個人事業計画立案
受託事業を行っているうちは、クライアントに御用聞きに伺い、いろいろ話を仕入れたり、勉強会に参加したり、広げていける。
オリジナルコンテンツを創る、という発想になると、これは社会に受け入れられるか、これを好む層がいるか、共感や共鳴する層はいるか、どのくらいまで広げるか、ということを考えていく。
ある日突然、世界で私だけが存在する世界になる。
子孫は残せない。すぐに私は食べるための鳥や魚の取り方、狩猟のための道具を開発する。また農耕の知恵を学ぶ。最低限、そこは押さえておきたい。地殻変動や気候変動で食べる生物もいない場合もあるが、その時は、その時考えよう。
そして、他の誰かと会うことができたら、私はその人とコミュニケーションをとる。交流するために採った果物を与えたり、魚を分けたりする。彼も何かをくれるかもしれない。私は魚をとる道具を与える。彼はそれを使って、魚をとってくる。私は、何か別の事をはじめる。
いつか、別の生存者と出会う。そうやって、人が増えると役割は分かれていく。本来はひとりでやっていることである。モノを売るためにモノを創る。
そんな脳のつくりには、人間はなっていない。
・魚をとるために何かを創る。
・他人がとってきてくれるから他人に与える。
・また別の道具を創る。
道具を創る人と、道具を使う人、得たものを管理する人。
社会の成り立ちと道徳の話になってくるので、割愛する。
そして、私は45歳となる。その年齢を出して、実績を出して、就職活動を行うも、希望するところにはたどり着けない。大学に行くにも入学のための資金を集める必要がある。そこで、自営をする。フリーランスでの活動と自営は活動内容が違う。同時に社会学習のために実践バイトも行う。
どのような職域で、どのような人材や能力が求められるのか。
そもそも「能力」とは何か? 「存在」とは何か?
条件に合致しないことは本人の努力であり、社会が悪いのではない。
そういう意見がある。現在の法律では年齢詐称は罪なるだろうし、肉体をアンチエイジングで若く保ち、精神を若く保っても、実際に欲しい年齢や経験は違うことがある。
これまでの社会の上澄みしか見ずに、社会を語っていると、一番最初に蒸発していく。沈殿したものに目を向ける。必要なことは対流、海流のように温度差をつけて、流動することで、循環していく。一番上にいる水は、一番最初に消えてなくなる。気にすることはない。
私が伝えたいことは、超高齢社会という人類が誰も経験していない社会を実装している日本を世界が見守っている、ということだ。長生きしたいということは「死」への概念であり、「ヒューマニズム」の産物に思えるが、
ひとつの大きな社会実験に日本国民全員が参加しているのだ。
なぜ日本だけがこれほど超高齢社会であるのか?
ムーンショット計画はなぜ創られたのか?
人間や社会の創り方の起点を知ることで、
「破壊なき創造」は可能になる。
ただし、時間がかかるため、短期で創り直しをするには、
破壊して、創造する場合もある。
私にとっては、
新規のプロジェクトやオリジナルプロダクトは
この社会で魚を得るための道具である。
勿論、職がない訴求をするには、毎日3社面接を行い、日本企業すべてに面接をして断られるパターンもある。しかし45歳の雇い止めを実証のためにはその必要はない。次第に相手のパターンが見えてくるので、数社を面接するだけでよいし、あとは業界を変えていくことである。これは無数にはない。有数の世界である。
私の見解では、そもそも職が年齢で制限されることはおかしい。しかしこの年になるまで、その年齢差別は受けていなかったので、気づかなかったのだ。40代で気づけてラッキーと思うお気楽な性格なので、
それなら、40歳を超えて、暮らしが楽しくなるように、
ガンガンと再活動していける能力を生かし、
能力を高められる場所や職域を創る、
ということをやりたい、と思うようになっていった。
これらは、上澄みの世界には、なんとなくある。しかしまだ、下層と対流を起こすほど温度は厚くなっていない。
先日、「ストリートアカデミック」ということを言った方がいた。30代までストリートで過ごし、40代で「アカデミック」に入る。そうするとストリートの知恵もありながら、アカデミックな思考を探求し、有益なやり方で社会へ還元できるようになる、と私も思う。
つまり、ひとりの生活者が研究者になり、政治家になることで、本来の民主主義の機能が回復するのではないか。また、ベンチマークされるひとつの成功例を創ることも大切だが、得手不得手がある。私は、他人の悩みには答えられるが、自分の悩みの解決は、自分でする。魚をとる道具の創り方を考えられる脳があるのだ。
そこで、私はこの環境で考えたことは、
45歳以上でも「再トライする職域やライフスタイルを創ってしまえば、いいじゃん!」となる。
まだ手探りな部分もあり、インターネットやベンチマークする著名人の助けを借りながら、だんだんと理解してきている。私が何をしたいのか、誤解されていると、やっていることが奇妙に映るかもしれない。
私が思うに、他人ができることを私がしても意味がないのだ。
私は私にしかできないことをする。さらにそれを他人ができるようにすることを仕事をしていくことのほうが有益になると考えている。
すでにワークアウトやスポーツの世界では、成立している仕組みである。それらをさまざまなジャンルで起こしていく。
講演会に聴衆として参加した時に、ゲストスピーカーの落合陽一さんに質問して、彼の回答で刺さった言葉がある。
「マネタイズは希少性の高い行動の希釈すればいい。いつでもできるなら、そうしたくなったときにすればいい」わかりやすい言葉であり、理解ができた。私が行き過ぎて、オンリーワンでありつづけようとすると、その状態では、何をしてもマネタイズができない。解決するには、理解者が増えるのを待つか、または、理解される層の感度を広げることで、マネタイズができてくる、というのである。
たったひとりで長生きをしても、何もならない。
これまでの私のように会社が用意してくれた仕事(課題)を行っているだけでは、ひとりで課題を見つけることもできなくなる。仮に私が酒もたばこも遊びも辞めずに、65歳で中年太りの猫背で、貯金が1500万円あったとしても、おそらく1年で使い果たすだろう。なぜなら、40年近く、働いてきたことは、役に立たず、体を戻すことにお金を使い、遊びに使い、しかも同じように稼ぐことはできないのである。体が動かない分、大変な困難である。私は37~42までの5年程、しまりのない生活になっていた。体や心の揺れはそのときに起きている。今は、だいぶ回復していきている。すでに副業や趣味、ライフワークをされて充実している方々は、それを続けるとよいだろうし、そもそも他人の生活を覗き見るような興味はないだろう。
すこし話がずれてくるので、軌道修正するが、まずは所属組織と個人を同一視しないように絶えず注意することである。法人のパーツとなって動いていると、無意識にそうなってしまう。
個人社会にでて、自営を行うメリットは判断が早くなることである。
フリーランスや個人という存在は、協会などの組織に入ることで守られる。
会費は必要経費である。自己を社会の中に存在させるためのコストも会社は払っているのである。
余談がすぎたので、そろそろ仕事に戻ろう(笑)
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