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三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦2014.10.20 1/3 2014-10-22 17:55:49 




<このページでは、『日経ビジネス』の特集記事の概要紹介と、管理人のコメントを掲載しています>



三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦2014.10.20 1/3 2014-10-22 17:55:49



CONTENTS

PROLOGUE 好業績が隠す停滞

PART 1 モノ作りが通用しない

PART 2 いつの間にか取り残された

PART 3 宮永社長 初めての「経営」

PART 4 常に負ける恐怖心 神に祈るような気持ち 三菱重工 宮永俊一社長 インタビュー

PART 5 “化石”にならないために



第1回は、

PROLOGUE 好業績が隠す停滞

PART 1 モノ作りが通用しない


を取り上げます。


今週の特集記事のテーマは

国内市場に依存し、改革が遅れ、停滞を続けた三菱重工。
世界市場で取り残されまいと、硬直的な組織を変え始めた。
欧米勢との実力差に愕然とし、遅まきながら国際化を急ぐ。
だが、頼みのモノ作りは世界の壁に突き当たり、トラブルが目立つ。
経営陣の危機感が現場に浸透しているとは言い難い

(『日経ビジネス』 2014.10.20 号 p. 025)

です。



三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦
(『日経ビジネス』 2014.10.20 号 表紙)


PROLOGUE 好業績が隠す停滞


岩崎弥太郎が1884年に官営長崎造船局を借り受け、
造船事業をスタートさせたのが
三菱重工業の始まりだ。
写真は創業時の長崎造船所(写真=上:的野 弘路)
三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20


まず、三菱重工の現況について、『日経ビジネス』がレポートしていますので、見てみることにしましょう。

表面上は問題がないように見えますが……。

三菱重工は久方ぶりの好業績に湧いている。2014年3月期の営業利益は2061億円と17期ぶりに過去最高を更新。2013年4月に社長に就任した宮永俊一の改革手腕を評価するアナリストは多く、株価も高値で推移する。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 026 


ですが、『日経ビジネス』は別の観点から、厳しい見方をしています。

一見、成長局面に差し掛かったようにも見える。だが、三菱重工が抱える根源的な課題は何も解決してはいない。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 026 



どのような点で、「三菱重工が抱える根源的な課題は何も解決して」いないと言えるのでしょうか?

現代へとつながる縦割り組織の弊害は、戦後の財閥解体によって西日本重工業、中日本重工業、東日本重工業の3社に分割されたことに始まる。

戦後の経済成長期、3社は同一製品、同一業態のまま、競争を繰り広げた。

1964年に再統合するも、複数事業所で船舶やタービンといった同一製品を製造・販売する体制は変わらなかった。

独自の文化、伝統と強すぎる事業所意識は、本社の管理を拒絶。ヒト・モノ・カネは事業所単位で統括し、本社役員よりも事業所長の持つ人事権の方が強大だった時代が続く。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 026
 


社風(コーポレート・カルチャー)の異なる複数の企業が合併し、社風を統一することがいかに大変なことか、は多くの事例で知るところです。

私も経験しています。

同様に、三菱重工のようなケースもあるのですね。「財閥解体」という歴史がずっと尾を引いてきたという事実は、三菱重工にとって、長年にわたって、大きな「重し」となってきました。

では、なぜ改革は遅れたのでしょうか。
それには、「財閥解体」とは異なる、三菱グループや国、電力会社といった国内の超優良顧客の存在により、安定した取引が支えられてきた、という経緯があります。

敢えて海外に打って出る必要性が乏しかったのです。

三菱グループや国、電力会社といった、グローバル競争とはかけ離れた超優良顧客の存在があった。

組織を効率化し、コストを削り、付加価値を高め、必死で営業するという努力が不十分だったとしてもやってこれた。

だが、時代は変わった。先進国のインフラ投資は一巡し、主戦場は新興国へと移った。新興メーカーの台頭も著しい。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 027
 


時代が変わり、かつての超優良顧客が1社また1社と離れていきました。自社の経営効率が問われることになり、今までのような慣行は通用しなくなったのです。

背景には、外国人投資家と三菱重工の競合企業の存在がある、と私は考えています。

「モノ言う」外国人投資家は、社内留保を減らし、配当金の増額を要求し、株価を上げるような施策を強く、求めます。

経営陣は、そうした要求に応えなくてはならなくなったのです。

また、長年の慣行となっていた三菱重工との取引を見直す動きが出てきています。

品質、価格、メンテナンスなどのサービスを含め、国内外の企業へ視野を広げ、過去の実績にしばられず、取引を開始するケースが増えてきたのではないか、と私は推測しています。

かつての超優良顧客は徐々に三菱重工から離れ始めた。モノ作り力も世界の高い壁にぶつかっている。高度成長とともに躍進した三菱重工は、その陰りとともに存在感を失った。

以来、30年にわたって売上高が年3兆円前後とほぼ横ばいで、成長を果たせなかったことが何よりの証左だろう。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 027
 


ここで「モノ作り力」という言葉が出てきました。
今、「幻の名著」と言われる『ものづくり道』(西堀榮三郎 ワック 2004年7月10日 初版発行)という本を読んでいます。

西堀榮三郎さんといえば、第一次南極観測越冬隊長として、特に有名ですが、京都大学助教授を経て、東芝に入社し、モノ作りや品質管理で大きな功績を残した人でもあります。

その西堀さんが、「創造性」について、次のように書いています。とても参考になる話だと思います。

創意工夫というか、「創造性」というものは切迫感が強ければ強いほど出てくるのである。

『ものづくり道』 西堀榮三郎 p.29 
 


しかし、切迫感だけでは「創造性」は生まれない。知識が必要なのである。
創造性が生まれるためには、知識がニーズに結びつくことが必要で、そうしたとき「着想」という創造が起こるのである。では、ニーズとはいったい何かというと、社会や企業の要求とか問題の類(たぐい)である。

『ものづくり道』 西堀榮三郎 p.30-31 


知識と切迫感のほかに、もうひとつ大事なものがある。それは「非常識に考える」ということであって、既成の概念に捉われているうちは新しい着想は 浮かんでこない。

物事に行き詰まると、まず事の本質を考える。

新しいものを生み出す、あるいは新しいことをするということは、「非常識」から出発することが非常に多く、反対者の多いイバラの道である。

しかし、いかに険しい道であっても、新しいことをする勇気をもちたいと思う。

『ものづくり道』 西堀榮三郎 p.32-34 


少し、引用文が長かったですが、要は、「創造性」を生み出すには、「切迫感」「知識」「非常識に考える」の3つの要素が必要だ、ということです。
これらは足し算ではなく、掛け算かもしれません。

京セラの創業者の稲盛和夫さんがいう、人生·仕事の結果=考え方×熱意×能力に通ずることですね。

この3要素は、私たちがモノ作りに携わることがなくとも、日常生活において、何か創造的なことをしたい、と思った時に思い出してみるとよいかもしれません。

話を戻します。
三菱重工は過去、改革を試みたことはあります。しかし、長年染み付いた体質がそうやすやすと変わることはありませんでした。

ようやく先代社長(現会長)の大宮英明が、事業本部制へと舵を切った。それまでは、給与明細のフォームや、社員番号すら事業所ごとにバラバラだった。原価計算の仕組みも、資材管理のコードも、事業所によって異なった。
 
だが、今なおグループ報の創刊にすら激しい反発を見せる事業所の存在は、三菱重工の改革がまだ緒に就いたばかりであることを象徴する。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 027
 


日経ビジネスオンラインに、大宮英明会長のインタビューが掲載されていますので、その一部をご紹介します。

日立製作所と火力発電事業で事業統合しましたが、日立製作所との関連で、さらにもう一歩踏み込んだ発言をしています。

三菱重工は事業計画で年間売上高5兆円という目標を掲げました。とりわけ重要なのは海外です。

歴史を振り返ると三菱重工は国内で庇護されてきました。

例えば、発電システムでは、顧客である電力会社と一緒に物事を解決して、 少しくらい(問題が)あっても一緒に育てていこうとしてきた。

ライバルは集約されていて強い。電力システムでは米ゼネラル・エレクトリック(GE)と独シーメンスが競合ですが、両社とも本社がある地域で極めて高い競争力を持っている。GEは米国政府の支援や後押しを受けています。

いいかげんなことでは当社も戦えません。ですから自前主義を捨てて、5兆円の売上高規模を、何としても達成しないといけない。

そこで今年2月に火力発電システム事業を日立製作所と統合しました。GEなどの動きも考えて、我々も引き金を引きました。

グローバルに打って出ていくためには、まずは売上高5兆円を達成したい。
2015年3月期の売上高は4兆円を見込んでいます。

課題なのは、国際的に戦えるような体制になっている部分とそうでない部分があることです。自前主義からの脱却が一番難しい。

三菱重工には700の製品があり、たくさんの技術者がいます。
「自分でやればなんでもできる。(外の力を借りなくても)自分でできるじゃない」と思っている人はたくさんいる。(再編で)本体から切り出されることへの抵抗感も非常に大きな障害になっていました。

日立との全体統合はたぶんない。シナジーがどう出るのかですが、規模の大きなものをばちゃっとつければいいということではありません。今回、日立と火力発電システムを統合したのは補完効果が大きいからです。

(重電分野では)だんだんプレーヤーが少なくなっています。例えば、日立とは交通システムを一緒に売り込む。

日立には鉄道車両もありますが、その辺の組み合わせが将来どうなるのか。将来そういうこと(2社の鉄道事業の統合)があるといいな。チャンスはあるなと思っています。

日立との全体統合はたぶんない    
三菱重工、大宮会長が語る改革の課題 

 日経ビジネスオンラインから 
 聴き手は、山崎 良兵 記者  
2014年10月20日(月)

上記の記事に関するページはウェブサイトから削除されていました。


PART 1 モノ作りが通用しない


三菱重工は日本のモノ作りを支えてきた企業です。現在、生産計画の遅延や計画の甘さによる損失が頻発しています。

三菱重工の現場で何が起きているのでしょうか?

三菱重工発祥の地、長崎造船所(長船=ながせん)。坂道が多く、長崎市内の至る所から湾内の造船所と建造中の客船が見える。2014年3月期に600億円もの特別損失を計上せざるを得なかったこの船は、約130年の歴史を持つ長船の苦悩を映し出していた。

客船の発注者であるドイツのクルーズ会社、アイーダ・クルーズが三菱重工に求めたのは、顧客の設計図通りの「精巧な船」ではなく、これまでにないような「海のホテル」を造ることだった。それは、顧客と議論をしてゼロから設計する「プロトタイプ(一番船)」と呼ばれる船で、三菱重工としては初めての試みになる。

長崎の船造りの名人たちは、相次ぐ設計変更に翻弄された。内装工事に着手できぬまま、費用ばかりがかさんだ。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
pp. 028-029
 


下の画像をご覧ください。
LNG(液化天然ガス)船(右端)とそのすぐ左にホテルのような造りの建造物は「客船」です。

キャプションを読むまで、それが「客船」とは気づきませんでした。あなたはすぐに分かりましたか?

LNG船(右端)や客船(右から2つ目)を
建造する長崎造船所。
三菱重工業発祥の地で、
江戸幕府の鎔鉄所時代から数えると
約160年の歴史を持つ(写真=尾形 憲吾)
三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20


三菱重工は商船造りならお手のものでしたが、客船となると勝手が違いました。さすがの船造りの名人たちも戸惑いを隠せませんでした。

それでも、三菱重工はやらなくてはならなかったのです。躊躇ためらっている場合ではありませんでした。

ゼロから客船を造る――。それは社長の宮永俊一らが掲げる、「三菱重工こそがやるべき、難易度と付加価値の高い事業にリソースを集中する」方針に 沿うものだ。世界で戦える企業に脱皮するうえで、その戦略自体は間違っていない。ただ、力が及ばなかった。

昨年の暮れ、長船の幹部は東京・品川の本社に頭を下げていた。支援要請を受けて、宮永はすぐ、工程管理のエースらを長崎に派遣することを決める。

「客船は長崎造船所だけの問題ではなく、三菱重工の問題だ」。宮永は頻繁に長崎を訪れ、そう繰り返す。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 029
 


宮永さん他の経営陣が決定した、「客船」の建造は、長船だけではできないことを知っていたのではないか、と私は推測しています。

長年染み付いた縦割り組織を解体し、横断組織に改革するためには、言葉を尽くすだけでは不可能であり、縦割り組織ではもはや機能しないことを現場に気づかせるために、敢えて、不可能な課題を与えたのではないか、と思っています。

そうでなければ、「支援要請を受けて、宮永はすぐ、工程管理のエースらを長崎に派遣することを決める」ことはできなかった、と思うからです。

このような事態に直面することを、宮永さん他の経営陣は予測していた、と考えるのが自然です。

三菱重工が「世界で戦える企業」に変わろうともがき始めた途端、今までのモノ作りが通用しない現実を突き付けられたのも事実だ。

それは長崎の客船のように、同社を象徴する大型の製品に限らない。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 029
 


その1例は、チラシ印刷機の価格差に愕然とした、という話です。

今年1月に三菱重工印刷紙工機械(広島県三原市)とリョービの商業印刷機事業が統合して発足した、リョービMHIグラフィックテクノロジー(同府中市)。

「菊半」と呼ぶサイズの印刷機を比べると、三菱重工の値段はリョービより2割も高かったのだ。

三菱重工には基幹部品を安く作る力が欠けていた。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 030
 


次の画像をご覧ください。ジェット機の画像です。

10月18日に初披露する
「三菱リージョナルジェット(MRJ)」。
2015年4~6月に初飛行、2017年4~6月に顧客への
納入を計画している
三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20


日本航空(JAL)が導入を決めた、国産のジェット機です。
リージョナル(地域)という言葉が表しているように、短距離飛行機です。国内と近隣国向けのジェット機です。

10月18日に名古屋市近郊でロールアウト(初披露)式典を開く。

このMRJの納期がたびたび順延されてきました。国内で建造されていたのにもかかわらず、どうしたことでしょう?

MRJの1次仕入先(ティア1)は31社。エンジンを担当する米プラット&ホイットニーをはじめ、ほとんどが欧米企業だ。旅客機造りの経験は三菱航空機よりもずっと長い。

三菱航空機は開発を主導する立場であるはずなのに、国だけを見ていればよかった自衛隊機造りの経験者が多く、納期やコストをうまく交渉できない。

「MRJが失敗すれば、三菱重工も潰れかねない」。経済産業省のある官僚はこう指摘する。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 031
 


三菱重工には乗り越えなければならない高い壁が存在します。

初回から、かなりのボリュームになりました。まだまだ続きます。


次回は、

PART 2 いつの間にか取り残された

をお伝えします。



🔷編集後記

この特集記事(元記事)が公開されたのは、9年前のことで、アメブロでも9年前(2014-10-22 17:55:49)のことでした。

大幅に加筆修正しました。

三菱重工は、一般の人には名前は知っていても、どんな会社なのかあまり知られていないと考えています。なぜなら身近な商品がないからです。

三菱重工は、BtoB(ビジネス・ツー・ビジネス)と表現されるビジネスモデル、つまり企業対企業のビジネスをしていて、BtoC(ビジネス・ツー・コンシューマー)と表現されるビジネスモデル、つまり企業対消費者のビジネスをしていないからです。

三菱重工は、防衛産業に属しています。

池井戸潤氏の原作『下町ロケット』がテレビドラマで放映されたことがありましたね。そのドラマの中で「帝国重工」という名称が使われていましたが、三菱重工がモデルであることはすぐに理解できましたね。

ロケットとミサイルは基本的に同じ構造です。目的が違うだけです。

今回の日経ビジネスの記事の中に、「三菱リージョナルジェット(MRJ)」が取り上げられていました。

今年(2023年)、三菱重工はMRJから撤退しました。

「MRJが失敗すれば、三菱重工も潰れかねない」。経済産業省のある官僚はこう指摘する。

三菱重工 遅すぎた改革、最後の挑戦 2014.10.20 
p. 031 

この「事件」に関して、次の記事が見つかりました。

三菱重工業は2023年2月7日、連結子会社の三菱航空機が取り組んでいた「三菱スペースジェット(旧MRJ)」の開発事業から撤退すると発表した。

同社が、国産リージョナルジェット機の事業化を決定し、三菱航空機を設立したのは、2008年である。

三菱航空機は、最初の顧客となる予定だった全日本空輸への機体の納入を2013年に始めるはずだった。

しかし、2009年に設計変更を理由に納入延期すると、その後も検査態勢の不備や試験機の完成遅れなどで6度の納期延期を繰り返した。

三菱重工業が約1兆円の巨費を投じ、経済産業省も約500億円の国費を投入し開発を支援した、国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された。

実際には2020年10月30日に三菱スペースジェット事業は打ち切られていた。

三菱スペースジェット失敗の理由、
ホンダジェットとの比較を詳解
三菱に欠けホンダにはあった
リーダーシップと信念


実際には、この記事が掲載された6年後にはMRJ事業は頓挫していました。
実際には2020年10月30日に三菱スペースジェット事業は打ち切られていた」ということです。

なぜMRJは開発中止に至ったのかについて、次の記事がありました。
MRJは設計が最新の安全基準を満たせない」という大問題があったのです。

開発担当者であり、副社長という要職にあった方の赤裸々な告白が公開されています。

退職する1年前の2018年1月。開発子会社「三菱航空機」(愛知県豊山町)の副社長も兼務していた岸は、当時の社長、水谷久和と同社の会議室で向き合っていた。

水谷は静かな語り口でこう切り出した。
「チーフエンジニアを退き、副社長に専念して」
三菱重工に1982年に入社し、戦闘機開発に長年携わってきた岸は「戦闘機のエース」として、常に開発の最前線にいた。普段は感情をあまり見せないが、この時は声を荒らげた。

「そんな格好で残るなら意味がない。副社長を含めてクビにしてください」

当時、MRJは設計が最新の安全基準を満たせないとして、量産初号機の納入を2年延長していた。納入延期は5度目だ。

その頃、水谷は本紙などのインタビューに「今の見通しでいけばぎりぎりいける」と公言し、20年半ばと設定した新しい目標の達成に自信を見せていた。ただ、それは、新体制への刷新とセットだった。

「クビにしてください」 
三菱の国産ジェット事業凍結 
開発者が明かす苦悩 
東京新聞 2022年4月27日 11時30分


 


期待が大きかっただけに、開発中止は担当者にとって大きな打撃となりました。


(8,351 文字)


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