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『不適切にもほどがある!。』

 今クールで一番面白かったドラマは、『不適切にもほどがある!』でした。80年代に青春を送った私には、チョメチョメとかニャンニャンという言葉が懐かしかったです。でも私はこのドラマの本質は、私達はどこで間違ったのかを問う、脚本家を始めとする制作者サイドの志の高さにあると思っています。80年代に私達は間違ったのです。そのことを説明するために、少し昔話をさせてください。

 その昔、太平洋戦争に敗戦した日本は、アメリカを中心とする連合国のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に占領されました。焼け野原の日本を背負った外交官出身の吉田茂首相は、早期の独立・主権回復と庶民の生活を立て直すための経済の復興を模索しました。その頃ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦。今のロシアのことだよ。)を中心とする東側と、アメリカを中心とする西側の対立(=冷戦)が表面化しつつありました。吉田首相は、西側の陣営に入り、安全保障にかかるコストを出来るだけかけずに経済再生に専念できる道を決断しました。いわゆる吉田ドクトリンです。果たして1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約に署名して日本は主権を回復し、一方で〝お番犬様〟として米軍が日本に駐留することになりました。この戦略は大成功でした。朝鮮戦争による特需もあって、日本経済は順調に回復軌道に乗ることが出来ました。官僚たちは〝傾斜生産方式〟を導入して、自動車産業やエレクトロニクス産業を資金面や税制で優遇し、アメリカ市場に輸出させ、稼いだお金で当時はまだ統制食料であったお米を年々高く買い取ることで国内経済の拡大に成功しました。(東京オリンピックのことや公害の問題もあったけれども、それはこの文章の本筋ではないので省く。)私が思うに、この戦略は80年代中頃までは有効に機能したと思います。

 ドラマの舞台は、1986年と令和6年の今ですが、1986年の当時は自民党の中曽根康弘政権でした。そしてアメリカは レーガン大統領でした。中曽根元首相は、レーガン大統領と個人的な信頼関係を築き、ロンヤス関係と言われました。ドラマの舞台となる1年前の1985年には、プラザ合意が結ばれました。

 プラザ合意とは、1985年9月22日にニューヨークのプラザホテルで開催された先進5カ国(米国、日本、英国、ドイツ、フランス)蔵相・中央銀行総裁会議(G5)で発表された為替レートの安定に関する合意です。失われた30年の間に生を受けた今の若者にはにわかに信じ難いだろうけれども、80年代の日本経済は絶好調で、アメリカへの輸出で貿易摩擦が日常茶飯事に起きていました。経営コンサルタントとして著名な大前研一さんがメディアに登場して、日本的経営の素晴らしさを語る伝道師として機能したのもこの頃です。レーガン政権はデタラメな経済政策(その具体例としては、例えば税収に関するラッファー曲線。有斐閣大学双書『近代経済学 新板』483ページ参照)に基づき減税をし、なおかつ歳出は削らなかったので需要が増大し空前の好景気になりました。アメリカ国民が最も偉大な大統領にレーガンさんを選ぶのは、このときの〝夢〟が忘れられないからでしょう。それでは減税分のアメリカ国債を引き受けたのは誰か?。それが米国市場に輸出して儲けた日本企業だったのです。(日本政府も、外貨準備の運用先として、アメリカの短期国債市場を利用していました。)アメリカの〝花見の宴〟経済が継続するためには、国内外からドルを集めなければならず、そのためにはドルの高金利・為替相場でのドル高が必要でした。しかしそのような政策は、アメリカの製造業を中心とする輸出産業を弱体化させ、米国の貿易と財政の双子の赤字を増長させる事になり、限度があったのです。事実ブラックマンデー(=Black Monday 1987年10月19日のニューヨーク株式市場で起こった過去最大規模の暴落を指します。この日、ダウ工業株30種平均は1日の取引で508ドル(22.6%)下落しました。)のような事件も起こり、レーガン大統領がGreat Communicatorとして、(シリコンバレーを念頭に)カリフォルニアは借金も多いが一番経済成長していると語り、国民に冷静な対応を求めたのです。そして、このような背景を元に為替相場の調整を本旨とするプラザ合意が締結されたのです。

 為替相場は円高に振れましたが、問題なのはその速さでした。ジリジリとした円の値上がりには各輸出企業は企業努力で吸収出来ますが、一気に円の価値が2倍になるような為替変動は、企業努力を超えています。プラザ合意に出席した竹下登蔵相を、「竹下さん、あなたは何を約束して来たのですか?。」と経済・財政通の宮澤喜一さんは責めたそうです。対応に苦慮した中曽根総理大臣は宮澤さんに大蔵大臣就任を請い、宮澤さんはそれを受け入れ大蔵大臣に就任し円高対策に奔走しましたが、アメリカの思惑もあり十全なる対応は出来ませんでした。日銀も景気の後退を懸念し大規模金融緩和を実施し過剰流動性を担保しましたが、それがバブル経済を生み、バブルが弾けて巨額の不良債権となり〝失われた30年〟の元凶になりました。(この時大規模な財政支出があったか私の記憶では定かではない。総理大臣経験者としては異例の、小渕内閣の大蔵大臣に就任した宮澤喜一さんは、「私は多量の国債を発行した大蔵大臣として記憶されるだろう。」と述べたとされる。)

 何ゆえバブル経済が発生したのか?。それはニューヨーク、ロンドンと為替市場が開かれる中で、東京がたまたまニューヨークとロンドンのあいだの地理にあり、この3都市を結ぶことで24時間の為替取引が可能になるという〝神話〟が流通したからである。この〝神話〟によって、日本の金融機関、当時国際競争力があった自動車産業・エレクトロニクス産業の株が買われました。また外国の金融機関が東京にオフィスを求めるという〝神話〟から、東京の不動産の地上げが行われ、不動産の売却益を得た地主が地方に不動産を求める玉突き衝突が起きるという〝神話〟から、全国的な不動産の値上がりに繋がりました。日本列島の一部の地価で、アメリカ全土の土地が買えるといった馬鹿げた話もあったのです。経済評論家の長谷川慶太郎さんは『投機の時代』という本を書き、「投機をしないのは世捨て人だ」と述べられましたが、この時代に何ら投資活動をしない人が無傷で済んだのです。言い換えれば、この時代は皆おかしかったということでしょう。

 もしこの時代に政・官・財・学の各界に本当の意味でのリーダーがいれば、あふれるジャパン・マネーを誘導し、新しい新産業を生み出し、世界に国際公共財を提供し、令和6年の今と違った世の中になっていたでしょう。
中曽根=レーガン=サッチャーの新自由主義路線を継承した、小泉純一郎さん=竹中平蔵さんのコンビ(及び自民党のその後継者)は、議論をより単純化し、「官から民へ」「競争、競争、競争」と叫ぶのみで、中身がまるでありません。政策というより個人の信条(あるいは信仰?)に近く、いわんや科学ではありません。もうこうした馬鹿げた議論はやめようではありませんか!。

 話は飛ぶようですが、皆さんはAvantgardeyというダンスチームをご存知でしょうか?。同じおかっぱ頭、同じ制服、同じ上履きでダンス・パフォーマンスを演じるチームです。彼女らの演技を見ていると、日本人の特質ということを考えさせられます。同じ髪型、同じ服装で演技するのは、紺やグレーの同じ背広姿で働いていた数十年前の日本のサラリーマンを思い出すし、彼女らの一糸乱れぬパフォーマンスは、エスカレーターで自然と片側に並ぶ日本人の秩序感覚を想起させます。Avantgardeyのメンバーを指導する元登美丘高校ダンス部の名物コーチのakaneさん(26歳)は、〝失われた30年〟の間の生まれですが、昭和の時代(1926年12月25日~1989年1月7日)が輝いて見えるそうです。私はakaneさんがそこに日本人の〝ルーツ〟(あるいは〝アイデンティティー〟)を見出したのだと思います。また別のニュース報道ですが、新入社員の若者が、会社の上司と人間的な交流を持ちたがっているというのもありました。こうした光景は、『不適切にもほどがある!』の1話にもありましたよね?。
 「泣いて馬謖を斬る」という言葉があるように、安全保障あるいは警察権力は、トップダウンで決めなければ行けないのかも知れません。しかし、経済の問題は、宮澤喜一さんも指摘するように皆でペダルを漕いでいるのだから、新自由主義的な考え方ではなく、日本人が働きやすいようなやり方で考えるべきでしょう。私達には私たちのやり方があるのであり、そこに本物の経済学者であるケイジアンの岩井克人さんの議論を踏まえて経済政策を構想すべきではないでしょうか?。


参考文献  
 丸山俊一 『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』 東洋経済新報社

*この文章はβバージョンであり、読者の皆さんのお叱りを受けてより良い  ものにして行きたいと思っています。

**私自身が考える将来構想については、別の文章で発表したいと思っています。



 


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