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精神科医R.D.レイン論 1-③ サリヴァン/レイン~Simply Human

人として理解する――3つの位相

「シンプリー・ヒューマン」。
これは、レインが一度ならず引用している、アメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンの言葉である。サリヴァンは、当時の主流派であった精神分析のみならず、学際的なバックグラウンドを持ち、戦前のアメリカ精神医学をリードした存在であった。レインにとっての基本的な視点のひとつである「inter-personal」ということを明確に打ち出したのも、サリヴァンが先駆であり、レインも少なからず影響を受けていたと思われる。そんなサリヴァンが「simply human」との表現を用いたのは、次のような文脈においてであった。

もっとも重症の機能的精神病(分裂病や躁鬱病などを指す)が示すさまざまな現象にも、それ独自のものは全然ない[…]。たとえば、急性の分裂病患者がみせる最も奇異な行動さえも、それはわれわれの誰しもが日常馴染みの対人的過程、あるいは過去の生活において馴染みであった対人的過程から成るものである。[…]精神病者の営為、すなわちその対人的過程、の圧倒的大部分は、われわれが一日二四時間のどのあたりかで現わす対人的過程と厳密に同一の材料からつくられている。確かに精神病者の言動の中には実に奇妙なものもあるが[…]われわれは何よりも先ず等しく同じ人間である(much more simply human than otherwise)。幸福な成功者であろうと、超然と自足している者であろうと、悲惨な境遇の精神病者であろうと、その他どのような者であろうと、この点に変りはない。」(サリヴァン『現代精神医学の概念』邦訳p26)

こういったサリヴァンの「対人的過程」を中心に据えたアプローチは、変奏されつつ、「人として見る」というレインの視点のなかにも引き継がれている。

ここで、レインの言葉を通して、あらためて整理してみる。精神科臨床における「人として理解する」ということのうちには、三つの様相を見てとることができるだろう。
第一の様相は、<世界>の中における存在として理解する、ということ。そして、第二の様相とは、「他者」とともにある存在として理解する、ということである。

くこころ〉と〈からだ〉、〈精神〉と〈身体〉を切り離してしまうことは望ましくない。〈人間〉を〈動物〉や〈事物〉として取り扱ってはならないが、さりとて人間を、彼が他の生物に対して持つ関係からひき離したり、彼の母体をなしている物質からひき離したりしようとするのは、おろかなことであろう。[…]
さらにわれわれは、〈ある人〉について、偏りのない考察を、彼と他者との関係についての考察なしに行うことはできない。一個人を考察する場合にも、各個人は、常に、他者にはたらきかけ、かつはたらきかけられているものだということを、忘れるわけには行かない。他者たちもまたそこにいるのである。ひとは誰でも、真空のなかで、行動したり経験したりするのでは決してない。われわれが記述し理論づけようとしているところの人とは、彼の〈世界〉における唯一の主体ではないのである。 (『自己と他者』(以下SO)p93)

「二つの経験的ゲシュタルト」において語られていたように、人間は、ひとつひとつの個体として見るのではなく、あなたと私、人間と人間との関係において見ることもできる。しかし、当然ながら、人間は人間とのみ関わりながら生きているわけではなく、この身体を生きる者として、否が応でも世界との関わりの中にある。
そして、ここにもうひとつの様相を加えねばなるまい。第三の様相とは、他者を観察し理解しようとしている自己もまた、他者の側になりうる存在であり、かつ、そのような関係性のなかで常に変化している存在であるという、自己についての理解である。

ある人間が、自分の存在について自分自身がもつ概念や体験が、他人の自分についてもつ概念や体験と非常にちがうかもしれないということに気づきうるということは、実際的にはかなり重要なことである。このようなことができる場合には、ひとは、他者を自分自身の世界のなかの客体として、つまり自分自身の関連系全体のなかの客体として見るだけではなく、むしろ自分自身を他者の事物配置のなかの一人の人間として定位することができなければならない。だれが正しくてだれが間違っているかを予断しないで、今のべた定位のしなおしを行なうことができなければならない。そうすることのできる能力こそ、精神病者を扱う上での絶対不可欠の必要条件である。(DS27)

精神病者とは、ハリー・スタック・サリヴァンが述べたように、結局のところ、他の何ものかであるというよりも、〈人間そのもの〉なのである。医師と精神病者のそれぞれのパーソナリティは、解読者と著者のそれぞれのパーソナリティもそうであるように、出会うこともなく比較されることもない二つの外的事実のように互いに対置されているのではない。解読者のように治療者も、別種の奇異な異質でさえある世界像のなかへ身を置き換える柔軟性をもたねばならない。この行為において彼は、正気を失うことなしに、自己の精神病的可能性(psychotic possibility)にすがるのである。このようにしてのみ彼は患者の実存的境地の理解に到達することができるのである。(DS39)

サリヴァンの言葉にもあったように、「シンプリー・ヒューマン」とは、ただ単に生物学的な種としての同じ「人間」である、という意味で語られていたものではない。それは、精神病とみなされるような行為・現象の断片ひとつひとつは、いわゆる健常者とされる者においても見出しうるものであるということ、そこから自らも出発するということを意味している。
そして、このことは認識論的な主張にはとどまらない。この交替可能性、そして「精神病的可能性」は、「精神病者を治療する上で不可欠の必要条件」である、とまでレインは述べているのだ。

それはいささか極論にも聞こえるが、もう少し精緻に、「精神病的可能性」という概念のポジションについて考えてみよう。
「実存的文脈から生まれてくる」(DS185)ということ以外は何ら定義めいたことは語らずに、レインはこの語を用いている。とはいえ、精神病のありようを「個」へと還元することを相対化する視点を提示しているわけなので、「精神病的可能性」ということもまた、「彼ではなく、自分が精神病になったかもしれない」といった、単なる立場の入れ替えだったり、「彼の気持ちになって理解する」などといった感情移入的な理解にとどまる、ということではないだろう。
だとすれば、「精神病的可能性にすがる」とは、世界、他者との関係性において生じるところの「精神病」の「可能態」とでも言うべきものをどう捉えるか、という問題へと通じるはずだ。

さらにもう一歩踏み込んで考えるならば、そもそも、目の前の人が「精神病者」であると認識するためには、既にその人についてかなりの部分を理解できているのでなければならない、という逆説的な現実がある。そうでないならば、何らかのコンタクト自体、生じえないはずである。
だとすれば、「精神病者の営為の圧倒的大部分は、われわれの対人的過程と厳密に同一の材料からつくられている」とのサリヴァンの言葉にもある通り、「精神病的可能性」とは「私たちは、すでに精神病者をかなりの部分を理解できている可能性」をも意味するだろう。つまり、「精神病的可能性」とは、何か特殊な状況、特殊な事態を想定したものではなく、ごく日常的な人と人とのありようを示しているのだ、とも言えまいか。

(つづく)

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