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明日わたしはきっと後悔する



こんなわたしにもようやっと「あぁ!もうどうにでもなってしまえ!」と思える日がきた。
後悔先に立たずとはよく言ったもので、新しい後悔の味を知るということはわたしが前進しているとも言えるのだ。バンザイ。

先週のわたしはと言えば『ねえ今日はもうなにも考えられない』と言ったきり注文もせずにだんまりを決めた友人と喫茶店にいた。なんだ代わりに注文をさせるために呼び出したのかとコーヒーを2つ頼むと『あすみません1つはカフェラテで』とちゃっかり訂正していて笑えた。
10分ほど静かにしていると『なにがあったか聞く?』と彼女はわーっと話しはじめた。そもそも女の子のなにがあったか聞く?に対して「ううん聞かない」という選択肢は存在するのかしら。
その日の彼女は "失敗" と "後悔" という言葉を交互につかって話していたけれどそれは「大量の着火剤に火をつけたら炎になって触ったら火傷した話」に匹敵するくらいには当たり前の、ちょっと考えれば防げるような失敗談だった。わたしが心配を滲ませたあと笑って茶化すと彼女はむすっとして開き直った。そういうところがチャームポイントだとわたしは思う。

思いかえせば、わたしの周囲には "考えればわかるでしょ" と言うような大人が多かった。考えればわかるのだから考えなくちゃダメなのだという固定観念が心臓の深いところに植わっている気がする。
ところが考えようが考えまいが時は過ぎるし、明日に絶対はないのだ。100万回ダメでも100万1回目になにか変わるかもしれないと吉田美和が唄うように、100万1回やった人にしかみられない景色があるのもまた事実である。
先人が在りすぎる情報社会だけれど、合理的な自分をオフにして『あぁ!もうどうにでもなってしまえ』とサイコロに身をまかせてみたらどうなるのだろう。

どれだけ丁寧に生きていてもきっとわたしは後悔する。この先何回も、何千回もやったりやらなかったりを繰り返して幾度も後悔するのだ。明日も明後日も後悔して後悔ばかりの人生を過ごすかもしれない。

だからといってそれは悪いことなのかしら。

"世の中結果がすべてだ" と言われようともヒトの一生において結果など二の次である。
道すがらなにを見てなにを感じてなにを愛すかを、考えたり直感を信じたり後悔したりそれをあーだこーだ言って生きていくのが人生なのだきっと。


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