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肩書は丸めてポイ。いつだって「博士ではなく白紙」で

いま、大好きだった執筆の仕事を一回リセットしようかなと思っている。noteは趣味なので続けるかもしれないけれど、とりあえずライスワークであった仕事のことだ。正直怖い、でもしがみつくのも危ない気がする。

私は博士ではなく白紙だ。

タイトルのセリフは某創業者のセリフで、いたく感銘を受けたので胸に刻んだ。その心は忘れたけれど、「学があろうがなかろうが、白紙の心でいればいつだってなんだってやれる」って解釈してる。

理系の道を捨てた20代

わたしは理系院卒だ。研究者になりたくて博士を目指していたけれど、院に行って自分が博士にはなれないことを悟った。能力もそうだが性格的にも無理だと思った。それでもあきらめきれず、運よく一般企業で研究所に勤めることができたが、そこでもうまくいかなかった。高校で理系の世界に入って約10年、理系の道から抜けた。

別に研究者は諦めても技術職で生きていくという道はあったと思うが、研究者以外に興味がなかったため、その他の道は考えたことがなかった。今まったく後悔がないので、これで良かったのかなとは思う。親には申し訳ないことをしたけれど、もはや資格としての理系院卒はもう通用しない。まあ、イマドキそんな肩書も大したことないかもしれないのだけれど。でもやっぱり当時それなりに人生かけて手に入れたものを捨てるのは、ちょっと勇気がいった。

その後に出会った記者職、編集職は新しく楽しい世界だった。研究者として真理を追究するという夢は途絶えたけれど、人間というのは研究と同じくらい探求心を搔き立てることを知った。人間って不思議ないきものだよなあ、と。

執筆の道を捨てる30代?

人見知りで会話が苦手な反面、根掘り葉掘り聞くのは好き。仕事のためならどこにでも飛び込めたので、記者職は性にあっていたし、編集やライターも記者の延長だったので楽しかった。しかし次第に「もっと別の種類の文章や紙面が作りたい」という思いがありながら、それが叶わず、ジワジワと飽きていき、それ以外の要因もあって編集という仕事の魅力が薄れていった。

いまでも単発でライティングを頼まれるときは、それなりに楽しさもある。しかしただのライターは、編集権がないため仕事としての面白さは激減。たまに編集権ライターもやるが、読者が好みそうなネタを探すのも、他人のことばかり書くのももういいかな、と思うようになった。

さて業界に入って8年目の今。捨てるにはもったいないし、今ならまだ止まれる。でも、「せっかくやってきたし」という経験値にすがろうとしている自分がいる。無条件にやりたいときは、ただただ目の前のことに夢中だった。今はそうじゃない。

誠実に生きてたら何とかなる

だからといって次にやりたいこともない。理系を捨てた20代と明らかに違うのは年齢だ。いまから新しいことなんて……と思う。ネットを見れば「いまが一番若い時」なんていうし、そりゃ間違いないんだけれど、でもやっぱり前よりは動きづらい。その上、やりたいことなど何もないのだから。このままトシだけとって〇ぬのかなと思ったり。

短絡的な欲望はあったりするが、さほど強い思いはない。想像するのは自由でしょ、ってことで夢を描こうともするんだけど、そんなに浮かばない。
「べつに長生きしなくてもいいや」とけっこう若い頃から事あるごとに思うのだが、だからといって自〇するつもりもない。人生で何度かどん底に落ちた時は、落ち切ったところで「ま、〇んでもいいと思えるくらいなら、色々やってみりゃいいじゃん」と再び這い上がってきた。

新卒で入った会社は、希望していた会社を全落ちし「もう就活やーめた」って時に先輩が来て拾ってもらったものだし、新聞社は「受けるのタダだし」という記念受験のつもりが入れたし、最近までいた会社は「もう私に組織はムリだ」とフリーで生きていく決心をした後に誘われた。

捨てる神あれば拾う神あり。わたしは全ての人にとっていい人間ではないだろうが、自分の意識できる範囲では誠実にしてきたつもり。いや、年をとるにつれ、周囲の人よりも自分に誠実になってきた。そういう生き方がダメというならその時は仕方ない。いつか行き倒れて変〇体で見つかればいいやん、て思う。

(書いてることがフォローしてるインフルエンサーさんに似てきた。でも本当に思ってるからいいよね。)

小説を書きたいのは本当に?

いまは無償で編集をしてあげたり、プライベートではnoteをはじめた。まあまあやりたいことに忠実だ。

ただし小説ってやつだけはちょっとクセモノかもしれない。4年前、初めて応募した脚本関係のコンテストで準大賞、ほぼ同時期に処女作の小説が最終候補まで残った。そんな大きな賞じゃないし、今時自慢するほどじゃないかもしれないけれど、自分的にはものすごいことだった。当時は脚本家も小説家も目指しておらず、その後忙しくなったため放置していたが、ここに来て再開した。

でもどこか過去の栄光が忘れられないのもまた事実。「小説家」という肩書にあこがれてない? 肩書が何もなくなったから、大きなもの目指そうとしてない? と自問自答している。

「研究者」を目指すのではなく、夢中で追い求めていたら「研究者だった」、「編集者・記者」を目指すのではなく、楽しんでいたら「編集者・記者だった」が理想であるように、「小説家・文筆家」を目指しちゃいけない。夢中で書く人が小説家や文筆家なのだ。肩書は先じゃなくて後なんだ。

少なくとも最近書いた小説2本は楽しんだ。この気持ちを忘れず、いつでも捨てれるくらいの身軽さでやっていこう。

書くときは高級半紙に一発勝負のつもりでも、それを捨てる勇気さえあれば、また書けばいい。博士だろうが修士だろうが編集者だろうが賞だろうが、プライドなんてかなぐり捨てて、それを白紙に戻せるのであれば、次の扉は開かれるよ──某創業者もそういってくれるに違いない。

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