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1812年のナポレオンにモスクワ撤退を決意させた要因は何だったのか?

1812年6月24日、フランス皇帝ナポレオン一世が率いるフランス軍は、ネマン川を渡ってロシアに向けて進撃を開始しました。当時、彼が従えていたのは60万を超える大軍であり、ロシア軍の兵力をもってしても、その前進を阻むことは困難でした。

9月14日にナポレオンはモスクワを占領することに成功します。ナポレオンの戦争計画では、ロシアが即座に講和に応じることを想定していたので、フランス軍の将兵には十分な防寒具が与えられておらず、軍馬には凍結した道を進むために必要な刻み蹄鉄の用意がありませんでした。ロシア軍が撤退する際に大規模な火災が発生したため、モスクワの都市設備はほとんど失われており、利用不能になっていました。

それにもかかわらず、ナポレオンは一度はモスクワで越冬することを決めました。戦略を研究する人々にとって興味深いのは、彼がその決心を翻し、雪中行軍でフランスまで撤退すると決めるまでの過程です。ナポレオンの側近であり、彼と個人的に言葉を交わすことができたコレンクールは当時のナポレオンがどのような状態にあったのかを回顧録の中で記述しています。

それによれば、ナポレオンはまず既存の兵力でモスクワの防備を固めさせ、フランスとポーランドで新たな徴兵令を発して、追加の兵力を確保しようとしました(邦訳、115頁)。さらに、フランスの本国まで伸びきった後方連絡線を掩護するための警戒部隊を配備しました。当時、パリからモスクワまでの軍事郵便が機能しており、平均で14日ほどで文章を送ることが可能な状況だったようです(同上)。コレンクールは、ナポレオンがこの軍事郵便の届き方に一喜一憂していたことを次のように記しています。

「皇帝は伝令の到着を、いつも、今か今かと待ちわびていた。ほんの数時間の遅れで、心はすっかりそのことに囚われてしまい、この通信網がいまだ障害といえるほどのものに遭遇したわけでもないのに、不安にさいなまれたりするのだった」(同上、116頁)

軍事郵便にナポレオンが一喜一憂していたのは、それが単なる通信の手段であっただけでなく、後方連絡線が安全であることの何よりの証拠だったためだと考えられます。フランスからロシアの間を往来する伝令を狙ってロシア軍が遊撃行動をとり、郵便物を奪う可能性もありました。

コレンクールは、こうした不安を感じつつも、ナポレオンがモスクワで冬営することを決めたのは、ロシアに講和を受け入れさせるための示威であったと考えています。彼はナポレオンと毎日のように会って話していましたが、ナポレオンはロシアがもはや抵抗を続けるはずがないと考えていました。そのため、モスクワで冬営する用意があることを示せば、アレクサンドルも戦意を喪失するはずだと考えていたようです。しかし、ロシアがどんな条件であっても和平を望むはずだという思い込みがあったとして、コレンクールは次のように述べています。

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