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【マキアヴェッリ語録】 第17回

マキアヴェッリ語録


🔷 塩野七生しおのななみさんの『マキアヴェッリ語録』からマキアヴェッリの言葉をご紹介します。マキアヴェッリに対する先入観が覆されることでしょう 🔷


目的は手段を正当化する

 マキアヴェッリ(日本ではマキャベリと表現されることが多い)は『君主論』の著者として知られ、「マキャベリズム」が人口に膾炙しています。


 その思想を端的に表現する言葉は、「目的は手段を正当化する」です。


 目的のためならどんな手段を講じてもかまわない、と解することが多いですね。


 実は、私もこの書を読むまではそのように解釈していました。
 言葉を文脈の中で解釈せず、言葉が独り歩きすることの怖さは、風説の流布でも経験することです。


 福島第一原発事故以後、周辺にお住まいの方々は風説の流布に悩まされ続けています。拡散した誤情報はさらに誤情報を加え、拡大していきます。
 容易に訂正されることはありません。


 話しを戻しますと、マキアヴェッリの実像はどのようなものであったのか、そして「目的は手段を正当化する」と言っていることの真意は何だったのか、を知りたいと思いました。


 先入観を取り払い、大前研一さんが言う、「オールクリア(電卓のAC)」にしてマキアヴェッリの説くことに耳を傾けることにしました。


 マキアヴェッリは、1469年5月3日にイタリアのフィレンツェで生まれ、1527年6月21日に没しています。15世紀から16世紀にかけて活躍した思想家です。500年位前の人です。

 


 塩野七生しおのななみさんは、「まえがき」に代えて「読者に」で次のように記しています。塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由を説明しています。


 尚、10ページ以上にわたる説明からポイントとなる言葉を「抜粋」しました。

塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由


この『マキアヴェッリ語録』は、マキアヴェッリの思想の要約ではありません。抜粋です。
なぜ、私が、完訳ではなく、かといって要約でもなく、ましてや解説でもない、抜粋という手段を選んだのかを御説明したいと思います。

第一の理由は、次のことです。
彼が、作品を遺したということです。
マキアヴェッリにとって、書くということは、生の証あかし、であったのです。

マキアヴェッリは、単なる素材ではない。作品を遺した思想家です。つまり、彼にとっての「生の証し」は、今日まで残り、しかもただ残っただけではなく、古典という、現代でも価値をもちつづけているとされる作品の作者でもあるのです。生涯を追うだけで済まされては、当の彼自身からして、釈然としないにちがいありません。

抜粋という方法を選んだのには、「紆曲」どころではないマキアヴェッリの文体が与えてくれる快感も、味わってほしいという私の願いもあるのです。そして、エッセンスの抜粋ならば、「証例冗漫」とだけは、絶対に言われないでしょう。

しかし、彼の「生の声」をお聴かせすることに成功したとしても、それだけでは、私の目的は完全に達成されたとはいえないのです。マキアヴェッリ自身、実際に役に立つものを書くのが自分の目的だ、と言っています。
 

『マキアヴェッリ語録』 「読者に」から PP.3-6、15        

  

⭐ 伝道師(エバンジェリスト)としてnoteに投稿されている野口悠紀雄さんは、『知の進化論 百科全書・グーグル・人工知能』(朝日新書 2016年11月30日第1刷発行)の中でマキアヴェッリについて次のように述べています。

1512年から13年にかけて書かれたニッコロ・マキャベリの『君主論』は、それまで隠蔽されてきた権力の秘密を暴露しました。

       『知の進化論 百科全書・グーグル・人工知能』 野口悠紀雄                   







 お待たせしました。マキアヴェッリの名言を紹介していきます。


マキアヴェッリの名言


第2部 国家篇



一個人の力量に頼っているだけの国家の命は、短い。
なぜなら
才能がいかに優れていようと、その人の命が絶えれば、すべてが終わりだからである。しかも、先の指導者の才能が後継者に受け継がれるというのは、実にまれな例でもあるのだ。
それゆえに、健全な国家とは、優れた指導者の死後も、誰が後を受け継ごうと、その路線を継承していけるような体制をつくりあげた国家であると、わたしは言いたい。
                       
   

        『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から P.161                      




国家にとって、法律をつくっておきながらその法律を守らないことほど有害なことはない。
とくに法律をつくった当の人々がそれを守らない場合は、文句なく最悪だ。

国家にとってもう一つ有害なことは、さまざまな人物を次々と糾弾し攻撃することによって、国民の間にとげとげしい雰囲気ふんいきをかもしだすことである。

国家にとって、また指導者にとっても有害なことは、絶え間ない弾圧によって、人々の心を恐怖と疑惑におとしこむことだ。
これは、有害を越えて、危険である。
なぜなら、人間とは、絶望的な恐怖に襲われるや、そこから身を守ろうとするおもいだけで、狂暴で無思慮な反撃に転ずるものである。
だからこそ、市民たちを、いたずらに刑罰や弾圧で抑えつけるような愚は、犯してはならない。

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から P.162            
           
                    
                    
 


               
   


法というものを尊重する秩序ある国家ならば、市民の行為における善と悪とを、区別しないということはありえない。
善行をなせば賞讃しょうさんし、悪を行えば罰を与えるのは当然至極なことである。
だからこそ、善をなした人物が後に悪を行なった場合でも、以前の善行は配慮せず、悪行に対して厳格に処すべきなのだ。
この制度が充分に守られていれば、国家は、自由を謳歌おうかしながらも長い生命を保つことができる。だが反対ならば、衰退は避けられない。
        

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から PP.166-167          
            



マキアヴェッリの語る言葉は深い

                            
🔶 マキアヴェッリの語る言葉は深い、と思います。

マキアヴェッリは人間観察に優れた人だった、
と想像します。心理学にも長けていたのでしょう。

「君主」を「リーダー」に置き換えて考えてみるとより
身近に感じられるでしょう。

🔷 「第2部 国家篇」からマキアヴェッリの有名な言葉が多く出てきます。マキアヴェッリは権謀術数(相手をたくみにあざむくはかりごと)をめぐらす悪人という評価を長い間されてきました。

 しかし、『マキアヴェッリ語録』を読みますと、それは全体のごく一部を取り上げて、決めつけていることに気づくでしょう。

 マキアヴェッリは決してそんな小さな器の人物ではなかったことが分かるはずです。


⭐️ キーセンテンス
国家にとって、法律をつくっておきながらその法律を守らないことほど有害なことはない。

「国家」を、「企業」や「組織」に置き換えて考えても良いでしょう。
さらに、「法律」を「決まりごと」や「規則」に置き換えると身近なものとなるでしょう。

法律をつくりながら法律を守らないということは、権力の乱用です。
歴史を振り返ってみると、「権力必腐」が繰り返されています。

「権力必腐」とは、権力を長期にわたって保持し、行使し続けると必ず腐敗するということです。

つまり、独裁者と化し、独裁者とその一部の側近だけが甘い汁を吸い、国民は奴隷同然の扱いをされるのです。

企業においても然りです。


高杉良 『権力必腐』
 




塩野七生さんと五木寛之さんの対談集
『おとな二人の午後』
(世界文化社 2000年6月10日 初版第一刷発行)
の中で、五木さんと塩野さんは次のように語って
います。歴史についての考察です。


五木
歴史はフィクションなんだと考えたほうがいいというふうに考えているんです。後年の人たちが再構築して、ありのまま構築できるってことはありえない。

その個人のキャラクターを通して、その人がつくり上げるものだから、歴史がそのままイコール事実であるっていうふうにとらえるより、歴史は物語なんだと思ったほうが正しい


塩野
私、学習院を卒業するとき、こう言われたんです、君が考えているのは歴史ではないって

いまだに覚えている。


五木
ぼくは思うけど、塩野さんが書かれているように、歴史は人間ドラマなんですよ。想像力の世界


塩野
ヨーロッパには私みたいな、小説でもなければ、歴史学でもないという分野は確実にあって、ちゃんと認められていますね

塩野七生さんと五木寛之さんの対談集 『おとな二人の午後』 PP.224-225     
           
                   

とても興味深い話ですね。
私は、歴史は勝者の側から書かれたもので、敗者の側から書かれたものは実在しても埋もれてしまっていると考えています。

○○裏面史というタイトルの書物が昔はありましたが、最近は、こうしたタイトルの書物は人気がなく売れないためなのか、見たことがありません。

裏面史の代わりに、都市伝説というまことしやかな話がトレンドになることがありますが、怪しいものです。
  

『リーダーシップの本質』

堀紘一氏の『リーダーシップの本質』と対比していただくと、興味深い事実を発見できると思います。



🔷 著者紹介

塩野七生しおのななみ<著者紹介から Wikipediaで追加>

日本の歴史作家、小説家である。名前の「七生」は、ペンネームではなく本名。

東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科卒業。

日比谷高時代は庄司薫、古井由吉らが同級生で、後輩に利根川進がいて親しかった。

1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。

同年から再びイタリアへ移り住む。『ローマ人の物語』にとりくむ。

2006年に『第15巻 ローマ世界の終焉』にて完結した(文庫版も2011年9月に刊行完結)。『ローマ人の物語Ⅰ』により新潮学芸賞受賞。

99年、司馬遼太郎賞。

2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。

2007年、文化功労者に選ばれる。

高校の大先輩でした。






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