精神科医R.D.レイン論 1-③ サリヴァン/レイン~Simply Human
人として理解する――3つの位相
「シンプリー・ヒューマン」。
これは、レインが一度ならず引用している、アメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンの言葉である。サリヴァンは、当時の主流派であった精神分析のみならず、学際的なバックグラウンドを持ち、戦前のアメリカ精神医学をリードした存在であった。レインにとっての基本的な視点のひとつである「inter-personal」ということを明確に打ち出したのも、サリヴァンが先駆であり、レインも少なからず影響を受けていたと思われる。そんなサリヴァンが「simply human」との表現を用いたのは、次のような文脈においてであった。
こういったサリヴァンの「対人的過程」を中心に据えたアプローチは、変奏されつつ、「人として見る」というレインの視点のなかにも引き継がれている。
ここで、レインの言葉を通して、あらためて整理してみる。精神科臨床における「人として理解する」ということのうちには、三つの様相を見てとることができるだろう。
第一の様相は、<世界>の中における存在として理解する、ということ。そして、第二の様相とは、「他者」とともにある存在として理解する、ということである。
「二つの経験的ゲシュタルト」において語られていたように、人間は、ひとつひとつの個体として見るのではなく、あなたと私、人間と人間との関係において見ることもできる。しかし、当然ながら、人間は人間とのみ関わりながら生きているわけではなく、この身体を生きる者として、否が応でも世界との関わりの中にある。
そして、ここにもうひとつの様相を加えねばなるまい。第三の様相とは、他者を観察し理解しようとしている自己もまた、他者の側になりうる存在であり、かつ、そのような関係性のなかで常に変化している存在であるという、自己についての理解である。
サリヴァンの言葉にもあったように、「シンプリー・ヒューマン」とは、ただ単に生物学的な種としての同じ「人間」である、という意味で語られていたものではない。それは、精神病とみなされるような行為・現象の断片ひとつひとつは、いわゆる健常者とされる者においても見出しうるものであるということ、そこから自らも出発するということを意味している。
そして、このことは認識論的な主張にはとどまらない。この交替可能性、そして「精神病的可能性」は、「精神病者を治療する上で不可欠の必要条件」である、とまでレインは述べているのだ。
それはいささか極論にも聞こえるが、もう少し精緻に、「精神病的可能性」という概念のポジションについて考えてみよう。
「実存的文脈から生まれてくる」(DS185)ということ以外は何ら定義めいたことは語らずに、レインはこの語を用いている。とはいえ、精神病のありようを「個」へと還元することを相対化する視点を提示しているわけなので、「精神病的可能性」ということもまた、「彼ではなく、自分が精神病になったかもしれない」といった、単なる立場の入れ替えだったり、「彼の気持ちになって理解する」などといった感情移入的な理解にとどまる、ということではないだろう。
だとすれば、「精神病的可能性にすがる」とは、世界、他者との関係性において生じるところの「精神病」の「可能態」とでも言うべきものをどう捉えるか、という問題へと通じるはずだ。
さらにもう一歩踏み込んで考えるならば、そもそも、目の前の人が「精神病者」であると認識するためには、既にその人についてかなりの部分を理解できているのでなければならない、という逆説的な現実がある。そうでないならば、何らかのコンタクト自体、生じえないはずである。
だとすれば、「精神病者の営為の圧倒的大部分は、われわれの対人的過程と厳密に同一の材料からつくられている」とのサリヴァンの言葉にもある通り、「精神病的可能性」とは「私たちは、すでに精神病者をかなりの部分を理解できている可能性」をも意味するだろう。つまり、「精神病的可能性」とは、何か特殊な状況、特殊な事態を想定したものではなく、ごく日常的な人と人とのありようを示しているのだ、とも言えまいか。
(つづく)
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