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【短編小説】 春

 春はいつだって、物憂く気だるく、感覚という感覚を甘く鈍らせる。あの頃は、春がいつか終わるなどと思いもせずに、ただ当たり前に享受していた。4つの季節のうちの1つに過ぎず、終わりなく巡り巡ってくると信じていた。それが青春という青い春を生きるものの特権なのかもしれない。

 遥は、春はいつも眠いと言って、授業中はいつも寝ていた。長い髪を前に垂らして幽霊のような様相で。遥はいつも春はおなかが空くといって、ホームルームと一限目の間に弁当を平らげ、二限目と三限目の間に頭脳パンを食べ、昼食時には学食に行って、蕎麦かカレーを食べていた。私たちは高校生で、県立の女子高の生徒だった。

 遥はたくさん食べてもたくさん寝ても、すらっとしたスタイルを崩さなかった。きっとテニス部の練習がストイック過ぎるせいなのだろう。でもそんなこと、どうだっていいのだ。男子生徒の目などない、女子高校の生徒である私たちにとって、美しいことやかわいらしいことや、お洒落なことなんてどうだってよかったのだ。

 私たちはここでだけ自由だった。男の子に花を持たせることや、しなをつくって媚びることなどしなくていいし、なにかで一番になることや、リーダーシップを発揮することですら、咎める者は誰もいないのだ。ただめんどくさくもおもしろい日々を、こころに焼き付けることすらしないで駆け抜ける。私たちは男でも女でもなく、ただ人間でいることが許されていたのだ。後にも先にも、この場所でだけ。

「ねえ千秋。たこせんが私にプールの底を磨いて綺麗にしろって言ってんの」
 と、ある日、遥は私に言ってきた。たこせんというのは高梨先生という数学の女性教諭で、私たちの担任でもある。すこし口がひょっとこみたいに出ていたから「たこせん」と陰で呼ばれていた。

「なんでたこせんが遥にそんなこと言うの? たこせんとプール、なんの関係もないじゃん」
 私が言うと、遥は自分が数学の時間にいつも寝ていたからたこせんに嫌がらせされたのだと言った。遥が言うには、たこせんと体育の男性教諭のあおとかげはグルなのだという。ちなみにあおとかげの本当の名前は青島という。もちろん、どことなくとかげっぽい。

「千秋手伝ってよ。どう考えたって、50メートルプールをひとりで磨くのは無理だよ」
 そんなわけでいやいやながら、放課後に私たちはプールの底に降り立った。ジャージの裾を膝までまくり上げ、デッキブラシを持って。ほんのすこしだけ水の抜けきらないプールに春の陽光が反射して、てらてらと輝き、私たちを照らすのだ。

 遥はデッキブラシを構えて50メートルを一気に駆け抜け、壁に激突しそうになって、寸でのところでくるっと回転して止まった。げらげらと笑い転げる。

「案外おもしろいかも、これ」
 私は苦笑した。遥にかかればなんでもおもしろいのだ。私はプールの壁にとかげを見つけて遥に叫ぶ。

「とかげ、とかげいた!」
 遥はすぐさま飛んできて、とかげを躊躇なく摘まみ上げた。
「なんか、あおとかげみたいじゃない? おい、あおとかげ。たこせんとできてんのか?」
 遥はとかげに向かって話しかけた。

「はい。できてます。僕はたこせんにぞっこんなんです」
 私がとかげが喋っているかのように答えると、ふたりして死ぬほど笑った。

 夏の気配をしのばせた春が、私たちを温かく包んでいた。それがどんなに貴重な時間か、顧みることすらしないで、ただただ私たちは春のなかで遊んでいた。

≪了≫

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