凄い。凄すぎる。

 画面が先頭に切り替わった。先頭が中継所でタスキを渡していた。少し経ってあのごぼう抜きを演じた選手は区間新記録で中継所に飛び込んだ。『11人抜き』とあった。それからさらに経って、岩みたいな頭のキャプテンが見えた。

 様子がおかしかった。

 タスキが頭で引っ掛かっていた。なかなか外れない。ただでさえ硬くて太い髪質なのに、あんだけ剃ったら、もうあの頭はヤスリとしても使えるだろな。

 キャプテンは両手を使って何とかタスキを外した。その間に、抜いたはずの一人に抜き返されてしまった。気合の入れ方がここで仇となる。キャプテンらしいなと思った。そのキャプテンが無事にタスキを渡す。

「松島選手、大健闘です。順位を12も上げました。素晴らしい走りでした」

 実況と解説の声が空っぽの身体の中を通り抜けていった。しばらく画面をボーっと見ていた。

 すると、身体の中の奥から何かが湧き上がってきた。熱いもの。それが空っぽの身体を満たしていった。

 テレビを消した。練習着に着替えて外に出る。眠そうにしているシバを連れて走りに出た。すぐにシバを放して僕は走った。

 遅かった。

 寒くて身体が暖まってないとはいえ、この動きはびっくりするぐらいに遅い。

 もう部活に行かなくなって二ヶ月。身体がなまっているのを自覚した。すぐに息が切れた。

 新藤の半分のスピードもない。まだキャプテンが走った距離の半分にもいってない。

 でも身体は悲鳴を上げている。情けなかった。何でこんなに遅いんだろう。悔しくて涙が止まらない。自分の遅さと心の弱さに。

 立ち止まって心が落ち着くのを待った。落ち着いた頃には、先を進むシバの姿が黒豆になっていた。その黒豆の先には市民球場がある。

 やっぱりシバは球場に入っていった。この先の広場には誰もいないはずだ。皆は現地に応援に行っているか、今もテレビ画面に釘付けになっているはず。

 思った通り、広場には誰もいなかった。

 シバは広場の端っこでちょこんと座っていた。そこは椿用のパラソルがある場所だった。でも今はない。

 いつもいるはずの人達が誰もいない。一向に動こうとしないその小さな背中が切なく見えた。

 シバに近づこうとすると、足下に野球ボールがあった。そのボールを拾うとシバに向かって指笛を吹いた。シバが向いたのを確認してからボールを思いっきり投げた。シバの上をボールが飛んでいく。シバが飛んだボールを目で追った。

 ボールは日差しを弾いて勢いよく飛んだ。

 澄んだ青空を突っ切って、ボールはみるみる小さくなっていく。

 高々と上がったボールが上空で滑空する飛行機と重なる。二つの白い点が交差すると、一つは大きな放物線を描いて青空を滑り落ちていって、もう一つは尚も青空を切り裂いて真っ直ぐな飛行機雲を描き残していった。

 ポーン、と跳ねた音がした。目を向けると、芝生の上を跳ね回るボールが見えた。芝生に着地する度にボールは跳ね返りを小さくして、やがて芝生の中を転がっていく。ボールは勢いを殺されながらも回転しながら芝生を掻き分けていき、そして、静かに芝生の中へと沈んでいった。

 静かだ。

 シバに目を移した。

 シバは座ったままだった。顔だけボールの方を向いて静かに座っている。

 シバの顔がこっちに向いた。無感情な顔だった。犬の仮面を被ったような顔をしていた。冷ややかなその目つきに僕はゾクリとする。

 立ち上がったシバが歩き始める。ボールとは全然違う方向へ歩いていた。全く見向きもしない。階段を上って、てくてくと広場を出ていく。

「おい!どこいくんだよ!」

 思わず叫んでいた。その声が静かな芝生の上で広がった。シバはお尻をむけたままだった。そのお尻が左右に振られながら小さくなっていく。おい。どこ行くんだよ。主人を置いてどこに行くんだよ。待ってよ。お前まで置いていくのかよ。ねえ、戻って来てよ。無視だけはしないでよ。お願いだから。ねえ。頼むよ。置いていかないで。

 シバはこっちを向いてくれなかった。シバが見えなくなったのを、僕は無力感を噛みしながら見ていた。

 静かになった。

 風が吹いた。心地よく流れる風が芝生を撫でていくように通り過ぎていく。静かな風の音を残して風は去っていった。

 また静かになった。

 辺りを見渡すと僕以外の誰もいなかった。こんな広い所だったんだなとしみじみ思った。

 動く気がしなかった。

 遣る瀬ない気持ちを噛み締めて、僕は広場の上で独り佇んだ。


            つづき

             ↓

https://note.com/takigawasei/n/n58c539b99ab5


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