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【短編小説】月見

 ガラス格子の窓を開けて、夜の風でも吹き込んでこないかと敏明は試みたのだが、なんの空気の流れもなかった。
「暇だよ」
 敏明が云い
「暇って云うなよ。余計に暇が身に染みるだろう」
 と、兄である正明が云った。

 彼らにはもう、畳に寝転がって月を眺めることくらいすることがなかった。ほんの少しだけ、完全には足りないような感じのする月。満ちてゆくところなのか、欠けてゆくところなのか、それすら兄弟にはわからない。ただただ兄弟は暇であった。

 すべきことがないわけではない。

 中学一年の敏明は秋の中間試験が明日に控えているし、高校二年生になる正明に至っては、試験はすでに始まっている。ふたり揃って一学期の成績が振るわなかったため、今回は試験期間の勉強中はスマホ禁止の命令が下った。

 勉強時間が終われば返してもらえるが、いま兄弟の手元にスマホはない。スマホがないということは、することがないというのと同じことだ。友人ともつながれないし、ありとあらゆる娯楽からも切り離されてしまった。まるでこの世にふたりきりしかいないみたいだ、と敏明は思う。

「母さんは俺たちのことが憎いんだよ」
 敏明がたまりかねたように云った。
「なぜそう思う」
 正明が問う。

「暇っていうのは、このうえない拷問だからさ。憎い相手にでなきゃ、こんなに暇にはできないじゃないか」
「母さんは俺たちに暇にしていてほしいわけじゃない。学校の試験の勉強をしてほしいと願っているんだよ」

 正明の答えを聞いて、敏明はすこしばかり考えていたが
「じゃあなぜ兄ちゃんは、勉強しないで月を眺めているんだよ」
 と尋ねた。
「AIロボットに訊いて答えが返ってくることを、わざわざ覚えても仕方ない。だから月を眺めているんだ。例えAIロボットにも月を眺めることができたとしても、俺のこころにいま満ちている悠久の時の流れに対する深い感慨は、きっと抱けないにちがいない」

 敏明は兄のことをとても賢いと思った。将来はきっと偉いひとになるに違いないと思った。敏明も兄の真似をしてじっと月を眺めてみたが、悠久のなんちゃらに対する深い感慨は、ちっとも浮かんでこなかった。

「いいことを教えてやろう、敏明」
 正明は肘を起こして、頬杖をつく。蛍光灯の灯りの影になって、正明の目が輝いていると敏明は思った。

「昔のひとの夜は暇だった」
「いまの俺たちよりも?」
 敏明が訊く。

「いまの俺たちよりも、だ。夜にできることが限られていたから、月が出るまでひたすら待った。立って待っていられる時間帯に昇ってくる、旧暦の十七日の月のことを立待月たちまちづきと云った。十五夜を過ぎると、月の昇る時間はどんどん遅くなる。十七日は立って待ち、十八日には座って待ち、十九日には寝っ転がって待った。だからそれぞれ、立待月、居待月いまちづき臥待月ふしまちづきと云う」

「兄ちゃん賢いなあ! 勉強したのか?」
 敏明が目を輝かせて訊く。

「……いや」
 正明はまたごろんと仰向きになって、窓から見える月を眺めた。
「アレクサに訊いたら教えてくれた」

敏明は、やっぱり兄ちゃんは賢いと思った。

≪了≫


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