見出し画像

『ダイヤモンドの功罪』

 Yahooニュースで、宝島社が発表する「このマンガがすごい!」ランキングの2024オトコ編1位に、『ダイヤモンドの功罪』が輝いたと知ったので、早速私も読んでみた。確かに面白い。このマンガは、野球を舞台にしているけれども、本質は才能ある子供たちの教育をどうするかという物語である。便宜上子供たちの内面と、私たちは彼・彼女らをどの様に処遇すれば良いかをそれぞれに分けて考えてみたい。
 
 まず内面の問題である。芸術や運動の領域では、早くから頭角を表す才能を私達は知っている。例えば、コンサートで2度の弦が切れるアクシデントがあったにも関わらず、そんなことを微塵も見せず演奏をやり遂げたバイオリニストの五嶋みどりさん、アイデアあふれるサッカーをする久保建英さん、最近では将棋タイトル8冠に輝いた棋士の藤井聡太さんが有名ですよね。彼らは内面に、プロレスラーの前田日明さんが言うように「選ばれる者の恍惚と不安、二つ我あり」という気持ちを抱えている。
 『ダイヤモンドの功罪』の主人公、綾瀬川次郎くんもそうである。彼のお母さんが見抜いてるように、「あんた、それじゃ〝片方〟しか出来ないじゃん。次郎はただ野球だけやりたいんじゃなくて、〝同じ世代の子〟と一緒に野球したいんでしょ?」といった具合である。
 人間は二度生まれるという。一度目はお母さんの身体からこの世に生を受けるときであり、二度目は小学校高学年頃から中学校くらいまでの、親から精神的に自立(=自律)するときである。内村鑑三のように信仰を持つ人は、自分を神様と同一視することでこの時期の精神的危機を乗り越える事ができるが、そうでない子どもたちは〝かがみ〟としての友達が絶対に必要である。(それ故、シカトされることがこの時期の子どもたちにとって、一番キツイいじめなのだ。)日本人はその傾向が強いように思えるし、才能のある綾瀬川くんのような人材はなおさらである。自分を確立するためには、友達と仲良くして自分の思うところを相手にぶつけて友達の意見を聞いて、自分の糧にする必要があるが、飛び抜けた資質が相手の反発を買い戸惑ってしまう。綾瀬川くんのようなエリートの苦しみはそこにある。コミックの中で綾瀬川くんが、U12-ナショナルチームの並木監督を慕って、監督の野球塾に入りたいと希望するシーンがあったが、断られて落ち込む彼の絵がとても印象的だった。男の子が育つためには、象徴的な意味で父親が必要なのだろう。綾瀬川くんの家庭は、実の父親が単身赴任の女系家族であった。

 次に、私たちの社会が、才能ある子供たちにどう向き合えばよいか考えよう。評論家の加藤周一さんの筆に、『松山の印象 民主教育の問題』という文章がある。敗戦から11年後の1956年1月の、四国松山市で開かれた日本教員組合(日教組)の教育研究全国集会を見聞した加藤周一さんの感想である。大事な指摘があるので、ここに引用しておこう。(下記の引用文は、日教組が重視する民主主義に必要な、自主的な人間の養成と教育の機会均等という原理が、果たして義務教育のすべての問題をカバーするのに十分か、という加藤さんの問題意識の下で書かれたものである。)

 民主主義は当面の急務には違いないが、それだけによって教育の問題が解けるような万能薬ではない。教育は人間を作る仕事である。ところが民主主義は人間活動の一部を規定する原理であって、全部を規定する原理ではない。(足りない部分は)常識、習慣、倫理、美学、その他の総じて歴史的な文化と言われるものから引き出される他はないのである。

加藤周一『雑種文化 日本の小さな希望』【講談社文庫】

 民主主義は本来、政治上の原理で、例えば君主主義に対立するものである。しかし政治上の原理が、一定の仕方で人間の関係一般を規定し、従って人間そのもののあり方を規定する。しかしそのことは、具体的な一つの社会が一個の政治的原理によってだけで運転するということは別であり、人間生活全般がその政治的原理に由来する一定の規則やものの考え方で処理されるという事とは全く別である。

加藤周一『雑種文化 日本の小さな希望』【講談社文庫}

 民主主義は西洋で先に発達したものであるから、西洋の例を引くが、西洋の社会は単に民主主義的であったのではなく、同時にキリスト教的であった。その社会が今日ある様に運転しているのも、単に民主主義の原理が生きているからではなく、民主主義の原理では間に合わぬ領域に、キリスト教又はキリスト教がヘレニズムと結びついて生み出した価値の体系があるからである。日本に今民主主義の枠を作ろうとする時に、その中身を我々はどうするつもりであるか。おそらく日本の民主主義の根本問題はそこにあるだろう。どういう人間を作るかは教育家だけの問題ではなく、社会全体の問題だろう。ところが敗戦後の日本では社会の全体が、あるべき人間の姿を見失っているのだ。

加藤周一『雑種文化 日本の小さな希望』【講談社文庫】

 教育の機会均等が原則として望ましいことは言うまでもない。しかし、上級学校進学の機会が均等でない場合に義務教育の内容についてだけ機会均等の原則をあまり徹底させると無理が生じるだろうと私は考える。何事かを学ぶ機会の均等は、学んだものを利用する機会の均等と組み合って初めて実質的な意味を生じる。その点は教育の機会均等を原則として掲げる時に、常に考慮されなければならないと思う。

加藤周一『雑種文化 日本の小さな希望』【講談社文庫】

 教育の機会均等に熱心な人々が、教育の知的内容をその一番高いところでもっと高くするという仕事にどれだけ熱心であるか、例えば日本の学問芸術の水準を高めるために初等教育の段階でどういう工夫をしているか、もしそこに熱心でなく、そこに具体的な工夫がないとすれば、教育の機会均等だけを鵜呑みにできない人は少なくないだろうと思われる。今でもおそらく確実なことは、しかるべき学問芸術の水準を保たない限り、日本国民が国民としての誇りを保つことは難しいだろうということである。学問芸術の水準を保つために、さしあたってその工夫を六・三・三の過程に限り、話を学問芸術の学問だけに限って言えば、特定の学校又は級に限り、ある程度の、と言って今とは比べものにならぬ程度の詰め込み教育が必要ではないか。

加藤周一『雑種文化 日本の小さな希望』【講談社文庫】

 長々と加藤周一さんの議論を引用・再構成した。民主主義は、世の中の枠組みを与えるもので、子供たちの教育にはその国の歴史的な文化に裏打ちされた価値観が必要なこと、及び画一的な教育の機会均等を与えるだけではダメで、才能のある子供たちには特別な施策が必要なことを確認するためである。上記で「教育の知的内容をその一番高いところでもっと高くする仕事」とあるのは、政・官・財・学のリーダーを養成するという趣旨も含んでいるのだろう。つまり『ダイヤモンドの功罪』で言えば、主人公の綾瀬川次郎くんのような人材を積極的に養成する必要性が社会の側にあるということであろう。
 私も、加藤周一さんが指摘するように、戦後の日本社会は、どのような社会を作りたいか、その自画像を結べなかったのだと思う。日本人は秩序はアプリオリに与えられて(=内なる天皇制)、自分たちで維持発展させていくという意識がかけると思う。その結果、民主主義は討論を重ねての熟慮の政治ではなく、数による横暴に堕落した。数を頼りとした悪平等主義も蔓延し、その再生産を繰り返しているのではないか?。
 
 ギリシャの哲学者アリストテレスは、その著書『政治学』【岩波文庫 8ページ】で、「奴隷は自然的なもの。全自然のうちに支配と被支配との関係が認められる。人間のうちには、理性を十分にはもっていないが、それに基づく命令を理解する程度の者がいる。この者が支配さるべき自然の奴隷である。しかし自然の奴隷ではなくて奴隷にされているものがいる。ここから奴隷制度そのものが或る人々によって否定されることになる。だが、彼らは間違っている。自然の奴隷は主人に服従することによって利益を得るのである。」と言い切ってしまう。ここで〝自然の奴隷〟とは身分差別ではなく、個人の能力差のことである。厳しい現実ではあるが、子どもたちは意外と受け入れているのではないかと思う。本物のエリートが大衆を救う、と分かっているのだ。例えば子どもたちが見るアニメ『鬼滅の刃』では、主人公にその母が次のようなセリフを言って聞かせる場面がある。

 母:「母が今から聞くこと、なぜ自分が人よりも強く生まれたか、わかり                 ますか?。」
主人公:「分かりません」
 母:「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように。」
主人公:「はい。」

『鬼滅の刃』

子どもたちは、サブカルチャーを通じて、ノブレス・オブリージュ(nobless oblige : 高貴なる者の責任)という考え方や、政治を学んでいるのだ。
 問題は、親御さんのほうだろう。親御さん自身が日教組の平等教育を受けているからだ。誰だって我が子は可愛いに決まっている。子供には自分より幸せになって欲しいと思っている。だから我が子が差別的な扱いを受けることは、受け入れがたい。『ダイヤモンドの功罪』の物語でも、主人公が最初に入った足立バンビーズにコーチとして来ていた、社会人野球の経験者であるヤスの父親は、綾瀬川次郎くんの才能を伸ばしたいあまりヤスをないがしろにし、夫婦は諍いをし離婚に至ってしまったし、U12-ナショナルチームの並木監督は、自分の野球塾にコネで入れた息子が不憫で、綾瀬川くんの申し出を断ってしまいます。
 一方で、今の日本社会は前記したように、綾瀬川次郎くんのような天賦の才能を持つ人材を育て、彼らを全面に押し立て再興を図る必要性に迫られている。私達は、〝綾瀬川次郎くん〟達を受け入れることが出来るだろうか?。


 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?