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動と静と。

「ほら、キックオフなのに居ないという・・・」
と夫に呆れられ、隣室でパソコンに向かっていた私は渋々テレビの前に座った。

夫は生粋のサッカー少年だったが、私は生粋の文化部女子だった。
新聞だってスポーツ欄以外は全部目を通すし、ニュースを見ていても、
スポーツニュースに変わった途端にリモコンを手に取る。
スポーツ観戦に無理やり誘われれば、始まる前から終わるまでずっとビールを飲み続け、グデングデンになって帰っていた。

キックオフと言うらしい。
ザハがデザインしたというスタジアムを上空から映した映像は、まるでホイップクリームで作ったデコレーションのような見事な曲線と、深く刻まれた精密な陰影が、エキゾチックな世界観を感じさせた。
そこからカメラはフィールドにズームアップし、
スタジアムに点在していた選手たちは、何かの合図とともに、一斉にわらわらと動き出した。
その画面からも、隣の夫からも緊張の空気が伝わり、いよいよ歴史的な1ページをめくろうとしていることが、無知の極みの私の肌にも伝わった。

不登校の娘も一緒になって画面を凝視している。
学校に行っていないので、夜ふかしも気にならないが、サッカーを口実に夜ふかししていることは明らかだ。
そして時々、
「どーわん、どーわん」とよくわからない事を口走っては夫と二人で
ニヤニヤしている。

「ドワン」てなんだ???

娘の顔と、画面を見比べていたが、そのうち私は娘に顔を向けることを忘れた。

赤白のおめでたい市松模様のユニフォームを着た大柄なイケメンたち。
ぶれない体の動きと、スラリと伸びた両脚の華麗で無駄のない動き。
ブルーのユニフォームの選手たちは、早送りをしているのかと思うようなスピードでボールに追いつき、まるでリモコンで操作されているように美しく弧を描いて、ボールは大きく空を舞う。

遠近感が掴めず、ボールを二次元でしか追うことのできない私の目には、一体どこに向けてボールを蹴っているのか、そこに落ちるまで目が離せない。

「あの、これは日本は青いほうなの?」

いつの間にか視線はテレビに釘付けになった。絵に描いたような釘付け感だ。
詳しいルールはよくわからないが、敵ゴールにボールを蹴り入れればいいということは知っている。

「長友」という選手の名前だけは知っていた。
しかしそれ以外は全くわからない。
試合の途中途中に、プロフィールが出るが、なんだかカタカナで色々書かれていて、名前と年齢ぐらいしか確認出来なかった。
(見慣れない文字列は理解しづらいということがここで分かった)
途中で、カタカナは海外の所属チームの名前だったことを知り、どうやら日本の選手は割と海外で活躍しているということが判明した。

先ほど娘がよくわからないドラクエの呪文のように唱えていた「どーわん」というのは、選手の名前だったらしい。
色白の美容男子だった。
背番号の8番を暫く目で追っていると、その綺麗な顔立ちの選手が、ボールを手に(脚に)し、突然動画1.25倍再生かと思うようなスピードでグングン赤白ユニフォームを交わして、ゴールに近寄ってゆく。赤白ユニフォームが向かってくると、くるりと体をひねり、ボールは彼の足周りをするりと一周。まるで糸で足首に繋がっているのではないかと思うような動きで、ボールは彼の足元に従順に従っている。

紅白ユニフォームの巨人たちは、大きな体の隅々まで洗練されたスマートな所作でボールを操り、同志には温かい笑顔で答え、ボールに触れば真剣な視線をフィールドに向けていた。そしてイケメン。

途中何度か選手交代があった。
とても紳士的に入場し、交代する選手は、フィールドに一礼をして退いてゆく。

なんという美しく無駄のない動きだろう。
これがスポーツ?野蛮で暴力的なイメージしかなかった私の中の「スポーツ」というカテゴリーの娯楽案件は、この彼らの所作、姿勢、敬意。全てに関して美しく、これまでのイメージの歴史にピリオドが打たれた。

「これはアートだ。」

無駄のない動き、広い視野、仲間への絶大なる信頼と采配。
なんという奥の深い世界だろう。

ボールひとつを取り合うだけの野蛮な競い合いじゃなかったのか?
わざと体をぶつけ、倒し、ユニフォームを掴んで引き剥がす。
そういう競技ではなかったの?

今私が目にしているものは、明らかに美の追求の最たるものだった。
彼らの表現は完全に、美を体現したアートだった。

私は本当に満足した。
国立西洋美術館の特別展や、
アートサイエンスミュージアムのゴッホ。
kagayaのプラネタリウム。
静寂に包まれた美術館を後にしたあの充実した気持ちを堪能した。

今朝の情報番組で、選手は悔しそうにインタビューに答えていたけれど、
私は嬉しかった。
試合の結果なんてちっぽけなことに感じた。
それよりも、もう同じアートを見ることができないことの方が、少しの空虚感として心に残った。

20代の若い彼らが、どれだけの練習を重ね、どれだけ悩み、どれだけの試練を乗り越えてここまで来たのだろう。
私には想像し難いけれど、それなりに人生紆余曲折してきた経験を持ってしても、想像も出来ないぐらいの、その若い彼らが積み上げた経験と乗り越えた試練が、この美しい試合を作り上げたのだと一目でわかる。
そんな美しい、非の打ちどころのない姿を、見せてもらえた。

日本経済が危ういとか、若者の貧困がとか、そんな不安も払拭してくれるような、明るい未来、彼らが先導してくれる日本のキラキラした未来を、私は感じた。

「結果が全てではない。
そこまでのプロセスが、人々に感動を与え、夢を見せてくれる。」

彼らが試合に負けたことを、失敗だと思った人がいただろうか?
やらなきゃよかったのにと、後悔した観客がいただろうか?

娘は不登校だ。
しかし結果が全てではないと思うなら、
そのプロセスにどんなドラマがあるのか?
どれだけの人を感動させ、勇気づけることができるのか?

それは親である私たち、強いては、育てる社会が鍵を握っているのではないかと思う。
どうか、結果だけを見ないでやってほしい。
この試合のように、そのバックグラウンドを想像してやってほしい。
彼らが魅せてくれた、奇跡のような120分は、誰にでも起こり得るんだと、
伝えてやってほしい。

そこには必ず、試練や苦悩、努力があり、絞り出した結論が眠っている。
けれど、それを美しく表現できる日が来る可能性があるのならば、
乗り越えた先がキラキラと輝いて見えるのならば、
私たち家族はそこに向かって、紳士的に、スマートに走り出し、
いつか華麗なシュートを決めることができるだろう。



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