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三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦2014.10.20 3/3 2014-10-24 18:00:10





<このページでは、『日経ビジネス』の特集記事の概要紹介と、管理人のコメントを掲載しています>



三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦2014.10.20 3/3 2014-10-24 18:00:10



CONTENTS

PROLOGUE 好業績が隠す停滞

PART 1 モノ作りが通用しない

PART 2 いつの間にか取り残された

PART 3 宮永社長 初めての「経営」

PART 4 常に負ける恐怖心 神に祈るような気持ち 三菱重工 宮永俊一社長 インタビュー

PART 5 “化石”にならないために



第3回は、

PART 3 宮永社長 初めての「経営」

PART 4 常に負ける恐怖心 神に祈るような気持ち 三菱重工 宮永俊一社長 インタビュー

PART 5 “化石”にならないために


を取り上げます。


今週の特集記事のテーマは

国内市場に依存し、改革が遅れ、停滞を続けた三菱重工。
世界市場で取り残されまいと、硬直的な組織を変え始めた。
欧米勢との実力差に愕然とし、遅まきながら国際化を急ぐ。
だが、頼みのモノ作りは世界の壁に突き当たり、トラブルが目立つ。
経営陣の危機感が現場に浸透しているとは言い難い

(『日経ビジネス』 2014.10.20 号 p. 025)

です。



三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦
(『日経ビジネス』 2014.10.20 号 表紙)


前回は、GEやシーメンスなどの海外の巨人たちとの戦いで、大きく水を開けられている実態をお伝えしました。

最終回は、社長の宮永さんの危機感が従業員の心に届いているか、その1点に注目してお伝えしていきます。

PART4は変則的に、編集長インタビューで構成されています。「日経ビジネスのインタビュー」から抜粋します。


PART 3 宮永社長 初めての「経営」

●三菱重工の売上高の推移と歴史

(写真=右下:都築 雅人、上段左から:清水 盟貴、
清水 健、大槻 純一、的野 弘路)
三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20


宮永さんは、キーマンとなる人物を抜擢し、日立製作所と事業統合した会社のトップに据えました。

私は、その人物は宮永さんの後継者の一人と目されていると感じました。そのキーマンとは?

今年5月、三菱日立パワーシステムズ(MHPS)社長の西澤隆人は、緊張した面持ちで三菱重工業社長の宮永俊一と対峙していた。

台湾新幹線なども手掛け、国際感覚あふれる西澤は、世界の巨人に負けない会社を目指すという改革の先兵的な役割を期待して、宮永が抜擢した人物だ。

率いるのは2014年2月に設立した、三菱重工と日立製作所の火力発電事業の統合会社。三菱重工が65%を出資して主導権を握り、世界で拡大する発電設備の獲得を目指すグローバル戦略の要である。

その日、西澤には腹案があった。三菱重工と日立という文化が大きく異なる2社を早急に融合するため、両社の生産現場の部長級をそっくり入れ替えるという荒業の決行だ。

西澤は「半年は混乱が続くだろう」と宮永に心中を打ち明けた。宮永は一言、「正しいと思うならやってください」と告げ、背中を押した。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 036 


ここで重要な事は、権限移譲したのであれば、すべてを任せることです。
一任するということは、簡単のようで、そう簡単なことではありません。

つい口出ししたくなるのが人情です。

日本人のそうしたウェットな部分に目をつむり、欧米の巨人たちに対峙するためには、ドライな対応が不可欠だ、と宮永さんと西澤さんは確認し合ったのだ、と思います。

西澤さんの決断は、手本にしたケースがありました。

旧NKK(日本鋼管)と旧川崎製鉄の統合で生まれたJFE。当時社長(現相談役)だった数土文夫がお互いの製鉄所の部長クラスを総入れ替えする「交換人事」を断行。

統合効果を早期に引き出し、業績回復とグローバル化を果たした。「数土さんのやり方はすごい」と感じ入った西澤は、教えを請いにJFEの門を叩いた。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 037 


すぐに行動に移した西澤さんもすごいと思います。フットワークの軽い経営者は、そう多くはいないでしょう。自分の代わりに誰か他の人物に任せるケースが多いと思います。

さらに、「交換人事」という「荒業」を早急に断行した点もすごいと思います。

判断・決断・断行という「3断跳び」と、私は言っていますが、判断・決断という二段階の思考過程を経て、断行という行動が素早くできるかどうかが、極めて重要です。

交換人事は今年10月1日に実施した。三菱重工の拠点だった長崎工場と、日立側の主力工場だった呉工場の間で、設計部長と製造部長を入れ替えた。現場を統括する管理者も交換した。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 037
 


交換人事の対象となった人たちや、現場で働く人たちは混乱すると同時に、反対は相当なものだった、と推測されます。

西澤さんは、そんなことは百も承知で、企業文化(社風)が大きく異なる2社を融合するためには、強烈な刺激を短時間に与える必要がある、と判断したのでしょう。

ただ、西澤さんは辞令を出し、突き放すだけといったことはしませんでした。ケアをきちんとしました。

西澤は異動の2週間前となる9月中旬、MHPS本社の入る三菱重工横浜ビルに、辞令が下りた部長8人、統括十数人を集め、こう語りかけた。

「今度の人事で君たちは現場で絶対に困るだろう。ノイローゼになるかもしれない。だからちゃんと(私が)現場を見に行く。1人で悩まず執務室に来てほしい。心配事はいつでも相談してほしい」。

アウェーとも言える現場に送り出す社員たちにそう訴えかけ、冷静さを取り戻させたのだ。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 037
 


ここまで気を使ってくれたトップに、異動の決まった人たちが、早急に、目に見える成果で応えようという気持ちにさせた、と思います。

さらに、西澤さんは新たな策を講じました。米国現地法人の社長や駐在員の入れ替えも行ったのです。

背景には、米国人の不満がありました。

西澤は米国各地の拠点を訪れて「ここにいる日本人は役に立っているか?」と質問した。

しかし、米国人の誰からも「イエス」の回答はなかった。そこで駐在員70人のうち、生産管理など必要な人員を20人だけ選ぶと、残り50人は「日本に帰れ」と命じた。

駐在員は突然の辞令に面食らった。

社内に不穏な空気が広がったが西澤は決断を翻さなかった。

厳しい態度の背景には、現場を担う米国人の募る不満があった。日本人ばかりが実権を握り、米国人の現場採用者は冷遇されていたのだ。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 037
 


引き続き行われた改革は、米国人を現地法人の社長に据えたことです。しかも、現地法人の経営で実績のある日立方式を採用したのです。

マイナー出資者である日立方式の導入に踏み切る。日立は海外法人を、トップを含めて現地の人材に任せて、権限も移譲し、経営や営業の現地化を進めてきた先駆者である。

西澤は駐在員の帰国に先立ち、今年4月、米国のトップを米国人のデビッド・ウォルッシュに委ねる人事を決めていた。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 038
 


矢継ぎ早の施策に、社員の戸惑いは並大抵のことではなかったはずです。

ですが、そのような荒療治を断行しない限り、硬直した三菱重工の組織を変革するには他に最善策はなかったのだ、と思います。

そうしなければ、生き残っていけない、と三菱重工の経営層はひしひしと感じていたからでしょう。

宮永さんの話に戻します。

宮永さんが西澤さんというキーマンを抜擢したのは、三菱重工を改革するためには自分の右腕となって、共に行動してくれる人物が必要だったからです。

その覚悟ができている人物が、西澤さんだったのでしょう。

社内のゴタゴタに時間を割いている場合ではないのです。全社一丸となって、欧米の巨人と戦っていかなければならない状況に、既になっているからです。

GEやシーメンスという世界メジャーを相手に、初めて真剣勝負を挑まなければならなくなった経営者としての「恐怖心」がある。

実際、宮永は「自分よりすごい経営者がいて、負けている。引き離されている。そんな恐怖心がある」と明かしている。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 038
 


宮永さんは「恐怖心」と戦いながら、今頃、武者震いしているかもしれません。「何としてでもやってやるぞ!」と。

下の図表をご覧ください。

M&Aを進めながら巨人GEに挑む
●三菱重工業と重電各社の相関図

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20


三菱重工を取り巻く業界の相関図です。
三菱重工は日立製作所と火力発電事業で提携しましたが、東芝は火力発電整備でGEと合弁会社(ジョイント・ベンチャー)を設立しています。

さらに、三菱重工は仏アレバと原子炉を共同開発しています。シーメンスと製鉄機械事業を統合しています。

宮永さんを中心に、三菱重工を早急に変革しようとしていますが、厚い壁に阻まれているというのが、実態でしょう。

三菱重工を変えるのは、決して簡単なことではない。最大のハードルは、経営者の危機感がなかなか現場に伝わらないことにある。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
pp. 038-039
 


その大きな理由の一つに「現場の神様」の存在があります。

「三菱重工にはどの現場にも“神様”がいる」。

そう話すのは、今春に三菱重工を退社した元社員だ。神様とは名人芸を持つベテラン社員、すなわち匠のこと。神様の発言に現場社員は逆らえない。

現場によっては、経営トップの指令より重要視されることも度々だという。

高いレベルの技術を持つ匠はまだいい。問題なのは、実力がなくともある年次に達すると自動的にポストが用意され、匠に祭り上げられている人も少なくないことだ。

若手社員らは、こうした大量の匠の存在が経営陣との距離感を広げ、自分たちの創意工夫を生かす舞台を奪っていると不満を募らせる。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 039
 


長年、快適な「ぬるま湯」に浸かってきたため、変化を嫌う体質が出来上がっています。

典型的な「茹でガエル」です。徐々に温度が上がってきていることに気づかず、最後は茹で上がってしまう事態になりかねません。

「老害」でもあります。

宮永さんたちの奮闘努力は実を結ぶでしょうか?

三菱重工が置かれている現実を社員に突き付けて覚醒させる。宮永は、自身が感じた恐怖心を、社員たちに浸透させられるのか。
問われているのは、経営のリーダーシップそのものである。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 039 


PART 4 常に負ける恐怖心 神に祈るような気持ち 三菱重工 宮永俊一社長 インタビュー


宮永 俊一 (みやなが・しゅんいち)氏
[三菱重工社長]

今、自分がやっていることは100点満点ではないし、そんなにいい点数ではないのではないか。常にそう思いながら、経営をしている。

弱気なわけではない。自分よりもすごい経営者がいて、負けている、引き離されている、そんな恐怖心がある。それを補うために勉強していく。そうすれば間違える確率は下がる。

大きなミスをして、その時に焦るとろくなことはない。自分が間違っているという不安感を埋め合わせるために、厳しいことを言ってくれる人となるべく話すように心がけている。


従来は組織の縦割りが強く、同じグループなのに社内報さえも各事業所で別々に作っていた。それをグループで1つの共通の社内報に統一して、英語版も出した。

GEによるアルストム事業買収の流れは、我々が火をつけた面も多少あるように思う。当社と日立が火力発電事業を統合したことが、GEとアルストムを接近させる一つのきっかけになった。

昔は大きなモノ作りプロジェクトで1回失敗しても、時間をかけて克服できた。何か問題が起きた場合、それに対応し、反省して次に生かすことに専念できた。

今はプロジェクトが大型化し、複雑化しており、原因究明や対応は簡単ではなくなった。


以前の三菱重工は、主に日本国内や近隣の国のお客様に製品を納入してきた。お客様から三菱重工というブランドに対する絶対的な信頼があった。三菱重工スタンダードが存在していた。

最近、プラントなどで大きな損失が出ているケースのほとんどは、企画やプロジェクトのハンドリングに問題があったことが原因だ。三菱重工がこれぐらいでいいと思っても、海外の相手はそうではなかった。

国際ルールに合うように、仮説検証の方法、より現代的なビジネスの意思決定、および戦略策定をしていかなければならない。一般解はないのだろう。

新しい時代のモノ作り力とは何だろうか。「スーパータレント」が一つひとつやる時代ではない。もちろん匠のような人も大事だが、システマチックに誰が担当しても75点から85点ぐらい取れる、設計なり製造、調達、SCM(サプライチェーン・マネジメント)をやる必要がある。

年500億円とか1000億円といった規模でやっていけるビジネスなら、そのまま続ければいい。

そこに達しないのなら、社外のパートナーと一緒になるという選択肢も考えられる。目標はコミット(約束)だから、やり抜いて達成しなければならない。言い訳をしてもしょうがない。

見かけ上、何とか数字を作るだけじゃなくて、より市場や投資家にきちんと説明できるようにする。

中身をもっとクリアに説明していく。足りなかったら次に補う。こうしたことをしつこく繰り返していく。

やっぱり数字は大事だ。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
pp. 040-043
 


宮永俊一氏 1948年福岡県生まれ。
72年東京大学法学部卒業後、
三菱重工業に入社。
2008年取締役常務執行役員、
機械・鉄構事業本部長。
2011年取締役副社長執行役員。
2013年取締役社長(写真=的野 弘路)
三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20


GEやシーメンスに挑むガスタービンを
製造する高砂工場は生産性の改善を急ぐ
(写真=菅野 勝男)
三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20


今回の編集長インタビューでは、宮永さんの口からは威勢のよい話は出てきませんでした。

それどころか、何か悲壮感さえ漂わせている、と感じました。宮永さんは、非常に危機感を抱いているのです。

社内外からは、「変革のスピードが早過ぎる」という批判が飛び出しているようですが、それは危機感の表れと考えられます。

「以前の三菱重工は、主に日本国内や近隣の国のお客様に製品を納入してきた。お客様から三菱重工というブランドに対する絶対的な信頼があった。三菱重工スタンダードが存在していた」

という言葉からは、長年、お客様から絶対的な信頼を得てきたという自負と、その自負とは裏腹に、その地位に安住してきたツケが今になって表面化し、深刻な事態を招きかねない、という気持ちがにじみ出ている、と感じました。

「井の中の蛙大海を知らず」や「茹でガエル」という言葉があります。

長年、大組織の中に浸かっていると、自分あるいは自分が所属する部署が担当している仕事や事業が、全社で見ると、どのような位置づけになっているか、という意識が希薄になってきます。

部分最適を全体最適と混同してしまうのです。

「成功の復讐」もまったく同じです。
時代が変わっているにもかかわらず、過去に成功したやり方を踏襲し、しっぺ返しを喰らうという例は、枚挙にいとまがありません。

その意味では、「歴史は繰り返す」と言えましょう。

三菱重工も、決して例外ではない、と気づくはずです。


PART 5 “化石”にならないために


三菱重工の実情と今後の展望について見てきました。

このパートでは、日本の産業界で“化石”となった三菱重工のどこが問題なのか、そして、日本では三菱重工のようなケースは決して、例外ではないこと
を知るべきだ、というのが『日経ビジネス』取材班の見解です。

マッキンゼー・アンド・カンパニーの元コンサルタントで一橋大学教授の名和高司さんはこう語っています。

「改革で少し成果が出ると安心してしまい、形状記憶合金のように元に戻る企業が少なくない」。

『失われた20年の勝ち組企業100社の成功法則』の著者で、マッキンゼーの元コンサルタントとして数多くのメーカーの改革に携わった一橋大学教授、名和高司はこう警鐘を鳴らす。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 044
 


結局、改革を最後までやり抜く覚悟ができているかどうかが、問われているということです。

問われているのは改革をやり抜く覚悟だ。

三菱重工がこれから改革を成功させるには条件がある。どのような企業を目指すのか。明確なビジョンを掲げることだ。

そうすれば、どの事業が不要で、もしくは重要なのか、鮮明に見えてくるはずだ。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 044
 


ところが、現状の三菱重工を見ると、不採算部門や将来性の乏しい事業からの撤退が不十分だ、と『日経ビジネス』取材班は指摘しています。

問題なのは、不採算だったり、将来性が期待できなかったりする事業からの撤退がほとんど進んでいないことだ。

「50以上のビジネスユニットや700の製品はもっと絞り込みたい」と宮永は話すが、具体的な候補は、はっきり示されていない。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 044
 


三菱重工のようなケースは、日本の産業界では例外ではありません。
ただ、三菱重工はあまりに変化してこなかったことに大きな問題があったの
です。

三菱重工は、日本の産業界の中で、今や“化石”のような存在といっていい。

その改革を「遅すぎる」と嗤(わら)う人もいるかもしれない。だが、変われないという意味では、「同じような悩みを抱えている日本企業はそこら中にある」(一橋大学教授の名和高司)。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 045
 


あなたの会社は大丈夫ですか?

「脱皮できない蛇は死ぬ」という言葉もあります。

変化できない組織、企業そして人間も、「待っているのは衰退への道」
(p. 045)を突き進むことになります。




🔷編集後記

この特集記事(元記事)が公開されたのは、9年前のことで、アメブロでも9年前(2014-10-24 18:00:10)のことでした。

大幅に加筆修正しました。

米GE、独シーメンス、日立製作所、三菱重工業の4社の売上高と営業利益の当時の比較が出ていましたが、世の中何が起こるかわかりません。

ダウ工業株30種平均(NYダウ)が設定された当時から、時代が変わっても一度も外されたことのなかった米GEの業績が急落し、NYダウから外されるという事態が起きました。

長年業績が良かったと思われていましたが、実体はモノづくりで稼いでいたのではなく、ファイナンスで稼いでいたのです。

そして、当時GEのCEO(最高経営責任者)だったジェフ・イメルト氏は金融部門を売却してしまいました。さらに株主の期待以上にGEの株価を上げることができませんでした。

2017年当時の日経電子版の記事には次のように記されています。


イメルト氏は金融事業の大幅縮小や仏アルストム部門買収などGEのお家芸である「選択と集中」でも手腕を発揮。「産業のデジタル化にも道筋をつけ、GEが進むべき方向性を示せたのではないか」。側近の評価なので多少割り引く必要もあるが、米産業界でのイメルト評は「実力経営者」として定着していたのは事実だ。

しかし、12日の米株式市場はイメルト氏の退任をむしろ好感し、GE株は前週末比3.5%高と急伸した。

「イメルトGEは文字通り株主にとって災難だった」。英バークレイズのアナリスト、スコット・デービス氏は厳しい評価を下す。

市場の評価が厳しいのは株価が上がらないことに尽きる。ダウ工業株30種平均は過去1年間で19%高だが、GE株は約4%安と低迷。会社は株主のものとの考えが米では徹底されており、株価は経営者の評価そのもの。物言う株主(アクティビスト)の標的となり、イメルト氏退任観測が出るのもやむを得なかった。
(中略)

事業の選択と集中、グローバル経営、マーケティング、機動的な財務運営……。GEが産業の「主流」だった時代、その卓越した事業オペレーションは常に称賛の的となり、GEはビジネススクールの格好のケーススタディーとなった。

もっとも、世界シェア首位の製品を多く持ち、各業界でGEはリーダー的存在ではある。しかし、業種を超えてデジタル技術が経営革新の中核テーマになる時代、革新の主役の座はグーグルやアマゾンなどに奪われつつある。

イメルト時代の16年間は、米企業の革新の舞台がGEが拠点を構える米東海岸から、西海岸へと急速にシフトした時期でもあった。

イメルト氏退任、もはや「主流」でない米GEの現実 
2017年6月13日 11:15 


三菱重工は、変革に継続して取り組むことによって、GEのような運命を辿ることはないと確信しています。


三菱重工の直近の企業業績をご紹介します。

三菱重工業(7011)今期の業績予想他 株探 2023/12/08

順調に業績は回復していることが分かりますね。


(8,850 文字)


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