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「自分を使う」事業を1年間やってみた。

自分を使う事業、という事業の1年目が終わるなあ、と思ってます。

2023年2月に会社を辞めて、3月に独立しました。
会社を辞めることを決めたのが2022年の12月でしたので、決めてから1年。なんとか生き延びることが出来たなあ、と、しみじみ思ってます。

会社を辞める時、何かをしようとしてそうした訳でも無かったので、辞めてから、というか辞めながら、そして一人歩きを始めながら「さて、どうするかなあ。」と考えてきました。

今、何があるんだろうなあ、と、答えのないままにこれを書き始め、考えています。

事業としての組織や人への支援や、焚火の場などを通して、自分が表現しようとしていることはどのように繋がっているのだろう。何なのだろう。と。

当初はおおよそこんな言葉を、自分に言い聞かせてきました。
「誰かが聞かれたいものを聞かれたいままに聞かれる事で、誰かの何かが変化して、そして、風が通る。流れが生まれる。」

これはこれでだいぶ説明が必要だと思うので、人様が見たら「なんのこっちゃ」と思いますが、自分では今でもそれなりに自分の考えていることを表しているような感じがします。

けど、それ以上にこう考えてきたし、不意に誰かに「大石さん、何をしているの?」と聞かれた時なんかにこう答えてきた事を思い出します。「自分を使いたい」と。時に自信の無さの裏返しで「親鸞ばりに念仏を唱えながら絶対他力を生きる実験をしているのさ」などと訳知り顔でフラフラしながら。

なんか、結局、それをしようと思って、そして実際そうしてきたなあということを、感慨や、自分へのそこそこの労いも含めて出てくるような気がします。

それがこの1年、自分に対して込めた意図で、自分に仕掛けながら表現しようと思ったことのような気がします。

具体的に何をしてきたかを書くことには、少なくとも今日はあまり興味が持てないので、今感じる「自分を生きるとやら」を出してみると、こんなんが出てきます。

誰かと話をしていく。何かを読んだりする。対話をしていく。何かを聞いていく。人の話を聞いていく。何かを感じていく。誰かと一緒に何かの場みたいなものを作っていく。そうして作りながら、そこから生まれるものにもまた、自分自身が巻き込まれていく。

そのために、自分自身が、ただ、そこに、その時の自分としてスっと立っていること。可能性としての自分を生きてみる、ということを経済の中で試してみること。動的平衡として自分を生きる、つまり、自分が自分であることを手放しながら、虚ろさとともに生きてみること。一瞬一瞬で変化している自分を知るという事を、自分自身の実践も含めて、たまたま縁のあった人と分かち合っていくこと。

うん。なんというか、そんな感じです。

そして、自分から湧き出る言葉を通して、誰かにちゃんと影響を伝えていく。誰かから湧き出た言葉を通して、誰かからちゃんと影響を受け取っていく。

何よりも、どこに辿り着くか分からない、という事、を信頼する。場から必ず何かが生まれ出るという事を、信頼する。そのために、勇気をもってコントロールを手放すことを、実践すること。

どうかな。どうだろう。そんなにズレていないような感じはします。

当たり前なんですが、僕は生きています(笑)。そうすると、色んなものを見たり聞いたり、読んだり、食べたり、嗅いだり、なんだりかんだりとします。そして僕はいつでも一人では生きていない。一人でボヤーっとしていても一人なことはない。いつでも誰かや何かを内面化していますので、誰かに向けてソナーを打ち続けています。ちょうど今、まさにこうしているようなあり方で。

僕はただそれをしよう、と思っていたんだなあ、と今気づきます。そしてそのことによって実際何が起きるのか、見てみたい、というかここはむしろ「起こしてみたい」という能動の方が強かった感じがありますが。

上段で「そのことによって」とクルっとまとめたんですが、ここんところが、自分でこだわり続けて、問い続けて、壁にぶつかり続けたポイントでもありました。

すなわち、とにかくただ今この瞬間の自分としてあることを、虚ろに、積極的諦めでもって受け止めて、そのことを、思うままに出してみるということ。そしてそのことから、生まれる出るもの、インパクトをまた、引き受ける、ということ。

これが、実のところ、振り返ると、とても辛かった。

多くの場合「自分を使う」どころか「自分を殺してやりたい」方向に転んでいくことの方が多かった。

実際、8月位には、急に体のコリが酷くなり、立ったり座ったりすらしんどくなった時期があった。(うん、アレはやばかった。)。本当に身体が動かなくなってしまったし。

なんだろうか。一般的な意味で事業として収支を合わせていく、という事あたりには、本当におかげ様で、今のところそれほど苦しみを感じずには済んでいるものの、この「自分を使う」を全うし、業として成していく事は、堪える体験ではありました。

でもね、そう言いながら、良きも悪きも、自分が出すインパクトを身体や、あるいは財布で受け止めて、ここにいられるという事をまずは、今、ちゃんと見たい、自分の声として聞き取ってあげたい、という気持ちがある。うん、そう思っています。

なんだろう、ここまで書いてきて、今、ほんの少しだけ、本当にわずかだけども、「生の実感」みたいなものを感じ始めています。

今、僕には、この体がある。と書いている瞬間、息子が仕事部屋に入って来る。家族も元気でいる。メッセンジャーからは様々な方からの、皆さんの今の声が届く。キーボードを叩く手が少し冷たい。重度の冷え性の足は凍えている。そのようにして、今日を生き、これらのテキストを出している。誰かに言われたり、不用意に過去の延長を背負いながらでもなく、今、気持ちの赴くままにテキストを書いてみる。そのような体として今に存在している。が、思っている以上に、「自分」なんていうものは存在していない。動的平衡。ゆるやかな稜線として、空気と体が分かたれているだけ。

そして、誰かを思っている。

うん。悪くないのではないか、と思います。

そう、シレっと書いたのですが、誰かを思おう、とは思ってきました。そして、この誰かからいつも支えられてこの1年を過ごしてきた、と感じているんです。本当に色んな人が、自分に気持ちを寄せてくれて。本当に望外で、文字通り身に余ると感じるほどに。

自分を使いたい。そうなんです。この人達のために自分を使いたいです。読んでくれている、あなたのために。

はあ。そのようにして今年を終われるのは幸いです。本当にありがとうございました。来年もご一緒しましょう。

では。いつもながら唐突に終わります。はあ、疲れた。ラーメン食べたい。


大石豊

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