2019.01.21函館教育大学韓国語授業資料「外国語コミュニケーション」

「外国語コミュニケーション」って何?

~コミュニケーションは「する」のではなく、「在る」ものであるという話~

<外国語コミュニケーシンという科目は一体何か?>

 「外国語コミュニケーション」という科目は一体何だろうか?外国語でコミュニケーションできるようになるための授業?外国語の基礎を学んだ人が単純に次の段階として選択する授業?それとも、「コミュニケーション論」を学ぶ授業?そもそも、「外国語」だけでなく、何でわざわざ「コミュニケーション」を科目名に冠しているのか?

正直に言うと、この授業を担当している私もこの科目が、なぜ、「外国語『コミュニケーション』」となっているのかはわかりません。たぶん、ほかの「外国語コミュニケーション」担当の先生もわからないと思います(知らないのは自分だけ?)。もし、英語やほかの外国語の先生方が、「外国語コミュニケーションというのは○○の目的があって開設されている」ということを知っているというのであれば、「外国語コミュニケーション」は○○という方針があり、英語のみならず、その他言語で外国語コミュニケーションを選択した場合でも、外国語コミュニケーション「英語」と一律同じように、○○が達成できることを目標に授業しましょうと会議でもあるはずですが、そんな話し合いを持たれたことは、私がこの授業を担当するようになってから一度もありません。だから、先生各々が、「外国語コミュニケーションという科目は何か」を定義し、何のために存在している授業なのかを模索しながら授業を進めていると思われます(もしかして、ほかの外国語の先生同士でこっそりミーティングとかしてる?ぼっちだけはさすがに嫌ですよ!)。

だから、「外国語『コミュニケーション』ハングル」に、○○の資格を取るために必須科目になっている」とかいう基準があったらどれだけ楽かと思ったりもします。○○の資格を取るために「英語」ではなく「ハングル」が必要な科目となっていたら、「資格取りたきゃ何としても頑張れ」「この基準を満たせないヤツは全員不合格だぞ」とか何とか言いながら授業ができます(別にこういうやり方がしたいわけではありませんけど)。たいてい大学の授業と言うのは、「教える先生の研究発表の場(先生が研究者であることが前提ですが)」でもあるので、私が研究していることを折り混ぜながら授業を進めるのが普通です。

しかしながら、「外国語」となると、なぜか学術的な面よりも、「実用面[1]」が強調されるようです。殊に外国語では、「会話ができるようになるため」という目的が一般化されています。本当は私も研究っぽいことはやっていたり、外国語教育を専門的に語ることもできる立場だと思っているので、学術的な話をどんどん盛り込みたいなと思っているのですが、私の力量が足りないせいもあり、そういう形に十分できていません。もっとも皆さんは、「コミュニケーションって書いてあるから、『会話』の授業なんじゃね?『コミュニケーションのやりとり』なんじゃね?」と思って履修登録すると思います。ですから私も、皆さんの期待を裏切らないように(?)、「韓国語の会話力の向上」を目標に授業をしようと思っています。本当は、もうちょっとアカデミックで韓国語教育の専門的なところをやってみたい野望はあります。例えば韓国語のみで行うプロジェクト型学習とか、言語教育観の問い直しを皆としてみるとか。ただ、これをするためには、「まず韓国語がわかる」そして、「ある程度話せる」ことが前提になります。

 

<第二外国語枠における「大学生に相応しい韓国語の授業」とは何か?>

 

一応この学校に韓国語の授業は、1年生前期から取れる基礎授業があり、2年生で取れる発展授業があります。基礎が初級とすれば、発展は中級といったところでしょう。しかし、韓国語専攻のコースならまだしも、週一程度の授業で、一年間基礎を学び、数年で会話がすらすらできるようになるとは考えられません。韓国語の初級語彙・文法(TOPIKⅠ)の範囲は一応2000語で、この単語量を覚えるのって結構大変です。韓国の語学学校で(韓国で生活しながら)、初級を終わらせるためには少なくとも400時間かけます。一日2個くらいの文法を練習し、平日毎日4時間くらい授業を受けて20週間(約5ヶ月)です。日本で90分授業を一週間一回したとして、夏休みも冬休みも勉強し続けて、4週で6時間×12ヶ月=72時間ですから、400時間費やすのに、5~6年かかってしいます。韓国での5ヶ月を日本では5年です(ドラゴンボ○ルって漫画に、「精神と時の部屋」ってのが出てきます。部屋の中では365日が外の世界の1日分にしかならなくて、部屋で7年訓練しても、外に出ると1週間しかたってないという素晴らしい部屋だそうです。韓国の語学学校で6ヶ月も勉強して日本に帰ってくると、この部屋にいたような感覚になり、「オラ孫悟空、オラ急に強くなった気がするぞ」ってなります)。あくまで、これは単純計算ですから、日本で勉強しているからと言って、初級を終わらせるのに5年もかかることはないのですけど(私の教師経験上TOPIK初級後半に合格するのに、家庭学習の時間さえ確保できれば1年あれば十分です)、時(・)間(・)を(・)か(・)け(・)な(・)い(・)で(・)で(・)き(・)る(・)よ(・)う(・)に(・)な(・)る(・)こ(・)と(・)はまずないと心に留めておいてください。ですから、週一回の授業を二学期分受けたくらいで、「はい、自由に会話できますよね?これから5分自由に話してみましょう」なんてことにはならないのです。さらに、日本で学ぶ場合、障害になることは時間数だけではありません。学ぶ側が「自分はこれだけやったから、□□はできるようになった」と自ら実感できる教育が施されていないというのも大きな問題といえます(この授業も含めてですが)。

ある本によると、日本で暮らす日本語母語話者の児童は、小学校6年生くらいまでに1500語もの外来語(主に英語)を覚えると言われています[2]。また、学研の小学国語辞典の収録数は37,200語で、その内外来語は全体の約10%、単純計算で3千語が小学生の外来語として収録されているようです[3]。それだけ日本に英単語が溢れていて、知らないうちに外来語(主に英単語)を覚えているわけです。だけど、どうでしょう。目に触れる語として3千、習得できているもので1500語あるにも関わらず、「英語を話すのは苦手」と考えている人は多いようです。本当は、1500語も知っているから会話能力はゼロではありません。たぶん話そうと思えば、何らかの単語を口に出すことは可能です(「でも発音がー」とか「でも文法がー」とか言って、「私できませんアピール」する人はいますが、何らかのフレーズ、単語は「韓国語より」口から出てくるはずです。私たちは英語を「全くできない」わけではないことを自覚すべきです)。私は1500語を知っていて、それでも英語ができないと思ってしまうのは、心理的な抑圧があるからだと思っています。「日本語を話しているように話したい」とか、「日常会話ができるようになりたい」と思っていると、当然1500語では不可能です。自らそういう高いハードルを最初から掲げていると、心理的に「ああ、できない」「英語なんて何年やっても意味ない」となってしまいます。この心理状態のまま韓国語を学ぶと、心理的抑圧はもっとひどいことになるでしょう。多くの人にとって韓国語は本当にゼロからのスタートです。「あー、この単語知ってる」と思いながら勉強できる人は極一部の人に限られます。英語学習で1500語を知っているにも関わらず、「英語は話せない」という心理状態に陥ってしまう人は、「韓国語ができない」と思う状態が単純計算上5年は続くのです。韓国語能力試験(TOPIK)2級の範囲2000語を覚えたとしても、「意味ないよね」となる恐れがあります。それか、もう吹っ切れて、「俺まだ本気出してないから。これからだから、俺の本当の力は」みたいに根拠のない自信に満ちあふれる危険があります(逆に、2000語も知らないのに、「私ってもう韓国語マスターしたから。完璧だから。」みたいになっても困りますけどね)。

このような心理状態では、「まだ単語・文法を少ししか覚えていないから、話すことはできない」と思いがちです。本当は、覚えたら覚えただけ、使えるようになっているはずなのですが、自ら基準を高くし、自己嫌悪に陥ってしまう人は多い。「やったらやった分だけ、できたと実感できる授業」をデザインするというのは難しいことですが、基礎を勉強をしている時から、「この文法や語彙は、こういう時に使えるよね」と提示して、文法や語彙を使う意味を実感しながら勉強したいところです。また、「何ができたら、この文法や語彙を使えると言えるのか」をしっかりとした基準を明示しながらの授業じゃないと、「まだこれしかできない」と学習者に思わせるだけになってしまうので、教師ももっと考えながら授業デザインしなければいけないと思います。韓国語学習は、数年勉強しても「できた」と英語よりも実感しにくいのですから。確かに、文字を覚えただけでは「話せない」のですけど、「話せる」ことに到達するまでのプロセスを細かく刻んで(業界ではスモールステップと呼びます)、着実に一歩一歩進むんだと思わせられる授業ができれば良いなと思います。

 

<この授業は一体何を目指すのか?>

 

 いろいろ書いていると話しが長くなるので、一度学校の話に戻しますが、専攻科目でないので、どうしても今のカリキュラムでは、ゼロからスタートして、それぞれの成長や目標に合わせて授業をするというのは困難です。日本で韓国語を授業のみで上手くなるためには、家庭学習が必須です。そして、私がもし、この学校で、「韓国語を使うためのプロジェクト型学習」を実施したいのであれば、1年生からそれなりのカリキュラム再編成をして、3年にはある程度韓国語が話せる人が履修できる科目を作る必要があります。しかし現在のところ、それは実現できていませんし、私にそのような力は「今現在は」ないことをここに告白しておきます。

 1年時に履修できる基礎は初級、2年の発展は中級と先に述べました。しかし、皆さんご存知の通り、そこまで厳格な決まりは、この学校の第二外国語科目にありません。ですので、1年生の後期で履修できる位置づけの「外国語コミュニケーション・ハングル」は、「初中級」という位置づけではなく、「外国語コミュニケーション」という独立した(初級~中級という連続体の流れにない)、科目です。教える側(武村)が自分でレベルを設定したり、内容を設定しなければいけません(教える仕事ですから当たり前ですが)。だからといって、学習者ができないことを無理やりやらせたり、「どうせ一週間一回の授業なんて上達するレベルはたかが知れているし、MVとか映画をてきとーに見せればいいや」と思って、一時間まるまる映画を見せて時間をつぶしたりすることはしていません。単語や文法は身についていないながらも、それでも可能なことって何だろうねと一緒に考えたいと思って、授業をしています。だから、無理やり暗記だけさせておいて、オウム返しの練習とか、自分で言ってることが何なのかわからないまま、とりあえず発表させるということもしていません。あくまで、「学習者自身ができることを、目標を立て、自分でできる範囲で学習していってほしい」という思いで授業をしています。場合によって私は、「コミュニケーション=話す」という考え方すら強要はしていません。あくまで「自分が今できることはこれだ」と自らが判断したのであれば、文字だけを覚え、書き写すという目標であってもいいと思っています。「いやいや、外国語コミュニケーションという科目だから、会話の授業だと思ってたんだけど」という人もいるかもしれません。でも、本当にコミュニケーション=話すという考えでいいんでしょうか。先にも言いましたが、ゼロから始めて数年で、「すらすら話せるようになる」というのは、努力次第で可能ですが、「授業のみの時間数」だと無理です。無理なことを学生に強いて、「話せないと価値がない」なんて思想を強制することに意味なんてあるのでしょうか。ちょっと説教染みた話になるので、本当はこの話は避けたかったんですけど、「コミュニケーション」は本当に「話すこと」しかないのかを、今一度考えておきたいと思います。

 

<会話ではないコミュニケーションを考えるためのティップス>

 

 突然ですが、2016年7月に神奈川県相模原市の障害者施設「やまゆり園」という所で、障害者19名が殺害された事件を覚えているでしょうか。あの事件後犯人は、「自分は心失者とそうでない障害者との線引きはできると思っています。判断の基準は意思疎通ができるかどうかです。例えば、自分の名前と住所を言えるかどうか、です」と言っています[4]。植松被告は、「自分と意思疎通ができない」という基準で人の命を奪ったのです[5]。ここで犯人の思想どうこうを深く論じる時間はありませんが、私たちの心の中にも似たような考え方があることに気づかねばなりません。「コミュニケーションとは意思疎通だ」というような考え方です。そして、それは主に「音声言語を介した会話」という絶対的なイメージです。

 現代の外国語を学ぶ人の多くは、「外国語が話せるようになりたい」と言います。そして、「外国人とコミュニケーションをとりたい」という目標を語ります。ちょっとひねくれた考え方になってしまいますが、このような言説の中の「外国人」には、「手話を使う外国人」や「寝たきりの外国人」「障害者の外国人」という「外国人」は含まれないことが普通です。このように考えると、私たちが外国語を学ぶ時(教える時)、「外国人=話せる人」という前提があることに気づきます。ある時から、私は、コミュニケーションをこのように捉えたままでいいのかなと思い悩み、あれこれ考えるようになりました。

 

<コミュニケーションは「在る」もの>

 

 確かに、外国語が話せるようになることは大事です。価値がありますし、ある程度できると、お金になります。そしてお金が手に入ると生活ができます。でも、お金になることを基準に考えると、「障害者は価値がない」という話になりかねません。おかしなはなしですが、聴覚障害者が長い間、「手話は言語じゃないから、口話を覚えなさい。そして、発音の練習をしなさい。手話を使ってはいけません。」などと言われて、手話が「母語」として認められない時代が長らく続いてきました(というか続いているのが現実です)[6]。手話ができて意思疎通ができるにもかかわらず、「音声言語」でないために、あたかも「意思疎通できない人」のように見られてしまう現実もあるのです。また、重度の障害者の中には、目、足だけで意思疎通を図る人もいます。障害の重さによっては、一生「音声言語」で自分の意思を表せない人もいると考えると、音声言語がコミュニケーションの絶対的地位を占めるという考え方に問題がります。それに、下手をすると、「意思疎通できない」植物状態の人に対して、医療費の無駄だとか、生産性がないとかいう気持ちが生まれてきてしまうこともあるでしょう。

 私はコミュニケーションをあれこれ考えた末に、福祉の考え方に行き着きました。福祉の分野では、意思疎通をとることが難しい高齢者、障害者、乳児が援助の対象になることがあります。福祉の分野で働く人(特にソーシャルワーカーと呼ばれる職種の人)は、その人たちのニーズを汲み取り、分析し、適切なサービスを提供したり、関連機関とつないだりすることが仕事です。この世界では、コミュニケーションは「する」ことではなく、「在る」ものと捉えるようです。異なる人間が二人、ないし複数存在するときに、「誰も」「何も」コミュニケーションスキルを発揮しなくても、複数の人がそこにいるだけで「在る」ものが、コミュニケーションであると捉えるのです[7]

 脊髄性筋萎縮症Ⅱ型という難病を患っている海老原宏美さんは、こう述べます。

 

「すごいきれいな富士山が見えたとき、『ああ、なんか今日はいいことありそうだ、ラッキー!』とか思う。でも、あれも、ただ地面が盛り上がってるだけなんですよ(笑)。そうでしょ、よく考えてみたら―まあ、上手い具合に盛り上がったものだなと思いますけど、そこに価値を見出して、感動したりしているのは人間の側なんですよ。だとしたら、目の前に存在している障害のある人間に対して、意思疎通ができないからといって、何の価値も見出せないっておかしくないですか?(笑)それは、障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく、『価値がない』と思う人のほうに、『価値を見いだす能力がない』だけじゃないかって私は思うんです。」[8]

 

 異なる人間が二人、ないし複数存在するときに、「誰も」「何も」コミュニケーションスキルを発揮しなくても、そこに居合わせている人が何らかの「価値」を見出す能力があるのならば、それは立派にコミュニケーションが成立している。それは相手が寝たきりであっても、お互い無言であったとしても、人と人がその場に居合わせるだけであっても、そこに「価値さえ見出せれば」コミュニケーションは成り立つのです。

 

<「在る」外国語コミュニケーションを考える>

 

しかし実際は、語りかけても何の返事も返ってこない、意図した返事が返ってこないということが繰り返されれば、イライラが募るのが人間です。また、相手の言っていることが面白くなければ、「合わなくてもいいや」と思ってしまいます。サンドウィッチマンのネタじゃないですけど、「ちょっと、何言ってるかわかんないんすけど」という状態は、人を不安にさせたり、早くその場から逃げ出したいという気持ちにさせたりします。意思疎通が難しい場合、最終的に「この人と一緒にいても意味がない」と感じてしまうでしょう。それを、外国語学習観で捉えなおすと、「話せないと価値がない」「聞けないと価値がない」とでもなるでしょうか。でも、この考え方は「やまゆり園」の事件の犯人の言葉とあまり変わらないような気がします。例えば犯人の言葉を次のように置き換えてみることができます。

 

「自分は外(・)国(・)語(・)が(・)で(・)き(・)る(・)人(・)と(・)そ(・)う(・)で(・)な(・)い(・)人(・)との線引きはできると思っています。判断の基準は意思疎通ができるかどうかです。例えば、自分の名前と住所を言えるかどうか、です」

 

 自分の名前が言えて、住んでいるところが言えないと「意思疎通ができない」と見なされるという考え方は極端すぎるにしても、外国語を学ぶ(教える)人の間で、似たような思想が蔓延しているのは事実だと思います。外国語の口頭試験で自己紹介をする時、評価基準は大体似たようなことを基準にしていないでしょうか?私たちは、外国語を学ぶ時(教える時)、やまゆり園事件の犯人のように自分を、または相手を審判していると私には思えるのです。もちろん、努力しないために外国語が話せないというのは問題があります。でも、限られた時間で、自分に備わった能力の範囲で、勉強してできたところに満足できず、「外国語は話せないと価値がない」と自分を責めたり、相手の外国語能力を判断するというのも問題があると思うのです。自分ができる範囲で、単語一つを読めるようになった、見てわかるようになったというのも価値がある。私はそう思います。自ら何ができるようになったか実感し、かみ締め、さらにできるように自律学習を進める。このようにできると外国語学習は実のある物になっていきます[9]。外国語学習はあなた自身のものなのですから。

 

<しかし私たちは、コミュニケーションを「する」のである>

 

話が遠回りになりました。最後に話をまとめます。

しかし、だからといって、学期末の口頭試験で、「沈黙もまたコミュニケーション」だから、口頭試験では5分間ずっと黙ったままでいいですかと言われても困ります。試験で私たちは「話さなくてはなりません」。ここにいる皆さんは少なくとも、「音声言語」を操ることができます。韓国語が流暢でなくとも、「流暢になりうる」可能性を秘めています。可能性がある人は、チャレンジを求められるのが常です。「あれ?さっきまで、『自分ができる範囲で、単語一つを読めるようになった、言えるようになったというのも価値がある』とか何とか抜かしてなかったっけ?」と思われるかもしれません。はい、確かに言いました。だから私は「発話できるのであれば、単語単位でもいいから、発話をするチャレンジをしてほしい」と言っているのです。

私は経験上、人は年を重ねるごとに「自分が簡単だ」「これならできる」と思うことはあまり他人前で自慢しなくなると思っています。「こんなことで自慢して、馬鹿じゃねえの?」と思われるのが嫌だからです。また、年を重ねるごとに、何らかの問題を解いていて、簡単に答えを出せた時、「あれ、こんなに簡単に答えが出るわけないよな。答え合ってんのかなぁ」と不安になることがあります。同じように外国語で名前を尋ねられた解き、名前を尋ねられたと薄々わかっているにもかかわらず、「いや、これ、そんな簡単なこと聞いてないよな。なんかもっと難しいこと聞いているんじゃないか」と自らハードルをあげて、「ここで、名前言って、もし、違うこと聞かれてたら恥ずかしい。言わないでおこう。とりあえず笑っとけ、えへへ」という変な行動を取ってしまうことがあります。間違ったら恥ずかしいという心理も働くわけですが、「とりあえず言ってみる勇気」「単語単位でも言ってみる勇気」というものを、年を取ると忘れてしまう気がします。しかし、文単位は無理でも、単語単位で言えると思っているなら、とにかくチャレンジして話してみるのも一つの手です。口頭試験では、自分のノートを指差してみたり、単語単位で答えてみたりしながら、自分ができる範囲で、チャレンジしてほしいのです。

今回は、「在る」コミュニケーションについて語りましたが、事実、私たちは、コミュニケーション「する」ことを背負わされた存在です。2月4日の口頭試験に備えて、自分のできること100%を出し切り、「する」コミュニケーションを目指してください。


[1] この「実用」という言葉は曖昧で、本当は使いたくない言葉ではあるのですが、ここでは一応、「将来

社会に出た時にお金になる」とか「話せる(パフォーマンスとしての)外国語」ということにしておき

ます。いわゆるコスパってやつですね。

[2] 金森強(2011:117)「小学校外国語活動成功させる55の秘訣」成美堂

[3] 宮島達夫他 編「図説日本語 : グラフで見ることばの姿」の調査によると、小学生の習得語彙が5千~2万語という幅はあるものの、うち10%が外来語とすると、最低でも小学生時点で500の外来語を習得していると考えられます。

[4]月間『創』編集部編「開けられたパンドラの箱」創出版

[5] ただ、本当に意思疎通ができない人だけを殺害したわけではないので、この言説が犯人が殺人を正当化させている全ての理由ではありません。

[6] 斉藤道雄(2016)「手話を生きる」みすず書房

[7] 介護福祉士養成講座編集委員会(2013:4)「コミュニケーション技術」中央法規

[8] 渡辺一史(2018)『なぜ人と人は支えあうのか「障害」から考える』筑摩書房

[9] これがCEFRのcan-do statementの考え方です。しかし、この概念が日本に輸入され、変な風に解釈されている(特に到達目標に利用されている)のは残念です。

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