見出し画像

父と娘のシベリア鎮魂歌

 2022年2月。母からLINEで相談があった。母が書籍にした祖父の手記と母の作品がある。なんとそれがインターネット上で販売され、2500円以上の値段がついているという。本来の価格は1,800円。母は知人に配ったのだが、市場にでている。母はおおらかなので、「あら、こんなに値段がついているの⁉」という程度だった。
 その作品の名は、『父と娘のシベリア鎮魂歌』である。この書籍が母の手元には、まだ50冊ほどあるそうだ。この残りを処分しようと思ったが、どうにか活かせないか、という相談だった。私は、独立して事業をしているので、これを母から私への仕事として受託した。
 まず最初に思いついたことは、DX(デジタルトランスフォーメーション)の一環として、書籍をテキストに変換して、インターネット上に無料公開をしようと考えた。無料で公開して、正規品を正規の販路を使い、定価で流通させる。そして、その売上を母に戻す。母とは、細かい取り決めはしていないが、DX、プロモーション、ブランディングの企画製作・実施展開を行うことで、25万円(税込)+売上手数料ということで合意し、このプロジェクトを2月14日から開始した。
 
 まずは、このnote.にテキスト化をした作品を無料公開する。作品の内容を知りたい人は、このnoteを読めば、無料で、わかる、という仕組みだ。母の作品(書籍)の販売システムの構築はこの後に作業で進めるが、少し時間がかかる。私は、私の大好きな祖父と、その娘である、私の母の気持ちを、その孫であり、息子の私が紡ぐ。そういう行為になんとなく仕事以上の感情が湧いてきている。そして、この作業の中で、もしかしたら、祖父と会話ができるかもしれない。そんな気持ちも芽生えつつ、キーボードを叩くことにした。

天国にいるであろう祖父へ
現代の日本に住む私たちの世代にはいくつかわからない言葉があり、それらには、孫の解釈を入れながら、注釈をつけている。これは著作物への介入ではあるが、身内への甘えということで、何卒ご容赦いただきたい。

2022.03.15追記
タイトルを「37坑道-シベリヤ物語ー坑道に咲いた赤い花」と改題し、Amazonのkindleにて出版した。ぜひ、そちらもご覧いただけると幸いです。
このnote.で内容を見ていただき、あなたがもし気に入っていただけたら、Amazon kindle版「電子書籍」をあなたの本棚にいれていただけたら、私たちはとても嬉しいです。
Amazon.co.jp: 本



坑道に咲いた赤い花

滝沢宗三郎

はじめに

昭和十七年(一九四二年)一月、私は、千葉県津田沼町(現習志野市)に駐屯していた戦車第二連隊に入隊。外地要員として、松、竹、梅の三つの隊が編成され、私は梅隊に所属した。総勢二一七名。

 同年二月。宇品の港から釜山港へ。そこから、さらに朝鮮半島を北上。旧満州国の東安省虎林県のひ徳村に駐屯する戦車第十一連隊に初年兵として入隊する。この部隊は四九七部隊ともいった。
 二年後の昭和十九年二月、四九七部隊は南満州の東京城に移転。その途中の列車のなかで防暑服が支給された。(サイパン島かグアム島へ行くらしいという噂がとんでいた。)しかし、九州の小倉市に着くと、防暑服を返納することになった。
 新たなに支給されたのは、防寒服だった。
 列車と青函連絡船、そして、また列車。北海道の小樽市手宮駅に到着したのは、二月二十九日(うるう年だった)の夕方四時ごろ。
 大雪だったのを覚えている。部隊は、民家に分かれて投宿した。私は、神田鷲蔵さん宅にお世話になった。
 三月になると、小樽商業学校(現在の小樽商科大学)が臨時の兵舎となり、私たちはそこへ移った。
 やがて、戦車隊は次つぎと小樽から千島列島へと移動した。私の所属した部隊は、津軽海峡を抜け太平洋に出たとたん、アメリカ海軍の潜水艦に襲われたり、流水に行く手をはばまれた砲射撃を受け、そのために部隊は占守島国端崎あたりに上陸してきた。千島は戦闘状態になる。

 終戦後のこの戦闘により、仲間たちが犠牲になった。そして、日本軍は武装解除に追い込まれ、旧ソ連軍の指揮下に入った。
 九月から十月にかけて労働大隊が編成された。私が知っているだけでも五つの大隊があった。
 十一月。厳寒の季節がやってきたころ、私たちは、スターリングラード号に乗船させられ片岡港(片岡港は海軍の基地。占守島とパラムシル島の間の海峡にあった)を出航。

 十二月三日の真夜中、ナホトカに入港。四日の朝まで、人員の下船や資材、食糧の荷おろしが続いた。大きい雪が音もなく降っていたのを忘れられない。
 その日から、私のシベリア抑留生活がはじまった。苦難の末たどりついたのは、アナチョムの日本人捕虜収容所である。十二月もすでに半ばになっていた。
 昭和二十年(一九四五年)の大晦日。私は炭鉱に配属され、三十七坑道に入杭した。
 その日から、昭和二十三年にダモイ(帰還)命令が出るまで、この収容所で暮らし、この坑道で働いた。
 その収容所と坑道での暮らしは、辛い日々ではあったが、私にとっては、二度と還らぬ青春の日々でもあった。

01 ルナ

 アルチョムの炭鉱に作業にでてから一年。ふたたび厳寒の季節のまっただ中にいた。
 ある日のことだった。出勤名簿を炭鉱の事務所に提出してから、急ぎ足で、坑内に入るエレベーターまできたときである。
 私の所属している三十七坑道の監督をしているミシャーが、ひとりのうら若い女性となにやら話をしていた。彼の恋人かなと思いながら近づいていくと、ミシャーはいつもの快活さで
「ズラスチー(元気かい?)」
と大声で言った。今日のミシャーは、いつもよりも何となく明るい。私は、
「ハラショ(ああ)」
と笑いながら言った。内心(ミシャー、うまくやっているな)と、やっかみもふくんでいた。それをいち早くさとったのか、ミシャーは、
「ネート(そうじゃない)」
と、両手を大きくふった。
 地下からエレベーターが昇ってきた。
 交替の前番方のソ連人労働者(ルスキー)たちが炭粉で黒くなった顔で「ズラスチー」を言い合い、エレベーターを出た。地上のうまい空気を胸いっぱい吸いつつ歩いていくうしろ姿を見送り、私は、ミシャーといっしょにいた若い娘とエレベーターに乗った。
 エレベーターを降りたところに、マシーナ(電気機関車)人員輸送車が止まっていた。マシーナの運転手が「ズラスチー」と、ミシャーに声をかけた。
「ヤ、ズドラー」
 ミシャーが、そのマシーナの運転手の手をにぎった。
「乗っていかんか」
 運転手が言った。
 娘を助手席に乗せ、ミシャーと私はマシーナの後方にある狭いステップに足をかけ、前の手すりにつかまった。ピ……とクラクションが鳴って、マシーナは坑内めざして走り出した。
 私は電車(と言っていた)と逆になって走っていた。トロッコが前になっていた。奥から来るときは、ふつう、前進なのである。
 今まで、一年近く坑内に入っているがマシーナに乗るのははじめてであった。人員輸送車といっても、ほとんどがルスキーたちを乗せていた。一番奥にある日本人坑道の者たちは乗っていたようであるが、三十七坑道は昇降口(エレベーター)からいくらも離れていない。歩いて十分ほどのところだ。
 マシーナは私たち三人を降ろすと、ガタゴトと奥のほうに消えていった。組員は、ハッパの明かりの消えるのを待っていた。各組は交替の時限に切羽(炭鉱の掘削)にダイナマイトをかけ、次の組の作業がしやすくなるようにして、その日の作業が終わるのである。そのために、各組三十分早めにに出勤することになっていた。
 ミシャーは、私に言った。
「話をしたいから、みんなを集めてくれ」
 私は作業員を一か所に集め、ミシャーの話を聞くことにした。
「ズラスチ!」
 ミシャーは、いつもの快活な口調で言ってから、
「話はほかでもないが、今日からここにいるルナが三十七坑道の滝沢班の作業をてつだうことになりましたから、この娘をいじめないように」
と言い、それから娘にむかって、「よく働いてください」とつけくわえた。
 その娘は、ニコッと笑って会釈した。
 ミシャーの説明によると、『ルナ』という名で、ルナとは、「夜空に輝く月」という意味らしい。
 歳は、十七歳とのこと。地上で見たルナは金髪で青い瞳のかわいい娘だった。薄暗い坑内で見ても、色白な顔、そして、ツンとした鼻、歳よりも三つはおとなに見える。
 彼女は、やさしい口調でミシャーに話しかけていた。ここの組長の名前は、とか、組員が何人とかを聞いたらしく、ミシャーはいちいち手にとるように教えていた。
 ひととおりの挨拶が終わったので、私は組員たちに作業場につくよう指示してからミシャーといっしょにルナを案内した。彼女は、炭鉱作業は初めてであると言った。それまではコルホーズ(集団農場)で一年ほど働いていたことがあると、ミシャーに話していた。
 私は、ロシア語をなんとか聞き取ることができた。ミシャーとルナの会話を聞いているうちに、こんなことがわかった。
 いままでは、ヤボンスキーがパローダスマトリ(ボタという粗悪品の石炭の選別)をしていたが、二ハラショ(ロシア語で「よくない」の意味)である。そこで、ヤボンスキーと関係のないルスキーにやってもらうことになったのだからよくパローダを選別してもらいたい。そのようなことを、ミシャーは手ぶりを交えてルナに話す。ルナは「ダ(はい)、ダ(はい)」とうなずいていた。
 ミシャーは私のほうを見ると、かたことの日本語で、
「わかってくれ、俺の気持ち」
と言い、オーバーな身ぶりをした。
 ミシャーはつらいのである。私たちがはじめて坑内で作業をしたとき、出炭量を増やすためにボタという通常捨てる粗悪な石炭もいっしょに出すようにと言いつけたのが、ミシャーだったのだ。そのボタを少しでも減らすために、日本人以外の人にパローダ(*要確認)を選別させようという炭鉱上司の命令なのだから、腹はどうであろうと、うわべだけでも上司の命令を守らなければならない。
 いままでは、作業員のなかから一名選んでボタの選別をしていたが、男手をそんな軽作業につけておくのがもったいないという、ソ連側の考えからであった。いわゆる、労働の強化ということである。ソ連邦の計画経済の一つの目論見でもあった。

02 ノルマ

 ノルマについては、こんなことがあった。たとえば、私の所属する三十七坑道のことでもわかるように、「日本人坑道」と名のつく坑道は条件が悪く、石炭量の少ない場所なのである。
 ロシア人やその他の民族にまじって、小柄な日本人を大男たちと同じノルマで
働かせている。三十七坑道の場合、一番方、二番方、三番方、と三組に構成されている。もちろん、全炭鉱がそうなのであるが、日本人坑道は条件の悪い割に、ノルマが高いのである。
 各組は、四十五人から四十八人くらいの編成なのだが、年中無休なので、一週間に一回の休日は、それぞれちがうのである。
 月、火、水、木、金、土、日と、そのいずれかを選んで休日にするのだが、一日には、三人ないし、四人となる。ゆえに、毎日の作業員は四十一、二人である。
 そのなかでも、その日の状態でガスにやられたり、きゅうに具合が悪くなったりして、ニラボータ(よくない労働者)になる者も出る。
 暗い炭坑のなかでは表情がわからないので、注意することもできない。大半のものはがまんして八時間を過ごそうとして、ほんとうに体を悪くしてしまう。病人やケガ人は即、地上作業にまわされる。そして、また、丈夫そうな者を地上作業員のなかから引っぱってくる。それ以上手がつけられない病人になるとお払い箱にされて、米国が占領している日本へ帰りなさい、というわけだ。とにかく、命を落とすまでこき使おうという算段なのである。
 ポーランド人やドイツ人はあまり働かなかった、と監督のミシャーが言っていたが、そのミシャーさえ、スターリンのやりかたが悪いと言っていたくらいだ。
 ミシャーはグルージア人だという自称だから、そう信じておく。彼は、ソ連とドイツが戦ったおり、ドイツ軍の捕虜としてドイツで働かされていた。ドイツの敗戦により復員。しかし、ドイツでヒトラーの教えを受けたという理由でこのアルチョムの炭坑に送られてきたらしい。そして、ドイツの捕虜が入坑するようになって監督を命ぜられたという。
 近々に日本軍の兵士たちが入坑するということになり、ドイツの兵士たちはアルチョム市内、あるいはほ他の地方に送られていったらしい、と、よくミシャーが日常の会話のなかで漏らしていた。
 そのドイツの兵士が働いていたアルチョムの炭坑に入坑することになった日本兵の苦労が、その頃からはじまったのである。ミシャーは、私にこんなことを言ったことがある。
「俺はドイツで苦労したからヤボンのこともよくわかる。だから、お前たちのことはやさしく見守ってやりたい。そのかわり、この俺を助けてくれ」
 歎願するような目だった。
 ミシャーは、早く故郷のグルージアに帰りたいのだとも言った。故郷を出てから丸八年もたっているらしい。父母に逢いたいと漏らす。国が異なっても、国民性が異なっても、子が親を思い親が子を思う心に変わりがないと思った。ミシャーは、母からきた手紙を大切そうにふところにいれていた。いつだったか、私にそっと見せたことがあった。私は、彼の母のたどたどしい文字を見て、その内容を理解できるような気がした。
 ルナが坑内に入坑し、ボタを選別するようになってから、はや一ヶ月がたとうとしていた。彼女がまじめにボタを拾うので、三十七坑道の出炭量が急激に減ったのである。私の組だけでなく、他の組も同様である。他の二つの組にも、もちろん女性のボタ選別員が配置されているのだが、比較的お年を召した人らしいと、各組長から聞いたことがある。
 我が組のルナは十七歳、独身。他の組の女性たちはそれぞれ結婚していて、子どももふたりくらいいるとのこと。夫婦共稼ぎらしい。
 ルナに聞いたことがある。
「スーセイ、ノルマ、スコーリコ?(あなた、作業量どれくらい?)」
「ムニエ、ストプセント(私は一日百パーセントよ)。でも、クーシエ(もらう食糧)も、ジェンギ(お金)も、マーラマーラよ(少ないの)。コルホーズも安かったけど、ここも安いわ」と、かすかに笑った。
 いくら彼女が百パーセント働いたといっても、ボタの選別は中労働だからパーセントの割合に、パンも給料も少ないのであった。
 ソ連の仕組みなど私にはわかるはずはないが、最近うすうすとわかる気がしてきた。
「働かざる者食うべからず」という言葉を思い出した。一生懸命働いた者にはたくさんの食糧やお金を支給するのが本音で、その働きを三つのランクに分けてあるのが建て前なのである。
 その三つのランクとは、ノルマによるパーセントと、重労働、中労働、軽労働、その他病人に対する扱い等。私たち坑内作業員は作業のいかんにかかわらず、重労働なのである。
 与えられる食糧は、一食七五〇グラムの黒パン(コウリャンという穀物から作ったパン)であった。あまり美味でなかったが、空腹時に食べると、また格別の味がする。
 ノルマは一週間くらいをメドに切り替えられることもあり、出炭量が下がったときは「ニラボータ」で、監督と組長が上部に呼ばれて説教をされる。そして、ノルマを下げてもらうことや坑道の善し悪しを調査してもらうべく意見具申する。その結果、新しい出炭量を決めてもらうことも不可能ではない。
 このノルマのことは、説明しやすいようでなかなかむずかしい。ちなみに、三十七坑道のノルマは二百四十トンで、それを各組で案分して一つの組が八十トンのノルマとなる。
しかし、ほんとうの出炭量はボタも何もかも混ぜても、せいぜい八時間作業で六十トン出ればいいほうである。もしも、がんばってノルマの八十トンに少しでも近づくと、また高いノルマにされる。たとえば八十トンのノルマのところ、七十五トン位まで跳ね上げられる。そうかといって、ノルマの半分しか出なくても、なかなかノルマを下げてもらえないのである。よほどのことがない限り、無理だった。
 三十七坑道で、一度だけノルマ五十トンにしてもらったことがある。百パーセントノルマが七十トンのとき、坑内を走る鉄道の修理入れ替えと、坑内に空気を送る送風機(インチレンタル)の故障のときであった。坑内の窒素性ガスの多量発生で作業が思うようにはかどらなかったのが上司に認められたのだ。あとは、ずっと決められたノルマでやっていたのである。ソ連の計画経済の真意は、三十七坑道を例にとってみても一目瞭然。石炭の層が薄く、いくら一生懸命働いても出炭量が少ない。そのことを踏まえていながら、なおかつ、多くの出炭量を要求する。
「ドワイドワイ(やれっやれっ)」と、労働者を働かせるのである。
 日本兵にだけそうするのかと思ったら、そうではなく、坑内にいるソ連人労働者も同じであった。
 もちろん、労働者のほとんどがドイツで捕虜生活を送った者や共産主義に反対する者だったようだ。だから、スターリン首相のことを『スターリンホイニヤ(もっとも悪い悪口)』とののしるのである。

03 望郷

 ある日のことである。
 ルナがきてから二週間くらいたったころだと思う。エレベーターの待合室で上りのエレベーターを待っていた私に、うしろから「ターシャ」と呼ぶ女の声がした。ギョッとしてふり返ると、ルナが立っていた。
 もう、とっくに帰ったものと思っていたのにと、私は不審に思った。
「ナーシャ、どうしたの、いまごろ?」
「うん、母の所へ行ってきたのよ」
「えっ、ナーシャのお母さん、炭鉱で働いているのかね」
「ええ」
 ルナの母親は、炭鉱の切羽にハッパをかけるハッパ師だった。その人なら、私とはもう長いお付き合いだった。
 以前、切羽へのブリ(二メートル位ある石炭掘削用のドリル)のもみ方が悪いと言って小言をもらったことがある。
 たびたび、彼女の身の上話も聞かされた。彼女の夫もハッパ師だったようだが、事故で死んだと言う。
 ハッパを仕掛けたあと点検をするのだが、その日は、二十発仕掛けたはずのハッパが二発不発だった。その二発をふたたび爆発させるためガスのなかに入り、電線をつなぎ直し電源のスイッチを入れた。ほんとうは、遠くへ離れてからやるのであるが、そのときはあせっていたのであろう。よく距離をとらずに電源のスイッチを入れてしまったのである。
 近くに横穴があったはずだ。そこに入っていれば爆風は避けられたと思うのだが、あまりにも切羽に近かったので、間に合わなかったのだろうか。ルナの父親は、二十五歳から十年くらい、この仕事一つでやってきたベテランであった。魔がさしたとでもいおうか、悲しい事故だ。
「私が十四歳のときだったわ」
 ルナは、自分の母親から聞いたことを私に語り終えて、しんみりと言った。
 爆死したハッパ師の妻が、いま、ハッパ師になっている。私は、その人をいつも、「おばさん」と呼んでいた。そのおばさんがルナの母親であるとわかると、ルナにも、ルナの母親というハッパ師に対しても、ひとしお、親近感がわいてくるのだった。
 私はルナの話を聞いているうちに、国の土が懐かしく、父母や弟たちのことが思い出されてならなかった。

04 報酬

 ルナが急に、思いついたように言った。
「ターシャ、いい話を聞かせるよ」
「なんだ?」
「いい話よ」
 ルナはもったいぶって私をじらしてから、
「ねえ、ターシャ。こんど、ヤポン(日本人)にもお金がでるようになったのよ」
 と言った。
 私は半信半疑で彼女の目を見た。澄んでいた。ほんとうらしい。私は、すなおにルナの言うことを信用することにした。しかし、それでも、信じ難いことであった。
 ルナの言葉が本当であることがわかったのは、地上に上がってからだ。
 一番方の作業員は、各坑道ごとに整列をはじめていた。
「おーい、ターシャ、早く!」
 ミーシャが、手招きで私を呼んだ。
「滝さん、彼女とうまくやってるなよ」
 副組長の阿比留武が、両手をメガホンのように口に当ててどなった。私には、どなったように聞こえた。
 ルナは、「あのサルデーテ、何スカザ(チユ、スカザ。何を言ってるの?)」と私に聞いた。
「よくわからんけど、きっと、ルナといっしょだから、彼に妬いているのかな」
 私は、笑いながらルナの顔をのぞきこんだ。
「まあ、そう」
 ルナは、わざと私の腕を自分の腕にからめた。
「二ハラショ(だめ)」
 私は、手をふりきった。
「ヤポンスキー(日本人)は、女の人となかよくできないの?」
 ルナは不機嫌になった。本気で怒ったらしい。でも、ルナは気持ちのいい娘だった。すぐ、気を取り直して、右手をふりながら、
「ダスヴィ、ダーニヤ(さよなら)」
 と言って、反対方向へ歩いていった。
 整列していた各坑道の人たちが、私をいっせいに見た。組員の加地時男が、「色男」と私をからかった。ルナとは、そんなことを言われる間柄ではない。たまたま、このときはいっしょに歩くはめになっただけのことである。
「タキザーワ、ジエンギ(お金)、ムノーガ―(たくさん)」
 ミシャーは、待ちかねたように、白い紙袋を私にわたした。
 私は、その袋をにぎりしめてから、なかをのぞいた。百ルーブル札が八枚。八百ルーブル。
(ずいぶんはずんだな)
 そう思った。しかし、この八百ルーブルで何が買えるというのだろう。炭鉱のバザールには、たいした物がない。坑内に入る前のちょっとの時間を見計らってバザール(売店)をのぞいたことが何度かあるので、何があるかはだいたい知っていた。まだお金もない時だったから、ただ見るだけだったが。
 こんどからお金がもらえるとなると、買い物ができる。心が弾むはずなのに、なぜか、そんな気になれないのである。
 戦争に勝ったとはいえ、ソ連の経済力は低下していることは事実であった。バザールにある品物を見ても、一目瞭然である。
 ヒマワリの種、松の実、手製のタバコ、マホールカ(タバコの茎を細かく刻み、新聞紙を切った紙でくるんだ物。いがらくて、喉を痛めてしまうようなシロモノ)、その他、桃の型をしたペロシキという小麦粉をこねて作った食べ物。これとて、砂糖気も塩気もなく、ただ、油(マースロ)をひいた鉄板の上で焼いただけの物である。
 あとは、ヘチマコロ(日本製品。満州か樺太あたりから持ってきた戦利品らしい)、それに、パン類、特にペーロパン(白パン)などは高価で、炭鉱の副長でも毎日食べられないという。
 そのぐらい、食糧や物資が不足しているのが目に見えるのであった。戦勝国のソ連でさえ、このような生活環境なのだ。ましてや、敗戦国日本の困窮はどのようなものであろうか。目のあたりに見えるようだ。
 ハバロフスクで諸戸文夫なる人物が発行する『日本新聞』の報道は、三分は誇張と見ても、七分は信用できる事柄だとうなずける。
 インフレーションのソ連である。札びらだけが山のように積み重なり、物資は底をついている。いくら八百ルーブルもらっても、ろくな物が買えない。

05 闇物資

 坑内で働く市民の間では、闇物資が多い。特に、ドイツ帰りの兵士たち相手に売りさばかれていた物資は、大した物はないが、それでも時には、水瓜、トウモロコシ(生、またはゆでた物)、タバコ、マホルカ(タバコの幹を細かく刻んで天日で乾燥させた物)、それに黒パン、ヒマワリの種、松の実(日本の松の実と異なって大粒であまりヤニ臭くない)。それから、マフラーやハンカチ(日本製やドイツ製)。戦利品らしい。
 そんな物を売っているのは、元軍人かその婦人らしい。
 いままで、お金を持っていない日本兵など相手にしていなかった彼等が、日本兵もお金をもらえるようになったとたん、闇物資を売り込むべく作戦を開始してきた。彼等の売る品物はすべて公定価格の三分の一位なのである。バザールに売っているヒマワリの種や松の実は、一カップ(一合位入るコップ)三ルーブルに対し、一ルーブルである。黒パン等もかなり安く売っていた。どうして安く売れるんだと、ある人に聞いたことがある。彼の返事はこうだった。
「ソ連では個人(一世帯)に対し、少しだが無償で土地が与えられている。そこで、タバコやヒマワリを育てて、その実をこうして売っているのだ」
 闇物資として売ってもよいのかと聞いたら、
「捕まれば監獄へいかなけりゃならんけど、食っていけないからやっているのさ」
 と言い、「スターリン、ホイスネ」と吐き捨てた。これは悪口の最高らしい。
 スターリン首相のことをよく思っていないようであった。
 戦争ばかりに力を入れて、国民の欲しがる食糧も衣類もあまり生産しないで、軍事産業に力を入れた。戦争に勝っても食べるものもない、と不満を述べる。「この服(移民団の着ていた国防色の服)は、満州で見つけた物だ。空き家になった家から持ち帰った物だ」と、彼は付け加えた。
 私はその男の話を聞いた手前、松の実を一カップ買うことにした。
「ヤポンスキー、スパシーバ(日本人よ、ありがとう)」
 彼は、薄汚れた布製の袋の中から松の実を一カップ計って取り出すと、新聞紙で作った袋に移した。それを私に渡しながら、「ナ、ダワイ」と手を出した。
 握手を求めたのかと思ったら、代金をくれというのだった。私は、一ルーブル札を一枚彼に渡した。お金をもらうようになって、これがはじめての購買であった。
(俺も物が買えるようになった。ハ……)
 声にならない笑いがもれた。
 顔を合わすたび、彼に品物をすすめられた。

06 松の実

 ある日のことである。
 坑内に入ると、ルナがベルトコンベアの前に腰かけていた。まだ、ベルトが作動していない。
「どうしたのだ?」
「ヤ、ニズナーイ(私、知らない)」
 心配そうに聞いた私に、ルナの頼りない返事が返ってきた。不吉な予感がして、急いで職場に向かおうとしたら、ルナが、
「アバジー(待って)」
 と言った。
「何か、用かい?」
 私は、せいている気持ちを押さえて立ちどまった。
 ルナは、上衣のポケットから紙袋を出して私にくれた。中身は、松の実だった。
「いくらだ?」
 私がポケットからお金を出すのを見て、ルナは両手をふりながら笑った。
「ジェンギ二、ナーダ(お金、いらない)」
 もう一度、松の実を見た。それから、紙袋の口を閉じ、上衣のポケットにそれをしまいこんだ。
「食べてごらん。おいしいよ」
 ルナが言った。
 しかし、ルナに言われるまでもなく、私はその味を知っていた。
 まだ戦争中の昭和十九年の夏ごろから、持久戦に備えて食糧の節約がはじまった。海岸に行って、コンブや貝を拾ったり、川を上る鮭や鱒を捕らえて腹を肥やしていた。
 千島の冬は厳しい。食糧に困るのは、兵隊だけではない。野ネズミたちもせっせと食糧を集める。彼等は、特に松の実が好物らしかった。野ネズミたちは、松の実を所どころに集積していた。ヤッチ坊主(ツンドラ)の枯れ草の中に上手に積み、その上から土をかける。そして、さらに、また枯れ草をかけてカムフラージュする念の入れようだ。一見しただけではわからない。苦労して彼等が集めた物を、私たち兵隊が、そっくり頂戴したというわけだ。野ネズミたちにとっては、大災難だっただろう。そんなふうにして食べた松の実である。忘れるはずがなかった。
 物が豊富にあれば、珍味として食べたかもしれない。しかし、何もない(あっても、食べさせてもらえなかった)当時のこと、松の実でも美味いと言わざるを得なかったのである。そのおかげで、この命をつないでもらったのだ。ルナの言葉に、私は千島のできごとを蘇らせていた。ソ連も食糧に困っている。勝っても負けても、もう戦争なんかごめんだ。
 
私の来るのを待っていた前番方の組長が申し送りをした。二宮さんという。
「滝さん、気をつけて」
 二宮さんが急ぎ足で坑内から出ていった。機械係の同郷の原正男さんが切れたレスタック(石炭を送る鉄板でできた物)のワイヤの付け替えをやっていた。切羽には、まだガスが残っていた。ハッパをかけ終わったルナの母親は、もう他の坑道に行ったらしい。ポーランドの二人組がタポール(斧)をふりかざして坑木の組み立て作業をしていた。
 声をかけると、こんな言葉が返ってきた。
「ホイスネ(知っちゃあいねぇ)」
 彼等は、ふたりで一組。監督ミシャーの直属であり、三十七坑道の専属でもある。「ホイスネ」は、彼等の口癖だった。いつか、こんな話を聞いたことがあった。
「いままでずっと、ドイツ兵たちといっしょだったが、自分たちだけ残されて、ヤポンスキーとラボータ(仕事)をすることになった。ドイツは働かなかったが、ヤポンはよく働く」
 彼等は、日本人を誉めているのかけなしているのかわからない。たぶん、「ヤポンスキーは馬鹿正直。クソ真面目」とでも思っていたのではないだろうか。だから、私の言葉に「ホイスネ」と返してよこしたのであろう。

07 男たち

 ルナが坑内に来てから、男たちの誰もが明るさを取り戻したような気がする。私の思い過ごしなのか? いや違う。何となく、みんな元気がいい。ラパッーカ(スコップ)をにぎる手に若さがみなぎっていた。私自身もそうだ。いままで、組員の誰かがボタの選別をしていたころは、特別用のないかぎり、そこへあまり行かなかった。それがなにかと理由をつけてはルナのところへいく者がふえた。ただ、ルナと一言かわすだけであるが、行く回数が増えたことはまちがいない。
 それまで、坑内の男たちは大便も小便もすべて廃坑の中ですませていた。それが、わざわざ大通りの便所まで行くようになった。往復すると、二回はルナに会えるのである。
 いままで味わったことのない明るい雰囲気。ルナも、ひとりぽつんとしているよりもヤポンスキーたちと話をすることが楽しいようであった。すっかり異性から遠ざかった世界で暮らしてきた男たちにとっては、青春の花園だった。考えてもみなかった自分の年に気がつくと、やっぱり「ただいま、青春真っ盛り!」の年頃なのである。
 組員の加地時男などは切羽にもどると、
「俺、ルナの手をにぎった」
 と話したりした。
 ルナも、組員たちの名前をほとんど覚えたらしい。彼女は、気のいい娘だった。少しくらい気にいらないことを言われても、腹を立てなかった。話をすることが好きらしく、誰にでも声をかけて、
「東京(日本の代名詞)の話を教えて」
 と、せがんだりする。そんなとき、ルナの青い瞳が輝くのだった。
 ある日、ルナが私に尋ねた。
「ターシャ、おくさん、イエス(ある)の」と。
「ない」
 私は、ぶっきらぼうに答えた。ルナは、私の顔色を見て、
「ごめんね」
 とわびた。あまりにも捨て台詞だったので、私が怒ったと思ったらしい。私は内心、(妻どころか、恋人もいない)とルナに伝えたかった。
 ルナと話に花を咲かせていて、監督のミシャー(ミリー)に見られ、冷やかされた。
「ターキ、ルナにほれたのか?」
 ミシャーは、茶色の瞳を輝かせて笑った。「無理もないよな、若いんだから」そう言って、私の肩をポンとたたくと、「ラボーチ(仕事、仕事)」と言いながら、切羽のほうに消えた。
 ミーシャもドイツのラーゲルにいたとき、こんな情景があったと、ぽつんと話をしてくれたことがある。ルナが来てから、二週間くらいたった時だった。彼は、そのことと私のことをかさねて考えていたのだろう。
 季節は、秋へ移ろうとしていた。畑にトウモロコシが実り、シベリアの短い夏の終わりを感じさせる。
 時計もパンに替えてしまったいまは、炭鉱事務所の時計を知るほかには、術がなかった。炭鉱の闇の中の生活へ、四季の移り、変わりは届きにくい。日本のように四季がはっきりしていれば申し分ないのであるが、冬が長く、春から夏、そして、秋までがかなり短いので、季節の変わり目がはっきりしないのである。
 明るい地上から、暗い地下に潜るモグラ生活。しかし、その生活にもすっかり慣れた。
 さらに若い女性にも巡り合ったし、お金ももらえるようになった。これで、米の飯で味噌汁でも食べられれば、この上もない幸せではないか。こう思っていた男は、私だけではないだろう。

08 弊価切り下げ

 青年らしい甘い夢を見たのもつかの間、その夢を吹き飛ばすような話を耳にした。
 弊価が切り下げになるという。以前から、噂にのぼっており、少しは知っていたが。
 ハッパをかけにやってきた女ハッパ師(ルナの母親)の話によると、「ソ連政府は弊価の切り下げを実行することになった。いまのうちに、お金で何か買っておくほうがいいよ」ということだった。
「ポニマイ(わかりました)」
 私は新設なおばさんに心から礼を言った。前から噂が流れていて、炭鉱のバザールは閉鎖されていた。百ルーブルが十ルーブルに切り下げられてしまえば、紙幣は、紙切れ同然になってしまう。古新聞のほうが、まだましかもしれない。タバコを吸うときに役に立つからだ。
 女ハッパ師は、こんな話を聞かせたあと、「ハラショ、ラボータ(よく働きな)」と言った。さらに「あの娘をいじめないで」とささやくと、ムッパ(ダイナマイト等の入った黒く四角い大きなカバン)を、ドッコイショと肩にかけた。そして、粘土押し込み用の長さ二メートルくらいの木製の棒を杖にして立ち上がり、「ダスブィ、ダーニャ(さようなら)」と言いながら、他の坑道へと去っていった。
 後ろ姿を見送りながら、故郷の母親が稲の束を背負って歩く姿を連想した。しばらくの間、父母や弟たちのことを考えて立ちすくんでいた。
 それから、一週間くらいたったころだったと思う。私たち日本兵は、もらったお金を全部引き上げられることになった。弊価の切り下げにあわせて、日本兵からルーブルの引き上げも行われたのである。せっかく支給された金が、使わずに返納である。もっとも、持っていても紙屑同然の札にならないほうがましだ。みんな、そう思っていたに違いない。
 ソ連政府の命令だから、仕方のないことであった。日本兵は、まずくても食うことだけは、食わせてもらえる。したがって、お金がなくても困らない。しかし、炭鉱で働くソ連人の労働者や市民はもっと困っていたことだろう。物資がない上、物価も高い。そこへ、この弊価の切り下げである。私たちの何倍もの苦しみだったかもしれない。

09 御飯と味噌汁

 弊価切り下げから、一か月ほど過ぎたころである。
 ラーゲル(収容所)の所長マイヨル・マルチンコ(マルチンコ少佐)から私たち日本兵に、ありがたいお達しがあった。収容所の内部の空き地に、何でもよいから作物を作ってもよい、と言うことだった。
「ソ連さんも無茶苦茶いうよ。これから秋になり、冬になるというのに、畑を耕して作物を作れだってさ」
「どうせ来年の話なのだろう、今年はだめだよ」
 みんな、こそこそと言い合った。
 その後、また、こんなことも伝えられた。
『今月からラーゲルで入浴できるように設備をしましたから入浴してください』
 それまでは、作業が終わってからラーゲルに帰るまでのわずかな時間(三十分ほどだっただろうか)に、ルスキーやモンゴル、カレイスキー(朝鮮人)たちといっしょにシャワーを浴びた。まるで、もらわれてきた猫のように、いつも小さくなって体を洗っていた。いや洗うなどというものではない。ただ、シャワーのお湯を体にふりかけて出てくるような状態。夏はまだしも、冬などは、とても寒くてがまんができなかった。以前からこの問題が「課題」になっていて、日本人大隊長(第十二収容所の日本人最高責任者)枚山少尉が、マイヨル・マルチンコに申請してあった事項が、いま、やっと実現したのである。
 それだけではなく、朝夕の二食は毎日米の御飯が食べられる、という、夢のような話。これも夢ではなく、実現したのだった。おまけに、ニンジンや大根やワカメの味噌汁が飲めるようにもなったのである。
 もちろん、米でも味噌でも、日本のものであることは明白なのである。忘れはしない。終戦時に、日本軍には五年間は食いつなげるだけの米が残っていたのを。私たちが、この手で、この足で、この肩で運んだのだ。あの時の作業のようすまで、ありありと目に浮かぶ。
 千島だけでも何万俵だから、満州やカラフト等の物資は膨大なものになる。その戦利品の物資が、終戦後二年近くになって、ようやく私たち日本兵の命をつないでくれることになったのであるから、じつに「くしき因縁」である。厨房係の人たちが、丹念に五目寿司を作ってくれたこともある。他の収容所のことはわからないが、アルチョム第十二収容所は優遇されていたのかもしれない。
 食糧がよくなると、私たちの体も強くなったらしい。その証拠は、毎月行われる身体検査であった。身体検査といっても、お粗末なもの。胸に聴診器をあてるわけでもない。全裸になった私たちの下腹の皮を指ではさんで引っ張って伸ばしてから、パチンと放すだけ。まるで、子どものころに遊んだパチンコの要領だ。この、腹の皮の弾力の具合で、病弱であるか、健康であるかがわかるそうである。笑えぬ喜劇だ。しかし、食事の改善によって健康状態がよくなったのは事実のようである。

10 怪我

私の同郷(新潟県柿崎町)の原政雄は、三十七坑道の機械屋をやっていた。その彼が、ある日、怪我をした。鉄板にはさみ、右手の薬指の爪からさきを切断したのだった。
 その彼が、病院に入ったあと、消息が知れなくなった。これは、私が復員してからわかったことだが、原政雄は、日本に返されていたのである。
 入院して十五日。ナホトカに、たまたま引揚船が入港するということで、傷はまだ直っていなかったが、日本へ帰されたとのこと。
 彼の復員によって、私の生存が父母たちに伝えられた。それがわかっておれば、両親たちに伝言ができたものを、と悔やまれた。
 当時、病気がちの者や怪我をした者は早く帰されたらしい。が、それがみんなにわかれば、故意に病気になったり、怪我したりする者が出る。それを恐れて秘密にしていたのだろう。
 原政雄が坑道から姿を消したのち、組長の私が機械屋をひきうけた。器用なほうだったから、慣れない仕事ではあったが、すぐにとけこんでいけた。
 しかし、やがて、仕事中に私も怪我をすることになってしまった。
 仕事に慣れて、ちょっと気をゆるめたのだろうか、左足にワイヤの針金が刺さった。ちょうどそこは、十五のときの古傷のところだった。傷は、化膿し、痛んだ。
 私の歩く格好がおかしかったのか、ルナが、
「ターシャ、どうしたの」
 と心配してくれた。
 うっかり傷口を見せて、大袈裟になるとこまるので見せなかった。
 しばらくたって、監督のミシャーが鼻歌まじりにやってきてたずねた。
「ターキ、バルノイ(病気)か」
「二エト(何でもない)」
 私は、平然と答えた。
「ヒートリ」
 うそ言うな、いま、ルナから聞いてきた、とルナのいる方向を指さした。
(あのおしゃべりが!)
 と内心思った。けれども、ミシャーは、それ以上は聞かなかった。
 ラーゲルに帰ってから、戦友の関川から縫い針を借りた。ランプを火につけ、針を火であぶる。赤くしてから冷まし、左足の化膿している皮膚の上から熱消毒した針を突き刺した。小さい針の穴から、風船につまった空気が抜けるように、ピューッと血が飛び出た。それと同時に、腫れていた患部が風船がしぼむようにちぢんだ。
 汚れた血が出おわると、次に、真っ赤な血が出てきた。しばらくして血は止まったが、患部につける薬はおろか、巻く物さえない。
 とっさに、ひらめいた。ちょうど近くに越中フンドシ(T字帯の元祖のような物)が干してあったのである。私はそれを裂き、包帯の代わりにした。越中フンドシもときには役にたつものである。
 仕事に夢中になっているときは、不思議と痛くなかった。感じかたが鈍くなっていたのかもしれない。足のひきずり方が、前よりひどくなったからだ。体に感じるよりもずっと悪化しているのだろうか。と思うようになった。収容所のベッドの上でフンドシ利用の包帯をはずして見た。化膿はしていなかった。表皮が、二ミリメートルはあろうかと思われるほど厚くなっていて、それが歩くたびにつっぱるのだと判断した。
 炊事場から湯をもらってきて洗面器(自家製)に入れ、左足の患部をその湯で温めた。三十分、いや、もっと長い時間だったようにも思う。時計もなく、推測である。体温に近かった湯の温度がかなり冷えていた。
 とにかく、その硬くなった皮を取り除きたかった。水分をふくんで分厚くなった皮はひっぱったくらいでは切れそうにない。刃物類はみな、ソ連当局によって引き上げられているので、誰も持っていないはずだった。
 しかし、聞いてみるものだ。たまたま、同室の阿部という人が、爪切りを持っていた。それを借りて皮の一部に穴をあけ、少しずつ切り取っていった。細かい作業である。
 汚れた皮はだんだんはぎ取られ、その下から、まっ赤な肉を包みこんだ新しい皮が姿をあらわした。患部は、まるで穴のように陥没していた。薬も、消毒用のアルコールも、ガーゼも、何もない。ない、ない、ないのないないづくしである。
 私はふたたび自家製の包帯を傷口にまき、ためしに歩いてみた。歩ける。不思議とつっぱらない。(やった!)と思わず叫んだ。
 爪切りを借りたお礼に、阿部さんに、少し残っていた松の実をやった。彼にとっては珍しいものだったようで、じっと見ていた。

11 阿部さん 

 阿部さんのことは、「阿部さん」としか知らなかった。名前は聞いたことがない。
 同じ日本人坑道でも作業の組が違っていたうえ、私たちより半年ほど遅れてこのラーゲル(収容所)に映ってきたためになじみが薄かった。アルチョムに来るまえは、他の収容所にいて、作業はコルホーズでの農作業だったという。戦争中は、北支で戦っていたが、終戦まぎわに満州に移転したと聞いた。
 あとで耳にしたところによると、北支では相当悪いことをしたらしく、中国から戦犯として指名手配されていたほどだったようである。旧軍隊の階級は「曹長」であったが、ソ連に来た当時から「一等兵」だったと嘘をついて自慢していた。
 暗い陰のある人物だった。自分が「お尋ね者」であることを隠しために、わざと人づき合いをよくしていたようであった。しかし、ソ連の憲兵等が巡視に来たとき、平常心を装っていても、どこか、怯えを隠せないのがわかった。そんなふうだから、彼の日常生活には躁と鬱の二つの性格が現れていた。
 私の千島部隊も、「戦犯」としてシベリアに連れていかれた。が、同じ戦犯でも、私たちの場合は、中国において婦女に危害を加えたり、非人道的なことはしていない。それだけでは、救いである。
 ある日、阿部さんが兵舎から消えた。私たちが作業に行っているあいだに、だ。目撃した人の話では、なんでも、看護師がふたり来て、休んでいた阿部さんを連れていったということだ。なんのために連れていったのか。もしかしたら、月例身体検査の結果が悪くて病院に入院したのか、それとも、「戦犯者」として中国に引き渡されたのだろうか。あるいは、他のラーゲルに移ったのか? まさか日本に送り返されたとは思われない。
 私たちは、首をかしげて、模索した。彼の私物がそのまま入っていたし、この前借りた爪切りも、枕元にそのまま置いてあった。
 二、三日すれば帰ってくると思っていたが、十日たち、二十日たち……。それでも、阿部さんは帰ってこなかった。収容所長のマイヨル・マルチンコ少佐からは、何の説明もなかった。それだけではない。
 大隊長として千島からやってきた杉本少尉も、いつのまにか、姿を消していた。
 スーチャン(スーチャン市)の将校だけの収容所に行ったらしいという噂が流れた。それも噂であって、真実ではない。小川少尉が日本軍の責任者になるのだという噂が流れたが、その小川少尉まで、ラーゲルから姿を消してしまった。二度と、私たちの前に現れなかったのである。

12 戦犯

 昭和二十年八月十五日は、我が国が連合軍に白旗を揚げた日である。
 当然、ソ連軍は千島に進駐することを目的に進行してきたのである。日本軍は全面降伏をしたことであるから、平和に千島占領をしたかったのであろう。
 ところが、「本国は負けたが、我が千島は健在なり。故に外敵と一戦を交えるべし」と、下層幹部が命令を下してしまったのである。
 千島方面軍九十二師団長、堤不佐安中将の平和降伏の命に背いて、八月十八日の真夜中、ソ連軍の上陸を阻むべく、戦闘状態に入ったのである。かんかんに怒ったソ連軍は、艦砲射撃を行った。占守島、松輪島……と、千島全域に戦火がとびちった。
 このような経過のために、私たちは「戦犯」扱いとなったのである。
 無抵抗で降伏してもシベリア行きは免れなったかもしれない。しかし、あの抵抗は、ソ連軍に好都合ないいぶん作りをしてやったようなものにすぎない。後日、ソ連の海軍大佐が、えらそうに言った。
「あの時、日本軍が無抵抗で降伏していたら、ソ連軍もこんなに日本軍を強制労働に追い込むようなことはなかった」
と、もっともらしく聞こえるが、私は信じなかった。最初から、日本軍人を捕虜としてソ連全土に送り込み、強制労働をやらせる目的であったに違いない。
 私は、「終戦」以降のあの戦いで死んだ戦友たちの無念な顔を思い浮かべた。

13 民主化運動

 幾人かの者たちが、ある日突然姿を消すという事件が続いてから、しばらくたったころである。
 日本人坑道十六坑道の組長である藤井貢が、私のところへやってきた。所長の依頼だというのである。
 用件は、ラーゲル内で民主化運動を展開するというものだった。その手はじめとして、作業整列のときの広場に、ステンナーヤ・ガゼータ(壁新聞)を設置すると言う。藤井貢が文章等を作成し、私にはイラストを受け持ってもらいたいとのことであった。再三辞退したのであるが、彼の熱意に負けて引き受けることにした。
 藤井貢は、奈良県に近い大阪府の出身で、「俳優さん」とか「役者さん」とか呼ばれていた。映画俳優の藤井貢と同姓同名だったために、そんなあだ名がついたらしい。
 彼は、千島の国端崎に駐屯していた独立歩兵に所属していたのであるが、知り合ったのは、アルチョムに来てからであった。
 話してみたら、同じ千島から同じスターリングラード号に乗船し、ナホトカに上陸。そこから雪の原野をあちこちと歩かせられて、やっとこのラーゲルに落ち着いた集団のなかに、彼もいたのだ。
 ふとした話からこのようなことを知り、ふたりの仲は急速に近くなっていた。その彼からの頼みである。
 壁新聞の内容は、ほとんどがハバロフスクから送られてくる日本新聞を元に書くのであるが、たまには、藤井と私のアイデアも盛りこんだ。
 壁新聞を発表するようになって、収容所内は、三派にわれた。
 まず、民主化運動に賛同する者たちと反対する者たち。後者は、旧軍隊を尊重し日本帝国を思う者たちである。そして、もう一つのグループは、自分たちの進む方向を見出せない、いわゆる中間派だった。この三グループを称して、「左翼」「右翼」「中間派」と言った。中間派は、ときには右翼の味方をしたり、風の吹きようによっては左翼になびくなど、言動が揺れ動いていた。
 右翼の連中は、左翼の者たちを「国賊」だの「売国奴」だの「ソ連のスパイ(回し者)」だのと、ことあるごとに罵った。左翼の者たちは、右翼の圧力に負けないよう、民主化運動をアピールした。
「天皇制打倒!」
「帝国主義を日本からなくそう!」
「米国を日本から撤退させよ!」
「我がソ連同盟(ソ連邦)と心を結ぼう!」左翼の主なるアクチーブ(教宣活動家)たちが、メガホンを鳴らしてゲキをとばす。右翼たちも負けないで左翼たちの悪口雑言を並べる。
 このようななかで、ソ連秘密警察の目が光っていた。特に、右翼に対する目は厳しく、大物数人がチェックされていた。その彼等が、いつのまにか、第十二収容所から姿を消した。
 藤井貢の話では、シベリアのより奥地にやられたようだということだった。重労働大隊に属し、森林の木材伐採作業等が主な仕事だという。
 それからまもなく、劇団も組織された。団長は、満州からきた山田。同じく満州からきた井上は、日本では有名なバイオリニストであった。さらに黒柳も加わった。
 そこへ、ズブの素人である私や藤井のような者も加わり、十五名位の劇団が生まれた。劇団では、互いを「タワリシ(同志)何々」と呼ぶことになった。やがて、この呼びかたは、収容所内にいるすべての者を呼ぶときにつけるようになっていったのである。
 たとえ右翼であろうと、中間であろうと、区別なくそうしたのである。タワリシ藤井、タワリシ滝沢、といった具合。
 めだった者たちが奥地へ連れていかれてから、右翼の騒ぎは減ってきたが、まだ、ときおり嫌がらせがあった。調査の結果見つかった右翼は、ふたたびどこかへ消えていった。

14 教宣活動

 民主運動がどうやら板についていきたこと、シベリアに早い冬がやってきた。
 いくら右翼だ左翼だといっても、しょせんはワイナブレン(捕虜)なのだ。ラポータ(仕事)はしなくてはならない。教宣活動は、作業が終わって自由の身になってから行なう。三時間ほどかけて各兵舎を回るのである。ときには、収容所長のマルチンコ少佐も講演に回る。彼は、れっきとした共産党員である。マルクス・レーニン主義の分厚い本を片手に、立て板に水のごとく、じつに流暢に話す。
 それを訳して私たちに伝えてくれたのが、通訳の、同志伊藤であった。
 同志伊藤の出身地は明らかではないが、北千島から一緒に来たことはまちがいない。九十二師団にいたのかもしれない。彼は身の上話をあまりしなかった。
『民主化運動を盛り上げ、収容所内を赤色にしよう』
 これが、民主運動のスローガンである。いかなる反対派の反動にあおうと、しっかりとスクラムを組んで進むことを誓い合う。ソ連共産党員のマルチンコ少佐をはじめ、職員の目は、私たち日本人の民主主義へのめざめを見つめているようだった。
 作業が終わり、夕食もそこそこに教宣活動をはじめる同志藤井に、疲れたようすはない。私も疲れを感じなかった。まだ若い。若さが疲れをふきとばしていた。
 いろいろなアイディアで、壁新聞も盛んに発表した。リーダーを失い、頭をもぎとられた反対派は、だんだん影が薄れていくようだった。その証拠に、民主グループへ入ってくる者たちが増えてきた。
 また、このころになると、いままで歌ったこともない者までが、プロレタリアートの歌を声高らかに歌うようになった。
 どうやら、第十二収容所の民主化も時間の問題だと思った。劇団も活発である。みんなの顔が生き生きしてきた。
 食事がよくなっただけではないことはわかる。いままで互いの挨拶は、ごく親しい間でさえも、ただ「ズラスチ」程度だったのが、全然知らない者へも「ズラスチ」と言うようになった。名前を知っていれば、それに「タワリシ何々」つけくわえる。挨拶は、互いの関係をいっそうなごやかにしてくれた。
 こうしてラーゲルは活気に満ちていった。

15 クリスマス・イブ

 暮れもおしせまった十二月二十四日。
 クリスマス・イブのパーティーが、炭鉱の会館で行われた。戦後、はじめてのパーティーだという。さすがに、ソ連でも戦争中はもちろん、戦後もクリスマス・イブやクリスマスを大袈裟にやれなかったようである。
 このたびは、国民の士気をあおるためにスターリンが許したのであろう。ルスキーたちの間でそんな会話が交わされていたのをちょっと聞いたことがある。
 やはりスターリンの指示かどうかはしらないが、収容所でも、ささやかなクリスマス・イブが行われた。カヤク御飯や肉じゃが等、いつもよりも豪華な献立であった。炊事係には、腕のいい料理人もふたりいた。旧日本軍当時活躍した炊事当番経験者たちである。彼等が腕によりをかけた作品。もっと材料があれば、一流レストラン並みのものを作っただろうと思うほど、りっぱだった。
 この日は、兵舎でもダンスこそなかったが歌ったり騒いだりの無礼講が許された。
 このパーティーの司会を、私がつとめた。同志藤井の指名である。しゃべることの苦手な私は断ったのだが、どうしてもというので引き受けてしまったのである。
 司会は思っていたより楽だった。ジョークを交えての話はわりあい評判がよく、みんなから賞賛をあびた。気をよくして、私は即興の歌を一つ歌った。
「ヤボンスキー、スカザ、ルスキー、サムライ」
 どっと笑いが起こった。
 そのとき同席していた職員のAマローシャが、
「タキザーワ、シトタコイ」
 と言った。私は、マローシャにロシア語で詳しく説明した。
 炭鉱で、あるロシア人に、
「チベ(お前)は、日本のサムライか」
 と聞かれたので、
「そうだ」
 と答えた。すると、そのロスケは私に銃を向けて撃つしぐさをした。そこで、私は、「いまはサムライではない。日本へ帰ればまたサムライにされるかもしれない。だから、いまはルスキーのあなたがサムライなのだ。いま、私に銃を向けたでしょう」と言うと、そのルスキーが、「そうだったな」と言った。
 そのことを歌ったのだと言い終わると、マローシャが、
「ボニマイ、イ、二ポニマイ(わかったようでわからない)」
 と言った。
『ヤボンスキー、スカザ、ルスキー、サムライ』
 この歌が坑内の作業員、日本人はもちろん、ルスキーたちの間でさえも、挨拶言葉のようになっていったのは、この日からだった。

16 ふたたび、ルナ

 その日、作業が終わってから足早に歩いていくと、エレベーターの昇降口近くにルナが立っていた。
 私を見るなり、
「ターシャ、おそかったね」
 と声をかけた。
「ダ(そうだ)」
 そう言いながら、ルナに近づいた。ルナは作業衣のポケットから袋を出して、私にくれた。ヒマワリの種が入っていた。適当に火が通してあり、食べやすい。香ばしく歯ざわりもいい。油っこい嫌味がないのだ。ヒマワリ油の原料である。このヒマワリから採ったマースロ(油)は、最高だった。ソ連では、多く生産されているようである。
 もう一つのポケットにむいたクルミがあるわ、と言って、ルナは布製の袋を取りだした。
「スパソーバ」とお礼を言ってから、ルナの顔を見た。
「ルナは、やっぱりクラシブイ(美しい)」
「うれしいわ」
 ルナは、素直によろこんだ。
 そのとき、背後から五、六人のソ連人の男たちがガヤガヤ言いながらやってきた。そのなかのひとりが言った。
「ヤボンスキー、この女ガラワホイニヤ(頭が悪い。日本風に言うと、クルクルパーと言うような意味である)」
 私は、即座に「ちがう」と言った。すると、別の男が、
「チベ(お前)も、その女とアジナーイ(同じのか)」
 と人さし指をこめかみのあたりに突き刺すように当てて、クルクルとまわした。私は、その男に向かってどなった。
「ヨボネブロウ!」
 よい言葉ではない。ろくでなしとか、駄目男とでも言うような意味らしい。ルスキーたちが怒るときによく使う。
 彼は怒ったようだ。
「チベ、イジシュダー(お前こっちへ来い)」
 大声でどなっていた。体を動かしたとき、ルナが上衣をひっぱった。「行くな」というのである。何をされるかわからないとルナは心配してくれたのだろう。
 ソ連人といっても、朝鮮系、蒙古系など、いろいろである。よく見ると、その男たちは、六人とも人種が違うらしい。ソ連では人種差別を許さないようだが、やはりいばっていたのは、スラブ系民族であるように思われた。
 にらみ合ったまま動かずにいると、エレベーターが上ってきた。彼等のグループは、ふたたびガヤガヤ言いながら、エレベーターに乗り込んだ。ルナは、彼等と行くのは嫌だと言ったが、「俺についてこい」とルナの手を引いてエレベーターへ飛び乗った。
 エレベーターのなかにいたのは、結局、男たち六人と私とルナだけだった。しかし、争いも起きず、数秒後には地上に着いた。地上は寒い。
 私はルナと別れると、ひとり事務所の二階にあるシャワー室に急いだ。
 数人の同志がルスキーたちにまじってシャワーをあびていた。裸姿でも、日本人は小柄なのですぐわかる。
 中には「自分はエスキモーだ」と言っている者もいた。確かめようはなかった、エスキモー人がいても不思議ではない。

17 弱音

 シャワーを浴びられたり、兵舎で入浴できたりするようになったのは、ソ連そのものに経済力がついたためか、それとも、捕虜の扱い何々という国際条約に基づくものか。私にはわからない。が、何はともあれ、この待遇の改善は、風呂好きな私たち日本人には、最高の幸せであった。
 他の収容所のことは明らかにされていないため、比較はできない。しかし、他の収容所から転送されてきた人たちの話では、アルチョム第十二収容所は待遇がいいらしい。上を見ればキリがない。下を見てもキリがない。「いいほうなのだ」と思えばいいのかもしれない。気持ちの持ちようだ。
 強制労働というけれど、出勤時、退勤時をふくめて九時間。実働は八時間だから、そんなにこき使われているわけでもない。「強制労働」という言葉は、無理に連れてこられて、好き、嫌いに関わらず作業をさせられるところだろう。自分の希望した仕事ができれば強制労働ではなくなるが、それは、できない。
 そこが、捕虜の捕虜たる所以。悲しくも切ないところである。
 では、敗戦国日本に帰ったらどうか。希望に満ちているのだろうか。
 たとえ、日本新聞の記事の半分が嘘だとしても、半分はほんとうだろう。日本国内も困っているのがわかる。働こうにも使ってもらえない。ヤミの商売をすれば捕まる。米等、生活物資もろくに手に入らない。さつまいも等で飢えをしのぐ風景や、戦争孤児が残飯をあさり盗みをする光景等が目に浮かぶ。
 ソ連も戦争の痛手から、少しは抜けだしたようだ。が、それにしても、市民はあまりにも貧しい。
 共産主義といえども、やはり、上層部の連中はうまくやっているのであろうか。
(民主主義に徹して、みんなをひっぱっていかなくてはならない)
 民主運動の先駆者としての自覚を持とうと思いながらも、こんな弱音を覚える私だった。
 こんなことでは駄目だ。弱音を吐いては駄目だ。私は、自分に鞭を打っては、はっと我にかえるのだった。
 そんなことが、時々あった。
 俺も日本人だ。いくらにほんが焦土nなっていようと、俺たちが守っていかなくてはならない。それには、一時も早く日本へ帰ることだ。じゃあ、どうすればいいのだ?
 体を壊して使い物にならなくなれば、ソ連は、俺たちを日本へ帰国させるかもしれない。いや、病気になってまで帰りたくない。どうせ変えるなら、元気な体で帰りたい。
 ところが、ソ連では、体の丈夫な日本人はとことん使う方針らしい。一方、たとえソ連で民主化運動を盛んに行なっても、日本で通用するだろうか。プロレタリアートの闘いをできるまでに日本が成長しいなければ、これも駄目であろう。
 とにかく、ソ連は、いろいろな手を使い、いろいろな名言で、日本人をたぶらかして仕事に励むようにしむけている。いくら馬鹿でも、そのくらいのことは読める。
 しかし、いくら腹でそう思っていても、正面きっては言い出せない。たまにジョークを交えてそのことを話すと、決まって、ソ連の人たちは、「ニエニエ(そうじゃない)」と否定する。スラブ人のずる賢いところである。不満と不安から焦燥感がつのり、絶望しそうな心と闘っていた時期であった。

18 人民裁判

 心に動揺のあったちょうどそのころ、私の身の上にとんだ「災難」がふりかかってきたのである。この災難としか言いようのない事件は、突如として起きた。
 ある日本人(名前は伏しておく)が、炭鉱の事務所脇にあるシャワー室で、十ルーブル紙幣を拾って猫ババしたことから、たいへんな事件になっていく。
 ソ連人Sは、北朝鮮系(現在の)出身者で、かつて日本領だったカラフトで日本軍の軍属をやっていたと自称する男である。彼は、もともと日本人を嫌っていたらしく、日本人を見る目が異様だった。
 まず、その男が、シャワー室でヤポンスキーに十ルーブル盗まれたと騒ぎだした。ほんとうはSの思い違いだったのだが、言いだした手前、「盗まれた」の一点張りだった。拾ったほうの日本人(Kとしておこう)は、珍しいから日本へ帰るときの土産にと、軽い気持ちで持っていったらしい。たとえ、そうであっても、拾った物を猫ババしたことは悪いことであるはずなのだ。それに彼は気づいていなかったようである。
 この件に関して、ソ連側は「日本人同士で人民裁判にかけて、Kの罪科を決めろ」と、再三、再四、要求してきた。
 その裁判の「裁判長」の役目が私にまわってきてしまったのである。
 法廷が開かれた。すったもんだの末、Kの罪は、相当重いものになってしまった。『重労働大隊移行を命じる』という判決である。重労働大隊と聞いただけでも、嫌な気分になる。作業は、森林の木材伐採ともいわれるし、また鉄道を敷く工事ともいわれていた。みな、噂でしか知らない。裁判長の私でさえ、その実態を知らなかった。
 いついなくなったのかもわからないまま、Kの姿がアルチョムの町から消えた。Kはもっと北の果てに連れていかれたのだろうか。
 人民裁判を終えて重荷をおろしたものの、私の心は、暗く閉ざさされていった。いくら民主運動のためとはいえ、同じ日本人を行方も知れないような旅に出してしまった。この非情さに、心がさいなまれた。
(もう、二度と、裁判長はごめんだ!)
 幾度、公開のため息をもらしただろう。

19 馬の耳に念仏

 収容所生活も、ふたたび生気を取り戻してきた。食事も米の飯になり、インスタントではあるが味噌汁も飲めるようになった。たまに出るオートミル(おかゆのように軟らかくした流動食)はすでにいまでは懐かしい思い出の食べ物となっていた。入所当時は、黒パンとこのオートミルだけの食生活だったからだ。
 それが、変われば変わるものだと思うほど、私たち捕虜にとってはこのうえもない生活になっていたのである。
 食生活もさることながら、日常の生活、作業上においても、捕虜に対する暴力もなく、和気あいあいのうちに日を送ってきた。
 作業、特に出炭量についてはうるさいが、これくらいのことは我慢できる。「馬の耳に念仏」だ。黙々と働いていればいい。ただ、ノルマが百パーセントに達しなければ、二・ラボータで、責任者がちょっと小言を言われる程度だ。
 作業が終われば自由時間。
 その中で、日本語版のマルクス・レーニン主義の分厚い本を、灯火の元親しむ(?)。たとえ、居眠りしていようとも、他から見れば、一生懸命勉強しているように見える。
 こんなふうだから、実のところ「共産主義」もわかったようなわからないようなものだった。一時の情熱は、すでに失っていた。
 日頃やっている民主運動、それが即、共産主義活動とつながっちるのであろうが、どうも実感がわいてこない。
 教宣活動に行くときは、三人および四人位で行く。すると、群衆心理も働いて、なんとか曲がりなりにも民主運動の核心に触れる話ができた。最初は気になったヤジの声も、もう気にならなくなっていた。
 このころから、民主運動のリーダーたちは、石炭の増産とあわせて、民主運動の徹底に力を入れた。そのため、反動的な人物は、ますますアルチョムから消されていった。日本に帰されたのか、あるいは、奥地にやられたのか。私たちにさえ、全くわからない。
 反動的人物が消えたことで、一層、民主運動が活発に行なわれた。
 それと同時に、ソ連の日本人に対する待遇も改善されてきたのが身にしみてわかる。賃金こそ取り上げられたが、その代わり、日常の生活に困らぬよう気を配ってくれているらしかった。
 収容所内には日本式浴場もできた。そこでは、汚れた体を清めるだけでhなく、一瞬、日本にいる気分にもなることができた。
 また、タバコや甘味料も一週間に一回くらい、配給があった。黒パンも量が多くなったし、たまにはべーろフレーバ(白パン)も食べられたし、スシ等が夕食をにぎわしてくれたりした。
 抑圧された「平和」が続く。

20 夏

 長い長い冬も終わり短い春が足早に過ぎ、ふたたび厚い夏がやってきた。
 念願のタバコの種を蒔いた。ヒマワリの種も蒔いた。ヒマワリの種も蒔いた。兵舎のまえの空き地は、またたく間に自家製の畑になっていった。試しに、水瓜の種も蒔いてみた。けっこう蔓ものびて黄色い花も咲いた。蝶々がやってきた。のどかな日和である。
 夏の陽ざしをじゅうぶん吸い込んで、タバコの葉もヒマワリも、みごとに大きくなっていった。肥料は自家製である。朝、起きたときや、作業から帰ったとき、誰はばかることなく、立ちションである。
 水瓜も小玉だが、いくつか実った。
 グループごとに耕作しているのだが、グループ以外の者が取りにくることもない。もし、そんなことがおきれば、また、人民裁判にかけられる。みんな、自覚している。
 グループが作った作物は、すべてグループの物になった。一つのグループは、七人~九人。ひとりひとり平等に分配した。共産主義を地で行くような分配方法である。
 タバコの葉を摘み、陰干しにして刻む。ぜんぶ共同作業である。それを、分配する。
 タバコを吸わない人は、タバコ好きの人にくれたり、他の人の不要な物(ヒマワリの種や水瓜等)と交換したりした。
 せっかく植えたトウモロコシは、消毒をしなかったので虫に食われていい物ができなかった。ルナにその話をしたら、彼女は笑った。そして、自分の家で作ったトウモロコシをたくさん持ってきてくれた。炭鉱で、みんなといっしょに食べた。ひとりに、二分の一本ずつわたるくらいあった。それこそ、一背負いも背負ってきてくれたのである。
 その代わり、ヒマワリの種を一キロ位、ルナにやった。私たちがやれる物は、そんな物しかない。ルナははじめ、家にたくさんあるからいらないと言っていたが、「ありがとう」と、少女らしく笑って受けとった。
 彼女のことをルスキーの男たちは、「日本人狂い」等と悪口を言っていた。彼女に迫ってふられた男が、腹いせにそんなデマを飛ばしたらしいのである。ルナは、その男を見ると逃げるようにした。蒙古系の男であるが、日本人よりも鼻ペシャで風体のあがらぬ男だった。額に切り傷の跡があって、ただでさえ恐ろしげに見える男であった。
 ルナは、炭鉱のおえらいさんの言うことをまじめに受けとめて、少しでもボタを減らそうとしてきた。ところが、ある日、
「出炭量が少なくて、二・ラボータの折り紙がつきそうだ」
 私が、ルナにぼやいたことがあった。
 その私の言葉が身にこたえたのか、それとも、日本人びいきになった自分の気持ちを素直に出したのか、とにかくルナの態度が変わってきた。
 居眠りをしたふりをしてボタを見逃したり、わざわざボタを拾ってベルトコンベアに乗せたりした。こうして、出炭量は、百パーセントにこそならなくても、二・ラボータにならないだけの量は稼ぐことができるようになった。ルナの「見逃し」のお陰で、三トンくらいは出炭量が増えた。私をはじめ作業員一同は、心から彼女に感謝した。ルナを、神様のようだという者さえいた。
 監督のミシャーも、内心よろこんでいたことだろう。彼だって、成績が上がることは大歓迎なのだ。が、そうかといって、ボタを入れるのもほどほどに、というのが正直な気持ちなのであろうと思われた。ミシャーからも、ルナにそんな話があったはずだ。
 しごく頭のいいルナのことである。絶対にヘマはしないと、私は信じていた。

21 シラミ

 穏やかな日常。しかし、一つ、大いに困ったことがあった。シラミ、ノミ、カ、ハエ、ダニ、それに南京虫等の害虫である。
 シラミは、日本全土に生息(?)していた虫である。満州から千島へ移るときも、私たちの肌のぬくもりの中で行動を共にした「分身」のような小虫だ。
 まだ家にいたころのことだ。
 シラミに食われてボリボリかいていると、親父やお袋がよくこんなことを言っていたのを覚えている。
「シラミは人間にたかるものであって、ノミは犬や猫にたかるものだ。シラミをだいじにしなくちゃバチがあたるぞ」
 そのころは反抗期で親たちに反発することが多かったが、こればかりは「ご無理、ごもっとも」と思っていた。
 軍隊に入隊するとき、せめてシラミのたかっていない物にと、サラの肌着に取り替えて家を出たのであるが、分身は、どこまでも分身であった。家のどこかにこぼれていたのがついたのか、習志野に向かう列車の中で、もう体がむずむずして痒くなってきた。
 気のせいかとも思ったのが、そうではなかった。新しいシャツの袖をそっとめくると、そこに、「分身」たちがすでにたむろしていた。
 人に気づかれないように、親指と親指の爪のあいだに挟んでつぶした。
 ブッ。
 小さな音がして、その瞬間、両方の親指の爪が真紅に染まった。あわてて持っていた手拭いでふきとったあと、ふと顔をあげると、ひとりの男と目があった。列車のドア近くの座席にいる国防色の服を着た、まだ若い男。同い年くらいに見えた。
 しばらくして、私は彼の座席のまえへ席を移した。声をかけると、
「習志野に行く」
 彼は、ちょっと寂しそうな顔をして応えた。
「戦車隊?」
「そうです!」
 彼の声がはずんだ。
 私たちは、互いに名のりあった。それから、うちとけて話をした。軍隊のことは、防衛上話兄弟のこと等、とめどなく言葉がほとばしり出て、いろいろな話題が交錯した。
 彼は、西条修二と名乗のり、私は、「三ツ屋浜の滝沢です」と名のった。
 西条君は、私の顔をしげしげと見ていたが、何か思い出したように、
「もしかしたら、君、理研にいたでしょう」と言った。
「うん、そうだけど。……どうして?」
 私は、まだ思い出せないでいた。
「そうか。ホラ、青年学校の対抗演習のとき、銃剣を突きつけて向かい合ったことがあるでしょう」
 ああ、と、私は彼の言葉でようやく思い出した。まだ、一年もたっていない出来事だが、ほんの五分くらいの出会いにすぎない。西条君の記憶力のよさに敬服した。
 ふたりの話はどんどん広がったが、最後はシラミの話になってしまった。彼も、背中の痒さをがまんしていたらしい。だから、私がシラミをつぶすしぐさを見て、「やってる、やってる」と思っていたらしい。
 よく見ると、自分たちだけでなく、紳士然とした人も、モンペ姿のご婦人までが同じような指の運動をやっている。
 ふたりで大笑いした。
 シラミは人間様にだけたかる虫であると言った、親父とお袋を思い出した。恥ずかしいことはないのだ。
 私と西条君のふたりは、一月十日、習志野(津田沼)の戦車二連隊外地要員として入隊した。それから二月十四日。戦車二連隊と道を一本隔てただけのところにあった野砲兵隊(中国方面に出動して空き兵舎になっていた)の兵舎へ移った。
 太平洋戦争たけなわの昭和十七年であった。西条君とは、満州、そして小樽までいっしょだったが、先発隊として小樽を出発した彼とは別れ別れになってしまった。(後日、わかったことだが、彼もぶじに復員していた。私よりも早かった。中千島から、まもなく、内地防衛のため、北海道に転進。そこで終戦を迎えたという)
 私は、習志野から北千島の果てまで、シラミ君といっしょだった。ソ連に抑留されても、シラミ君との縁は切れない。
 シラミは、氷水に一晩つけておいても死なない。アルチョムに来てから、ソ連のおえらいさまから、シラミ退治の命令が出たことがあった。沸騰した鍋の中で、衣類をぐつぐつ煮るのだ。防寒シャツの網の目の間で、何匹も死んでいるシラミ君を見て悲しんだものだ。
 ある者は、「ああ、血を分けた兄弟がこのざまだ。かわいそうに」と駄洒落をとばす。これという娯楽もない。新聞もない。そんな生活だから、シラミの膨れ上がった死骸さえ話題になった。悲しんだり、笑ったりと、けっこう、愉しませてもらったものだ。
 昭和二十一の夏ころまでには、このシラミの子孫たちも、アルチョムから姿を消した。

22 南京虫

 蚊は羽があって、どこへでも飛んで行ったり、どこからでもやってくる。幸いマラリアにはならなかったが、それでも、体力の弱っている者は、刺された場所が化膿したり熱を出す者もいた。
 蝿も小うるさい虫だ。万年床の藁布団には、ダニがうようよいる。そして、昼間は物陰に隠れていて、夜になるとこのこと出てきて血を吸っているのが、南京虫。この虫に食われるとかならず二個の赤い斑点が残るので、一目瞭然である。
 南京虫の場合、その活躍の時間がほとんど就寝中なので、吸血のようすを見ることは、なかなかできない。
 しかし、いつだったか、たった一度だけ見たことがある。その虫は、血を吸いすぎて動けなくなり、床板の上に転がっていた。不気味だった。
 私はこの憎たらしい虫を右足のかかとで踏みつぶした。シューッと、赤インクがはじけるように、血が床板をそめた。
(蚊は、産卵のために雌だけが人畜の血を吸うと聞いたけれど、南京虫もそうなのだろうか)
 ふと、そんなことを考えたものだ。栄養不足なのに、この上、血を吸われてはたまったものではない。
 南京虫退治のいい方法はないものか。
 部屋の壁をできるだけ白くして、早く発見する。虫が隠れそうな穴や隙間をなくす。また、彼等の嫌いな匂いは? 食べると死ぬような物は? いろいろなことを模索してみた。
 しかし、実際には何一つできなかった。
 大国ソ連には人を殺す大砲はあっても、虫を殺す薬剤がないようだ。結局、自分の身は自分で守らなければならない。しだいに、諦めの心境になっていった。
 半袖から出た私の二の腕を見て、ルナが笑ったことがある。
「ターシャ、虫にやられたね」
「俺は、こんな虫に負けないよ」
 言い返した私に、ルナが応えた。
「ターシャは、強いもの」
 そうだ。いつまで続くかわからないこの抑留生活を思えば、シラミや南京虫などどうということはない。友だちと思えばいいのだ。

23  視察

「明日、モスクワからえらい人が来るのよ」
 ルナが、瞳を輝かせて教えてくれた。
 ルナの話によると、どうやら陸軍中将の視察があるようだった。ルナは、はじめて会う憧れの「えらい軍人さん」について語った。
 凛々しい軍服姿にピカピカの勲章をつけてサーベルをガチャつかせ、皮の長靴をはいて馬に乗っている……。その、夢にまで見たえらい人を、明日は我が目で見ることができる。
 ルナの心は、少女らしく揺れていた。
 その気持ちは、私にもよく理解できた。私だって、かつて、似たような体験をしていたのであるから。
 少年のころ、『敵中横断三百里』(山中峯太郎著)という軍事小説の中の、建川中尉(後に、中将)に憧れた。当時の少年としては、ごく普通の憧れであった。
 自分の馬上姿を夢見ていた。そこで、二十歳の徴兵検査のときには、検査官の川上中佐に「騎兵になりたい」と希望を述べた。しかし、このとき、
「おまえは足が短いから、騎兵には向かない。背が低くてもよい戦車隊はどうか」と言われて、がっかりした。せめて一度、馬に乗ってみたかった。
 この話を聞いたルナは、「夢や憧れは、みんな、同じなのね」と笑いころげた。
 ちょうどそこへ監督のミシャーがやってきた。
「タキザーワ、セゴニヤ(明日)、モスクワから中将がくる。君たちの近況を視察するためらしい。落ち度のないように頼むよ。みんなにもスカザ―(伝えて)」
 ミシャーは、すぐに立ち去った。何となくせわしげだった。
 翌日。「珍客」、予定より三時間を過ぎてもまだ現れない。監督のミシャーは落ち着かないのだろう。右往左往していた。ルナも心配そうだった。
「憧れの人が来ないで、つまんないでしょう」私がからかうと、
「しらないっ!」
 少女らしくすねた。「ターシャの馬鹿っ」と言いながら、ベルトコンベアーに乗って流れてくる石炭のなかかかなり大きいボタ(バローダ)を一つ取り、私の足元へ投げつけた。当たりはしなかったが、私は足を両手で抱えて大袈裟に痛がってみせた。
「ごめん、ターシャ」
 ルナは、いまにも泣きそうな顔になった。
「ははは……」
 私は、両手をぱっと放した。
「ターシャの馬鹿」
 ルナは、こんどは小さいボタを投げてきた。そいつは、私の腹に命中してからコロンと落ちた。ルナはふたたびすねて、顔をそむけている。「バイバイ」と言ってから、私は切羽に向かった。
 とそのとき、背中にまたボタの一撃をくらった。ルナである。私はふりむきもせず、薄暗い坑道のなかを走りさった。
 切羽では、すでに作業員たちが一生懸命働いている。自分だけルナとふざけていたことを反省した。
 ラバーツイ(スコップ)をまるで機械のように動かしていた牧野が、その動きをやめた。
「中将さんは、まだ来ないかね」
 やはり、みんなもこの日の視察のことを気にしているのだろう。しかし、私にも確かなことは何もわからなかった。
 しばらくして、監督のミシャーがあたふたと切羽に駆け込んできた。ミシャーは、来客の到着を告げたが、その話が終わるか終わらないうちに、ミシャーの言葉通りだった。
 中将の名前は、はっきりとは覚えていない。「ワシリースキー」と言ったような気もするが、違うかもしれない。何でも、極東軍事司令官だとか。いろいろな噂が流れていたが、どれも正確な情報ではない。
 中将を案内していたのは、収容所所長のマルチンコ少佐と、グレゴリー・アルチョム炭鉱の炭坑長と副長、それに日本人通訳。計五人の一行である。
 監督のミシャーと組長の私が、炭鉱長に呼ばれた。中将は、やさしそうな目でふたりを迎えた。そして、通訳を通して、私たち日本人作業員のこと、特に、健康状態や食糧についてたずねた。話をしているうちに、なごやかな雰囲気となり、笑い声が出るようにまでなった。
 帰りぎわ、中将が私に言った。
「あなたたちはワイナプレンだから、刑が終わるまでソ連のためにがんばってください。スコーラ(近く)、ダモイ(帰国)ができるでしょう」
 ワイナプレン? ダモイ?
 黙って聞いていた私に中将は「サヨナラ」と日本語で言って、手をふった。
 一行が動き出したとき、思わぬ言葉が私の口から飛び出した。
「ふん、なに言ってんだい。捕虜だからがんばれ、だ? このヨッポイマーチ!」
 つぶやいた程度だったと思うが、中将が聞きつけてしまった。ふり返ったその顔に、さきほどまでの笑顔はなかった。
「チュオガワリ(何を言った)。もう一度言ってみろ」
 腰の拳銃を抜いて、私に近づいてくる。銃口は、私の胸倉をねらっていた。中将は、ほんきで怒ったらしい。私は、全身から血の気が引いていくのを感じた。
 とっさに、両腕を肩のあたりまで上げた。降参のスタイルだ。
 マルチンコ少佐と日本人通訳が、中将に向かってしきりに何かしきりに何かを言っている。早すぎてよくわからなかったが、聞きとれた単語をつなげて考えると、「この男はロシア語をよく知らない。だから、よい言葉も悪い言葉もいっしょにしてしまっているらしい」と、私を弁護してくれているようだった。
「そうだな、タキザーワ」
 マルチンコ少佐が、私を見た。
「ダ(はい)」
 思わず、そう答えた。
 思えば、中将が腹を立てるのも無理はなかった。「ヨッポイマーチ」とは、人を侮蔑する最高の悪口なのである。彼が物分かりの悪い人物だったら、私はもうこの世にいなかっただろう。収容所所長マルチンコ少佐や日本人通訳のすぐれた機転によって、私の命はまた続くことになった。
 (俺は、なんと幸運なやつだ)
 ふたりへの感謝とともに、自分の生命力の強さに感心し、半ばあきれた。
 視察団一行が坑内から出ていくと、作業員たちが、私のために「バンザイ」をしてくれた。
 そして、じつはこの俺も同じようなことがあったと話しはじめた。
 彼がドイツの捕虜だったころのことだという。ヒットラーの悪口を言って、ドイツの監視兵に袋叩きの目にあったらしい。
「いろいろあったんだねえ」
 たった今、自分が危機に遭ったことなど忘れてしまったかのように、私はミシャーの話に夢中に耳をかたむけた。
「おまえは、運のいい男だ。俺のように叩かれずにすんだし、パーンと拳銃で撃たれもしなかった。ほんとうは、いまごろ、カポータ(「落ちる」という意味。「命を落とす」に使われる俗語である)して、収容所の裏山で十字架を立てられていなければならなかったところだったのだ」
 ミシャーは、真剣なまなざしで言った。
「そうかもしれない。守護神のおかげかな。それとも、マイヨル(マルチンコ)のおかげかな」
大袈裟に言ったあと、そっと、ミシャーの手をにぎって、言いなおした。
「みんな、ミシャーのおかげだ」
 ふと、目頭が熱くなった。
「中畑亀太郎が落盤事故で死んだときも、ほんとうはタキザーワが死んだいたはずだ。二・ラボータが出て、事務所で二時間も説教を食わせられていたおかげで命拾いしたんだ」
 ミシャーは、過去のことまで言った。
 まだしゃべりたそうなミシャーをふりきって、私はトロッコ受けのほうへ歩きだした。

24 噂

 ルナが居眠りをしていた。
 私は小粒な石炭を一つ拾うと、ベルトコンベアーめがけて投げた。と同時に、私のヘルメットに何かがコツンとぶつかった。
 眠っていたはずのルナが、笑っている!
 ルナは遠くから歩いてくる私を見つけて、居眠りのふりをしたらしい。
「こいつ、悪いやつだ」
「悪いのはターシャでしょう。私に石炭投げたりして」
 ベルトコンベアーに投げたはずの石炭屑が、反動で跳ね上がりルナに当たってしまったようだ。しかし、ルナはむしろ嬉しそうだった。
「どうだった、将軍は?」
 ルナは質問には答えないで、しげしげと私の顔を見つめて言った。
「お化けかと思ったわ」
「どうして?」
 ルナは、また質問に答えない。ボタを取る手を休めて、ただ、笑いこけた。
「こいつ、ますます変なやつだ」
 訳がわからないまま、その場を離れた。
「帰りに話すわ」
 ルナの声を背中で聞いた。
 ア・ブラケ(だるま返し。石炭を積んだトロッコを線路に固定したまま引っくり返し、石炭を空ける場所)のところにやってくると、女性労働者が三人、おしゃべりに興じていた。
 もっぱら視察にきた将軍のことのようだった。そのうちのひとりが私を見ると、いきなり言った。
「ヤポン、生きてたの?」
(……? まさか、あのことがもう噂になっている?)
 私は無言のまま、さきほどの出来事を思い出していた。誰かが言いふらしたのだろう。そういえば、ルナのようすもへんだった。
 誰が? おしゃべりなやつもいるもんだ。
「セゴウニヤ(今日)、三十七坑道の出炭量は?」
 声をかけてきた女性ではなく、別の年増の女性に聞いた。平静を装っていたが、女たちの興味津々な視線には閉口した。
「まあ、ターシャ、足があるのね」
 誰かが言った。すると、もうひとりの黙っていた女性がクスっと笑った。
「おいおい、俺はお化けや幽霊じゃないよ」
 むきになって言うと三人で声をそろえて、
「もうちょっとでなろうとしたんでしょ」
 と言うやいなや、腹をかかえて笑いだした。
「出炭量は?」
 事務的な口調で、再度聞いた。
「今日は、二トンおまけしといたわ」
 ひとりが言った。彼女たちは、私が死なないですんだことを祝い、ないしょで出炭量を二トンも上乗せして報告してくれたという。
「ターシャも助かるし、私たちもノルマがあがるから、ちょうどいいでしょう」
 と最初に口を聞いた女性が言った。
「ほほ、そうですか。マダム、スパシーバ」そう言いながら、私は三人と次々に握手した。ノルマ百パーセントに対し、この日の戦果は大きい。『怪我の功名』とは、こういうことか。すぐ切羽に戻り、この出炭量を作業員たちに知らせた。
「ははは…。今日はがんばったね」
 みんな、よろこんで拍手を送った。もちろん、二トンもサバをよんでもらったことは言っていない。女たちとの固い約束なのだから。
 しかし、と私はいささか不安になった。
 局部的な場所で起きた事件が、もう流れているのである。民主運動の先駆けを行く者として、これでは駄目ではないか。ちょっとした言葉のあやとはいえ、ソ連の高級官にへんな言葉を使ったということは、私の心のどこかに、まだこの国を憎んでいる片鱗があるようでならない。
 こんなことが収容所内に噂として流れたら、もう、「民主運動」のためにみんなを説得することなどができないのではないだろうか。
 やがて、交替時間になり、二番方がドヤドヤ入ってきた。将軍の視察はどうだったかと、あれこれ質問をしている者もいた。しかし、さすがに私のことは話題にならなかった。少なからず、ホッとした。いずれ噂が立つと思うが、そのときはそのときである。ただ、民主運動のことだけが気になっていた。
 収容所帰ると、すぐに同志藤井をたずねた。藤井は、原稿を書いていた。近いうちに上演する劇のシナリオらしい。
「ヨッ、滝さん。何か、用かね」
 彼はペンを置いた。重苦しい私のようすに驚いたのか、藤井の顔に一瞬、緊張がはしった。
 じつはこれこれしかじかと坑内での出来事を話すと、しだいに藤井の表情がやわらいで、そのうち、笑いころげた。
「君もたいしたものだよ。ソ連の陸軍中将にそんなことを言ったのか! 君だけだきょ、そんなこと言えるのは。日本新聞にも載ってないね。同志諸戸に頼んで、三面記事にデカデカと出してもらおうか。アハハ…」
 この藤井の豪快さに比べ、自分がひどく気の弱い人間に思えた。
「同志滝さん、弱気にならず、自分の思ったとおりにやっていこうよ」
 藤井の言葉で、私の気持ちはぐっと楽になった。あと何年このアルチョムで暮らさなければならないのか見当もつかないが、確かにこんな弱気でいいはずがない。
 同志藤井の言葉を、心のなかで反芻するようにくりかえした。
「人の噂も七十五日」と言うけれど、私のこの事件は、局部的な場所で起きたこともあり、知らない人のほうが多かった。もちろん、藤井はそんな口の軽い男ではないし、噂も七十五日どころか三日もしたら消えてしまったようだ。もし、私が射殺でもされていたら、それこそ大きな噂になっていたに違いない。そして、ラーゲルの裏山に木の十字架を立てられ、永久にシベリアの土と化したであろう。

25 カレンダー

 夜が明けた東の空が、いやに赤い。すばらしい朝焼けだった。
 時計もない、カレンダーもない生活は、現在の日時さえわからないことがある。昨夕、藤井の部屋を訪れたとき、壁に何かが書いてあった。思い出してみる。微かな記憶だが、「8」と「21」の数字の走り書きだったような気がする。
 八月二十一日という意味だろうか。あれは、いつ書いたのだろう。一週間の作業交替だから……と、あれこれ逆算したりして考えた。
(とすると、今日は八月二十三日になるが)
 自信は、なかった。
 壁新聞には、めったに日時を入れないようにしていたので、曜日で日にちを数えなくてはならない。その壁新聞も、一週間毎日出すこともあるが、ちょっとくらいのニュースや出来事はまとめて出すこともある。そうなると、ますます日にちがわからなくなってしまうのである。カントラに行けば、一枚だけ手製のカレンダーがあるのだが、用もないのにのこのこと行けない。事務の女の子に頼んでも、いい返事はしてくれない。二・ラボータにでもなって、副長の所へでも呼ばれれば見ることができるのだが。
 事務所に入ったのは、中畑亀太郎君の事故死の日だった。まだ、厳しい冬の真っただ中。二月十九日ころである。
 あれから、いったい何日たつのかもわからない。綿密に計算しなければ答えが出そうにない。月に三回発行される『日本新聞』には、小さい字で日付が印刷されている。ところが、それさえも、運搬の関係でかなりずれていた。
 太陽の高度と日照時間を考えると、夏であることにはまちがいはないとは思うが、時間間隔はおろか、季節まであやふやだ。
(シベリアへきて、何度目の夏だろう)
 二年目? いや三年目?
 日時をはっきり知らせないのは、何か狙いがあるのだろうか。私には理解できなかった。
 一番目安になるのは、昨年のクリスマス・イブに御馳走を食べた日。しかし、頼りない記憶はカレンダーをめくるようなわけにはいかない。古い壁新聞を見ればと思っても、壁新聞の保管は十日もないのである。ずっと逆上って読むことなどできない。
 マルチンコ少佐の収容所所長の部屋には、あるかもしれない。でも、ほんとうに秘密を守るためにやっているとしたら、見せてはもらえないだろう。諦めが、私をおそう。
 それでも、必死に記憶の糸をたぐりよせてみた。
 千島からナホトカに着いたのは、日本の年号にして昭和二十年十二月三日。あれから、夏を二回迎えている。いや、待てよ。現在が二回目かもしれない。考えながら、混乱していく。
(シベリアぼけになったかな?)
 同志藤井のところへ行けばわかるだろうと思い、ふたたび彼を訪れた。彼は、まだペンを動かしていた。
「いよっ。同志滝、まだ何か用かね」
 彼は持っていたペンを右耳のところにはさむと、私を部屋の奥へとさそった。親しい間柄ではあったが、一応型にはまったお辞儀をした。
 お茶代わりにと、藤井はウォッカ(アルコール度の高いコウリャン酒)を、小さなコップに八分目ほどついでくれた。やけに喉が渇いていたので、ゴクッと飲んだ。
「ちょっと、強いよ」
 と藤井が注意しただけあって、かなりアルコール度の強い酒だ。喉がチリチリ焼けるように熱い。
 ウォッカの勢いもあって、恥も外聞もなく年月日を聞いた。
 藤井は小さな引き出しから手製のカレンダーを出した。表紙にはマル秘と書いてあった。
 彼の指は、八月二十三日を示した。

26 ペロシキ

 炭鉱の仕事は、一番方~三番方まである。一番方に比べ、二、三番方は、事故さえ起きなければ気が楽だ。だるま返しの女たちも、二、三番方になるとノルマを欲しがっているから、二トンか三トンはくれそうだし、ボタ見は年をとったおばさんか、同じ組の体の調子の悪い者がつくことになっているから、ルナとは違う。
 ルナも、この頃はかなり私たちに共鳴して、うまくやってくれるようになっていた。しかし、狡さからやっているのではない。ルナは「自分は利用されている」と思ったら、また、生まじめにボタ拾いに励むことだろう。
 その日、一番トロッコで切羽に行くと、三番方の作業員が眠そうな目をして三三五五切羽から出てきた。
 組長の岩崎さんが、「異常なし」と私へ申し送りをした。
 ハッパをかけたばかりらしく、白く臭い煙りが切羽や坑道にたちこめていた。それが太い送風管から音を立てて流れ出ていく。
 監督のミシャーが鼻歌まじりにやってきた。プーンとウォッカの匂い。よほど飲んできたらしい。「今日、給料が出たのだ」とご機嫌だ。ミシャーは、たくさんのペロシキ(小麦粉で作った桃の形をしたパンのような物)を買ってきて、それをみんなに配ってくれた。
 作業員みんなにわたる数だから、五十個はあっただろう。一個三ルーブルとして……。
 私はすばやく計算した。物価はそのままで、お金の値打ちが十分の一になったばかりである。つまり、ミシャーの給料も十分の一に減ったということだ。ミシャーは当時、一三〇〇ルーブルくらいもらっていたようであるが、価値は、一挙に、いままでの一三〇ルーブルと同じになってしまったことになる。
 他人の懐具合、真実のところはわかりかねたが、かなりの大盤ぶるまいだったことは確かである。その日は三人が休みだったので、作業員は四十二人。その他に、ルナ、ポーランド人(クリピッチ)の坑木組の作業員がひとり、そして、ミシャーと私。計四十六人。
 四個あまったのを、私とルナが二個ずつもらった。
 三個のペロシキを持って、私はアブラケまで歩いた。女たちが三人、アブラケの機械のそばで立ち話をしていた。以前、「まあ、ターシャ、足があるわ」と言った、あの年配の女性である。私は黙ってペロシキを三個、彼女たちに渡した。
「ターシャ、一トンでいい? それとも、二トン?」
 彼女たちは、そう言ってからペロシキを食べだした。まだ切羽では仕事がはじまっていないので、石炭はこない。彼女たちにとっては息抜きにはもってこいの時間であった。
(ペロシキ三個で、二トン!)
 女たちがペロシキをうまそうに食べるので、惜しい気になったが、やせがまんした。
 帰りにルナの前を通ると、ルナは、ペロシキを一個私にさしだした。まるで、私がアブラケに行って、ペロシキと石炭を交換してきたことを見抜いているかのようだった。
 ルナは、私が中将に撃たれそうになったときの話を聞こうと思っていたが、やめたという。私が気を悪くすると思ったらしい。
 少しルナと話をして、切羽に入った。
 ガスはもう抜けて、作業がはじまっていた。

27 小樽時代

 作業員の上田が、
「今日は何トン仕入れました?」
とすっとんきょうな声で言った。
「二トンかな」
 私は、右手の人差し指と中指を立てた。
「滝さんは、女をたぶらかすのがうまいからなあ。ところで、ルナのほうは?」
 上田は、よろこびを隠せない表情でからかってきた。
「ルナ? 彼女は俺の妹さ。このごろは、あの娘もボタを見逃してくれるようになったから助かるよ」
 私は、くったくなく言った。
「滝さんの人徳だよ。神様がついているんだ。中畑君のときも、中将のときも、みんな、神様が助けてくれたんだよ。俺だったら、あのとき、中将にやられていたよ」
 上田は、しみじみと私を見た。
 この上田は満州に私たちよりも半年おそく入隊した兵技兵だった。
 小樽の神田鳶蔵さんの家に投宿したときからの戦友だった。小樽から一番最後の船団で千島に向かった仲間である。私の所属していた高石隊が小樽を出港した三月七日か、八日のことだった。上田、石田、牧野、矢野等と私は、高石隊から離れ、第五中隊山本隊の指揮下に入り、小樽駅の車電区で戦車のバッテリーの充電を命令された。
 私と上田はかつて、電気自動車のバッテリーを充電していた。各中隊の戦車や自動車側等のいろいろなバッテリーの充電を続けていたのである。
 一中隊、二中隊、三中隊、四中隊、そして、五中隊(高石隊)と六中隊が、あいついで小樽に着いた。昭和十九年二月二十九日(この年は、うるう年)であった。それから、三月一日と二日に神田家にお世話になり、それからずっと、旧小樽商業学校(現小樽商科大学)のところに臨時の部隊を設立した。
 私たち五名は、そこから小樽駅の充電室に通勤していた。
 釧路駅の駅長をしていた神田鳶蔵さんは、週末に家に帰ってくるたびに土産を買ってきてくれた。みんなにではなく、私にだけである。三日くらしか顔を合せなかった神田さんの娘、和子(当時十五歳)がなぜか私のことを好きになったのだと、妹の千代子(当時十歳)の口から聞いたらしい。
 休日に神田家へ遊びにいったおり、神田家のルーツを知った。先祖は新潟県(現、巻町)の出身だというのだった。北海道開発の屯田兵としての入植だという。奥さんのスエさんが教えてくれた。スエさんは、当時五十歳くらいだった。私のことを気に入ったみたいで、「戦争が終わったら、うちの和子をもらってください」とほんきで言った。
「お言葉はありがたいのですが、私の行きさきは闇のなかです。戦死するかもしれません」
 そんな言葉とはうらはらに、私は嬉しくてしかたがなかった。この戦争さえ終わってくれればと内心思った。しかし一方では、「滝、女々しいぞ」と、自分を叱っていた。
「和子は、どうやら滝さんのことが好きらしいのですよ」
 スエさんは、なおもその話を続けた。
「北海道に住むなら仕事も世話すると、うちの長男が言っているのよ」
 そうまで言ってくれた。それでも、私はどうすることもできない身であった。
「そうですか」
 私は、それくらいしか言えなかった。あとの思いは言葉にすることができなかった。
 スエさんは私にお茶をすすめながら、なおも娘の話をした。
「滝さんがうちの和子のことを嫌いならしかたないけど」
 それから、「これ、にしんの砂糖漬けよ」と言って、茶色っぽいものを出した。私は、北海道にはまだ砂糖があるのかな、もう日本も物資がなくなるころなのにと思った。
 にしんの砂糖漬けは、薄味ににしんの油の濃さがなじんでいておいしかった。遠慮なくもう一切れごちそうになった。行儀の悪いところを見せて娘の話をやめさせようと思い、あけっ広げなふるまいに出たのだが、かえってそのことがスエさんに気にいられてしまったようだ。
 夕方五時ごろ、和子さんが帰ってきた。近くの工場に働きに出ているとのことだった。はじめて会ったとき、なんてきれいな娘さんだろうと思ったのは、私だけではない。同宿した上田と石田もそう言っていた。この日、またしみじみと見た。
「いらっしゃい」
 和子は、良家の娘らしく、ていねいにお辞儀をした。
「どうも。お帰りなさい。おじゃましています」
 私は、いつになくていねいな言葉を返した。
(俺もへんだ)
 心の中でそうつぶやいた。そのとたん、なんだか顔がほてってきた。
「まあ滝さん、のぼせているんじゃない。顔が赤いわ」
 スエさんが、私の心を読みとったようだった。「どうして、和子さんは私のような者を好きなのですか?」と、腹を割って聞いてみたかった。
 外出時間の門限が迫っていた。連隊までは五分とかからないが、途中で事故にでもなるといけないので、早めに退散することにした。
 兵舎に戻ると、上田も戻っていた。「滝さん、あそこに行っていたのか?」と、上田は、なにもかも知っているというふうに言った。彼は帰るときに、わざわざ神田さんの前を通ってきたのだと言う。どうやら、上田は和子のことが好きになっているらしい。

28 出航

 上田と話しながら、いつのまにか、小樽時代のことを思い出していた。
 あれは、小樽に移駐してから三か月近くになろうとしていたころだった。
 昭和十九年(一九四四年)五月十五日の朝のことだった。突然、第五中隊に乗船命令が出た。住民たちには秘密にという軍の命令。
 その日まで、中隊でも誰も知らなかったくらいだ。船団は、4せきの小さな船である。船団の先頭には天領丸、あとは名もないような五百トンたらずの鉛船だった。いずれも、日露漁業かどこかで使っていた徴用船なのである。
 天領丸は三千トンにも満たない船だが、これだけは砕氷船である。五月とはいえ、オホーツクの海には流氷が流れているからだ。
 早朝、こっそりと出航したので小樽の人たちは気がつかなったようで、誰ひとり、港に見送りにくる者もなかった。港湾関係の人たちは、軍事秘密を守る。口が固いのだ。
 それでも、アメリカやソ連のスパイの目があった。このときも、アメリカ海軍の潜水艦にねらわれたのは、出航してから十分もたたぬ間だった。
 魚雷が白い筋とあわを残して走っていく。運よく船団はぶじだった。すぐに、青森県大湊要港(大湊は、現在のむつ市)に避難した。そこで何日過ごしたのか、記憶にない。四日~七日間である。運よく敵の潜水艦にあわなかった。船足は遅い。十三ノットくらい。
 なにかのはずみに、流氷の中に入った。流氷の中は潜水艦の恐怖が少なくなるが、流氷との戦いがはじまる。
 バラムシル島に上陸したのは、六月十日ころだったと思う。六日もたたない間に戦車隊の基地と飛行隊の基地がアメリカの第九艦隊に艦砲射撃を受けた。戦車隊(第五中隊)では、一名戦死した。
 戦死した兵士は、一番前方にあった私のタコツボ(敵弾等から身を守るために各人が自分の体に合わせて掘った穴である)に入った。入るタコツボのなくなった私は、ずっと後方に一個だけ残っていたので、私はそのタコツボへ身を隠した。
 私のタコツボに入った兵士は、砲弾の落下と炸裂により、土砂のしたじきになったのだ。少隊長も中隊長も、私が死んだと思ったそうである。私は、別のタコツボに入ったおかげで命拾いをしたわけだ。
 このときの艦砲射撃で陸軍、海軍の飛行機が数十機破壊された。それを期に、一機だけ残して全機が内地防衛のためといって、飛び去ってしまった。
 その後、戦車隊は主力の駐屯している占守島に移駐したのである。六月半ば過ぎ、サイパン島が玉砕したとの報が入った。
 敗戦の色濃い千島にも、最後の輸送船が届いた。木造船であった。少々の食糧と軍事郵便があった。

29 手紙

 (あれから、もう三年ちかくたつのか……)
 最後の輸送船となった古い木造船を思い出しているときだった。思いがけない一通の軍事郵便が、私にとどいた。
 小樽の神田和子からだった。
『滝さん、黙って行ったのね。私も、七月には十六歳になります。それから、あなたは、もうすぐお父さんになります』
 幕舎のほの暗い魚油(魚類の油)のランプの明かりに浮かび上がった最後の文字に、私の目はくぎづけになった。
(あなたはもうすぐお父さんになります!)
 そばでごろ寝をしていた上田が、黙って私の手紙を横取りすると、何回も何回も読み直していた。
「滝さん、おまえはすみにおけんやつだな。お父さんになるとはどういうことだ?」
 上田は、嫉妬の目を向けた。
「うん。俺にもわからん。彼女の少女らしい憧れがこんなことを書かせたのかもしれない」
「言いのがれはできんよ」
「信用してもらえなければ仕方ないよ」
 私は、ちからなく言った。
 上田は、その手紙をランプの火に近づけた。わら紙のような便箋が二枚と封筒がメラメラと燃え、やがて、灰になった。
 上田は、私を信用してくれた。
 シベリアに来てから、上田も、ルナの顔の上に神田和子の顔を重ねていたらしい。

30 不発弾

 作業の交替近くになったころ、久しぶりにルナの母親が坑内にやってきた。
「ズドラスチェ」
男の声かと思うほど、しゃがれた声を背中に受けた。
「マダム、久しぶりだね。このごろ、顔を見せなかったが、バルノイ(病気だったの)?」
「いや、他の坑道に行っていたのよ」
 ルナの母親は、いつものように元気だった。突き当たりの切羽には、石炭がまだあった。ブリ(ドリル)をもんで、二十本ほど、穴をあけてあった。体調をくずしている若年の牧野がダイナマイトをつめたあとを粘土でふさぐ。いわば、蓋をするのである。
 牧野が運んできた粘土を手に持って、「今日のはちょっと軟らかい」と私に言った。私はマダムにさからわなかった。
 マダムは、粘土を棒状にして炭粉の上でゴロゴロと転がすようにした。いくぶん、それで硬くなったようだ。
 準備ができると、電線を二十個、ダイナマイトの信管につないでから、作業員に退避するよう、声をかけた。皆は、安全なところへ分散した。
 ドドドドド……。
 白い煙りが立ちあがった。マダムは、おもい鞄を肩にかけると、
「不発が二本あるから、気をつけて」
と言って、立ち去った。煙りの充満している切羽に、送風機の太い送風管から冷たい空気が流れこみ、みるみるうちに切羽から煙りが消えていった。よく注意して見ると、マダムが言ったとおり、不発が二本あった。
 電気ハッパは、ほとんど同時に爆発するのだ。その衝撃で取りつけが少しでも悪かったり、粘土の硬さが弱いと、どうしても不発になる可能性が強かった。二十本ものダイナマイトがほとんど同時に爆発したのに、「二本の不発がある」と言い切ったマダムの自信をすごいと思ったものである。

31 政治犯

 いつもせっかちな監督のミシャーが、その日にかぎっておとなしかった。なにか、悩みごとのある顔だった。
「カクジラ?(どうした)」
 私はミシャーにたずねた。
「ガラツ、バルノイ(頭がいたい)」
 元気のない弱々しい声が返ってきた。ほんとうに頭が痛いのかと思ったら、ほかの心配ごとのようだった。じつは、グルージアの村に住んでいる母親からの手紙で、父親が亡くなったという知らせを受けたのだという。シベリアからグルージア共和国まではずいぶんと離れている。たとえ、行くにしてもたいへんな時間かかる。しかし、それだけではない。ミシャーは、炭鉱の監督とはいえ、「政治犯」レッテルを貼られているため、何があっても家には帰れないらしいのである。
 刑を終えるまであと三年あるのだと、いつかミシャーが言っていたのを思い出した。
 ミシャーの年齢を誰も知らない。「二十八歳か?」と聞けば、「そうだ」と返事をするし、「三十歳か?」と聞いても、「そうだ」と言う。年齢を知られなくないのだろうか。日本では女性がそうだが、ソ連では男性までそうなのだろうかとも考えた。
 ルナが、「私、十七歳よ」とあっさり言ったのは彼女の若さのためであり、例外だろう。
 ミシャーは、浮かぬ顔で、電車通りに出ていった。いつものように、アブラケに出炭量を見に行ったようだ。心配ごとがあっても、さすが監督である。責任を忘れてはいない。
 私は煙のすっかり抜け切った切羽に行き、不発のダイナマイトを炭壁から抜き取ると、危険のないように処置をした。腰をおろして休んでいる作業員たちに作業をするよう命令して、アブラケに行ってみた。
 ミシャーはいなかった。
 アブラケのマダムたちの話では、地上のカントラに行き、看護婦のところに薬をもらいに行くと言っていたとのことだった。黙って行くようなミシャーではなかったのに。そう思うと、いっそうミシャーの心のうちの苦しみをのぞいたような気になった。いや、ほんとうに頭が痛むのだろう。
 私はマダムたちに、現在までの出炭量を聞いた。一番年かさのマダムが、「ブルガジル(監督)」と呼びかけた。そして、
「今日も二トン入れておくよ。六十五トン。あと、四トンもあればオーケー。三十七坑道は百パーセントだよ。ハハハハハ……」
 と言って、笑いこけた。
「スパシーバ」
 三人にお礼を言ってから私は切羽に帰ったが、ミシャーの姿は、ここにもなかった。

32 母の年齢

 深夜番になったある日、私は、出勤簿をカントラに持っていった。
「今日は、日付記入をしてないのだが」
 男の事務員にさりげなく言った。運がよければ、月日を教えてもらえるかもしれないと思ったのだが、それは甘い考えだったようだ。
 彼は、笑顔で答えた。
「いいですよ、今までどおりで。曜日と番方だけ入れてあれば、日付はこちらで入れます」
 笑顔なのは、私がさも知らないふりをして聞いたためであろう。ことさら日付を聞き出そうとすれば、たちまち怪しまれるにちがいなかった。
(やっぱり、そうだったのか!)
 炭鉱に入って二年は過ぎたと思うのに、一日も月日を書いたことがない。書いて提出するのは、作業員の出欠と曜日と番方だけ。
 日付を入れたような錯覚もあるのだが、それは、たまに見る日本新聞の日付であり、正確なものではない。日本新聞は月に三回位の配布だから、事実はわからない。
 同志藤井から聞いた年月日をもとに、古紙に日付を書き連ねてきたが、ときには抜けたりする。すると、逆算して考え直すわけだが、それがたいへんなのである。
 日本式に「昭和二十二年二月十九日」と書きはじめて、かれこれ一か月はたった。シベリアは極寒の中であった。ラーゲルから炭鉱まで約二キロの道のりであるが、よくもこりずに歩き続けたもんである。
 いつ日本に帰れるのかの当てさえなく、四月に入っても寒い日の連続であった。
 坑内では寒さ知らずであるが、中番と深夜番はルナがいない。そのせいか、作業員たちはさびしそうな顔をする。私もかわいい妹のようなルナが見えないと、ちょっと落ち込んでしまう。上田もそうらしい。
 ルナの代わりに、一番年の若い牧野がボタを見ていた。「ボタを採る」というより、見ていると言ったほうが当てはまる。しかも、コックリコックリ夜船をこいでいるほうが多い。牧野は、「ボタも石炭のうちだ」と、いつもうそぶいていた。たしかに、牧野がボタ選びについたときは、ルナの時よりも出炭量が二トンは増える。しかし、それは単にボタを見逃しているからにすぎない。
 やがて、日勤がやってきてルナに会えるようになると、ふたたび、みんなの顔が生き生きして見えた。
 ルナは、厚いシューバーのポケットから、新聞紙で作った袋に入れた松の実を出し、
「みんなにもやって」
 と、私にくれた。
 私は、作業員たちの上衣のポケットの中に松の実を一つかみずつ入れて歩いた。
「ルナちゃんに、よろしく」
 上田のふざけた言葉に笑いが起こった。
 レスタックの前後運動で石炭がクックッと前へ進んでいく。
 レスタックのきしむ音がうるさい。レスタックをつっているワイヤが切れるかと思うほど、石炭が山のようになって流れる。
 あと二時間もすれば交替、というころだった。私は、次にハッパをかける切羽にブリ(キリ)をもむ作業に取りかかった。穴を二十二個開けた。
 終わって汗をふいていると、ルナの母親が、相変わらず元気な声を出して入ってきた。牧野が粘土を持ってきた。
「サルダーテ、セゴーニヤ(兵士よ、今日はよく練っているあるかね)」
 ルナの母親が聞いた。牧野が大きな声で答える。
「ハラショ!」
「ハラショ」
 おうむ返しのような返事がルナの母親からあった。しばらくの間、牧野が持ってきた粘土を指の先で押していたが、「今日のはよくできているね。ありがとう」と言った。牧野は嬉しそうな顔をした。
 いつの間にか、ルナがいた。やたらに職場を離れたらだめだと、ルナは母親にきつく叱られた。
「ハラショ、ミシャーがいる」
 ルナは、母親に用があると言って、ちょっとの間、ミシャーにボタを見てもらうことにしてきたそうである。ルナの母親は、納得したようだった。
「お母さん、今日はお母さんの誕生日でしょう。いくつになったっけ?」
 ルナはそう聞いていた。
「ルナは、私と二十歳ちがうのよ」
 母親は、そんなふうに答えた。
 ルナの母親は、二十歳の時にルナを産んだことになる。つまり、三十七歳というわけだ。が、そのわりには老けて見えた。四十二、三歳かと思っていた。夫を亡くし、女手ひとつでやってきたためであろうか。化粧っけもなく、「女」を感じさせない。
 ルナは退勤後、炭鉱のバザールで買い物をして帰る予定だと言った。十七歳のルナがどんな料理をするのか、考えただけでも楽しくなる。作業員たちみんなが、そう思ったにちがいない。口にこそ出さなかったが。
 ルナが自分の職場へ戻ると、私は、自分の母親のことや父親のことを考えた。どうなっているのか見当もつかない。日本のことを考え出したら、父母兄弟たちのことが心配になってきた。私と三十一歳違う母は、数え年で五十七歳にもなる。しかし、それでも、私の母のほうがおそらくルナの母親よりも若く見えるだろう。ああ、母よ!
 しばらくの間、母や父や兄弟たちと空想の世界ですごした。

33 ダモイ

 この日、組の中に異変が起きた。
 思いがけない「ダモイ」だった。
 三十七坑道から、各番方三名ずつ、計九名のダモイ命令である。
 私の組からは、上田、草薙、そして伊藤の三名。いずれも、組の中では重要な作業についていた者ばかりである。
「へんだ。ダモイだななどといって、他のラーゲルに移すのかもしれない」
 私は、素直によろこべなかった。疑問の理由はかんたんだ。いままでダモイといえば、病人か怪我人だった。それが、今回は健康でしかも重要な作業についている者ばかり選んでいる。その理由がわからなかったからである。
 他の組の人たちもそうだった。炭鉱全体では、百人はいただろう。
 上田はりっぱな技術屋だったし、草薙も伊藤も、はじめからウインチ(巻き上げ機)係をしてきたキャリアの持ち主である。ウインチ係の仕事は、マシーナ(通常、機械や電車のこと)で運んできた空のトロッコ(空トロ)を連結して、一度に何台もベルトコンベアの石炭受けまで巻き上げたり、石炭の入ったトロッコ(身ドロ)を電車の引き込み線まで出してやる重要な作業なのである。
 もちろん、誰にでもすぐにできる仕事ではない。そのために、伊藤か草薙が週休のときは、助手として誰かが作業をしている。それらの者たちが、見よう見まねでできることとは思うが。それにしても、一度にふたりのベテランを失うことはショックだった。
 伊藤と草薙は満州から来た、いわば、アルチョム第十二ラーゲルの先住者である。ふたりとも秋田県南部地方の出身であった。見送りもできない、さびしい別れであった。

34 採炭機械

 日勤最後の日だった。
 坑内に入る切羽をのぞくと、深夜番の組長岩崎が、
「滝さん、こんど、切羽にへんなものが入ってきたぞ」
 と言って、私を案内してくれた。
 切羽のサイドにある避難場所に、ガマ虫に似たへんてこな機械がおいてあった。日勤から使うのだ岩崎が言った。
「誰が使うのだろう?」
 私は珍しいその機械にさわってみた。
「なにしろ、地上からさっき降りてきなすったばかりで」
 新潟県下越地方の方言丸だしで、岩崎がしゃべった。リモコン操作らしく、ボタン様のスイッチが七つくらいついていた。横文字である。ロシア語でもない。英語でもない。一か所だけ判読できた。文字の組み合わせから「ゲルマン」と読めた。
 ゲルマンとはドイツのことだ。そうか、これは、ドイツからぶんどってきたやつだ。私とっさにそう思った。
 もう一度、ボタン様のスイッチをよく見た。1から7までの番号がついていた。
 1のボタンを押すと、赤いランプがついた。2のボタンを押すと、いきなり機械が前進。それほど速くはない。まあ、「亀さん」といったところだ。
 岩崎組の作業員と、入坑してきた私の組の作業員が、切羽せましと集まってきた。
 私は、続けて3のボタンを押した。バックである。4のボタンは機械の腕をガマ虫の口先の触覚のように広げたり、つぼめたりすることができる。
 そこへ、岩崎方の監督と私の方の監督ミシャーが、顔を出した。
「タキザーワ、ポニマイ?」
 ミシャーは、ドイツの炭鉱で働かせたことがあるが、こんな機械は見たことがないと言った。岩崎組の監督イワノヴィッチがブルガジル(組長)、もっとやってみてくれ」と言った。
 5のボタンを押すと、前進後退。そして、さきほど4のボタンを押したときに左右に開いたり閉じたりしていた触覚様のものが、ピタッと合わさり、槍かノミのようになって石炭の壁にぶつかる。そのたびに、石炭の壁がくずれる。
 6のボタンを押すと左右斜めに、しかも交互に前進後退をやる。7のボタンを押すと、もとにもどって止まった。
「こりゃあいいや!」
 見物していた人びとがどっと笑った。
 三十七坑道に配置された奇妙な機械を最初に使った私は、ついに、この機械の担当者になるハメになった。いずれは誰かにしてもらわなければと思ったが、しばらくは私が使うことにした。巻き上げ機のほうは、副組長の阿比留にやってもらう。
 ふたりでしていた仕事をひとりでするのはたいへんだと思ったが、機械採炭が軌道にのったら、採炭作りをひとり減らして、巻き上げ機のほうに回ってもらうことにして、阿比留を納得させた。阿比留武は、長崎県対馬の出身で、満州から連行されたと言っていた。彼のことは、それくらいしかわからない。年齢は、私より一つくらい下らしい。

35 増員

 やがて、5名の増員があった。
 上田たちが去ってから、まだ一週間もたっていなかった。
 噂では、各収容所から集められ、このアルチョム第十二収容所にやってきたらしい。ある者は、ハバロフスク、ある者はイルクーツク、またある者はモスクワ近郊、とまちまちだった。
 ラーゲルは、急ににぎやかさを取り戻したようである。こうした事実から、上田たちもダモイではなく、どこかのラーゲルに移されたという思いがいっそう強くなった。ほんとうのダモイならばいいが、寒さの厳しいシベリアに移されたという思いがいっそう強くなった。ほんとうのダモイならばいいが、寒さの厳しいシベリア奥地で材木の切り出し作業等をしているのではないだろうか。心配になるが、どうすることもできない。
 新しく入所した者の話では、前のラーゲルでは、木材の搬出作業をしていたとのことである。ある日、どこからか、数人の日本人とポーランド人がやってきた。そうしたら、こんどは自分たちが出る番になり、どこへやられるか不安だったと話した。
 彼は元軍属でカラフト(今のサハリン)にいたという。日本新聞等で東京がかなりやられていることを知って、「東京へは帰りたくない」とポツンともらしたのが印象的だった。
 私はドイツ製(?)の珍しい採炭機械『キールカッター』にこって、お遊びのつもりで一週間くらい、猛練習をした。おかげで、その機械にも慣れてきた。慣れがきたときに一番こわいのは、怪我である。用心深い性格のつもりではあったが、あるとき、前進と後退を間違えて坑木にぶつけてしまったことがあった。幸い、坑木がずれただけですんだが、人にぶつかっていたら大事故になるところだった。みんなは私の慣れない手つきの運転ぶりを見て、遠ざかっていてくれたのである。順調に働けば、人力の何十倍もの仕事量をこなす。一つの切羽が終了すると、次の切羽へと作業は進む。
 他の坑道から、何人かが見学に来た。「自分に使わせてくれ」と頼むソ連人もいた。私はもし事故でも起こされてはと思い、心を鬼にして断った。すると、その男は、「ヨボネブロー!」と悪態をつき、私に向かってツバを吐き捨てた。ぼんやりと、将軍に拳銃を向けられた日のことを思い出した。あのときの将軍のくやしさを理解した気がする。

36 時計

 坑内の薄暗い作業場は、年月を忘れさせてしまう。誰もがその日の年月日をはっきり言えない。まして、時間まで正確にわかる者はいない。電車の運転手が、たまたま時計を持っていた。大きな腕時計である。目覚まし時計を腕につけているかと思うほど大きい。
 それでも、彼は「時計を持っている」と自慢していた。だから、彼に会ったときだけは曲がりなりにも時間がわかるのである。たとえ、遅れていようと進んでいようと、それを頼りにするしかなかった。
(私がイワンにやった腕時計はどうなっただろう。イワンのやつ、いま、どうしているのかな? あれから、三年近くになる)
 故障して部品がなくて動かなくなって、ブラサイ(投げた)か? それとも、動かなくても時計だとばかりに、アクセサリーのつもりで持っているだろうか。
 電車の運転手に時間を聞くたびに、私はふと、かつて出会ったソ連人のイワンを思い出すのであった。イワンのおどけた顔が思い出される。ずっと、忘れていたことだ。
 きっと、イワンも私のことを忘れていることだろう。
(あんなやつに時計をやらなければよかった)
そう思うあとから、イワンの人なつっこい顔が浮かぶ。いや、私がイワンを忘れていたのだ。イワンだって、何かのきっかけで時々は思い出していてくれるだろう。
 私は、自問自答した。
 イワンの青い瞳が、私の前に現れた。
『ズラスチ、タキザーワ』
彼は手をさしのべてきた。私も右手を出した。イワンの手が消える。幻だったのだ。
「ハハハ……。ばか!」
 おかしくて、やがて、かしくなった。

37 昭和二十三年

 新しい入所者は、いつの間にか姿を消す。移動が激しい。きっと、何かが起きているのだ。ダモイ? 人員の入れ替え? それとも……?
 私だけではなく、みんなが考えていた。民主運動のリーダー藤井すら、「ソ連のやることがまるっきり理解できない」とぼやくようになった。
 二月、三月が過ぎた。どうやら四月に入ったようである。四月といっても、シベリアはまだまだ冬である。雪こそなかったが、朝晩の寒さは体にきつい。
 この日も、一番方で坑内に入った。厚い雲の裂け目から覗いた太陽は、北国にも春を告げているようだった。いつもの勘で、八時二十分くらいとにらんでいた。
 三十七坑道まで、かなりある。暗闇に近い坑内だから、よけい遠く感じるのかもしれない。ちょうど、ルナの前を通る。
「ズドラスチェ」
 ルナは、ばかていねいに挨拶をしていから、
「イジシュダー(こっちへきて)」
 と、人さし指を曲げて、私を呼んだ。
「カクジラ」
 近づくルナは、じっと私は見つめた。
(ターシャ、いい話をおしえるよ)
 ルナの表情が、そう言っている。
「ターシャ、ヤポンスキー、フシヨ、トウキョウ、ハジチダモイ。(滝さん、日本人は全部、東京へ帰るんだって)スターリン、スカザ―(スターリンの命令よ)」
 ルナは、一気に話した。
「それ、ほんとうか? ルナはいままで嘘をついたことがないから信用するけど、話が話だからな」
 私は、ルナの話を半信半疑で聞いていた。
「ぜったい、間違いない。私のママが教えてくれたんだもの。ママの話はほんとうよ」
「うん、そうか。ルナのママも嘘をつかない人だからな」
 私は、「あとでまた聞く」と言い残して切羽に向かった。監督のミシャーが、作業員たちになにやら話していた。ミシャーは、私を見るなり、言った。
「早かったな。いま、いい話をしていたところだ。こっちへ来いよ」
 ミシャーの話は、やはり、ダモイのことだった。まだ、日はいつのことかわからないが、他の収容所から人員が来ることがわかれば、すぐ帰国させるという。ミシャーは、涙声になった。
「もうすぐ日本へ帰れるのだから、体に気をつけて。もう少しの間、がんばってください」
 いつものミシャーとはちがった、しみじみとしたものだった。
 ずっとだまされてきた「ダモイ」。しかし、この日のみんなの姿は晴れ晴れとしていた。こんどこそはと、信じたからだろう。
 それからは、よるとさわると「ダモイ」の話でもちきりになった。まるで、合い言葉か挨拶言葉のようであった。
 帰国への希望がふくらんでいく。
 しかし、その楽しいダモイの話が、日がたつにつれて消えていった。
(やっぱり、嘘だったんだ!)
 みんな、がっかりした。中にはやけを起こしている者もいた。私は、どうなぐさめたらいいのか、その術を見出せなかった。ミシャーまでが、無口になってしまった。私たちをよろこばせた手前、ミシャーも辛かったに違いない。ルナだけが、「私を信じてちょうだい」と、甘い声でささやいた。

38 ルナの誕生日

 六月十日の朝。ルナが、エレベーターの入口に立って私を待っていた。
 彼女は、六月十二日が誕生日で十八になるのだという。手に、なにか四角いものを持っていた。ルナは、私にその四角い包みを渡した。『赤い星』(クラスノズヴイズダ)というソ連共産党の新聞紙に包んだ白パン(ベーロフレーバ)だった。一キログラムはあると言った。
「ターシャにだけあげるのよ。私の誕生祝いのしるしよ」
 ルナは、頬をほんのりと赤くして少女らしい恥じらいを見せた。いつも坑内で見るルナより、地上で見るルナは、格別きれいに見える。作業衣ではなく、私服だったからだろうか。
 ルナは、一週間の休暇をとって父の墓参に行くのだと言った。
「炭鉱を離れているうちに、ターシャたちがダモイしたらどうしよう。さよなら(ダスヴイダーニャ)も言えないわ。できるだけ早く帰ってくるわ」
 ルナの瞳がうるんでいた。
「ルナの誕生日だっていうのに、何もやるものがないよ」
 私が言うと、
「いいわ。わたし、ターシャの妹になれただけでも嬉しいわ」
 と答えた。ほんとうは私の恋人にでもなりたかったというのだろうか。

39 立つ鳥あとをにごさず

 一週間の休暇を終えて、ルナが、ふたたびベルトコンベアーの前に姿を見せた。私を見ると、いきなり、
「ターシャ、スコーラ、ダモイ(近日中に、帰国よ)」
と叫んだ。ええっ、ほんとう?
 ルナを信じながらも、「ダモイ」の言葉は、もう信じることができなくなっていた。
 ところが、それからまもなくのことである。六月十六日か、十七日のことだったと思う。
 ミシャーが、上部からの命令を切羽の作業員たちに伝えたのである。
「日本兵は、今日限り作業をやめ、帰国することに決まりましたから、坑内をきれいに整頓してから地上に上がってください」
 みんなは嬉しさのあまり、整頓をすることもせず、ラパッカ(スコップ)は放り出し、その他の道具もバラバラにしたまま、坑内から地上を目指して走り去った。
 それを見てミシャーは、怒ったらしい。
 別の切羽で整理をはじめていた私を呼ぶなり、「立つ鳥あとをにごさず」と言った。ミシャーの言い分はこうだった。
「タキザーワ、お前はよくこの俺に、日本には『立つ鳥あとをにごさず』という言葉があると言っていたな。それなのに、今日の日本人はどうしたことだ!」
 他に当たる所のないミシャーは、私に当たりちらした。いつもは、おとなしくていい監督だと他の坑道の作業員たちがうらやむほどのミシャーであったが、このときばかりは、烈火のごとく怒っていた。
 非は日本人にあるのだが、異様なほどの怒りかただった。
「お前の指導が悪いからこうなったんだ。お前は責任をとって、これからも三十七坑道に残れっ!」
 見開いたミシャーの茶色の瞳が、光った。私は、「みんなを呼び戻してくる」と言って、エレベーターへ急いだ。まにあった。
「みんな、戻ってくれ。さもないと、たいへんなこになりそうだ」
 私は、嘘も方便とばかりに、みんなを必死に説得した。ようやく、帰ってもらうことができた。ミシャーは、イライラしながら切羽から切羽へかけずりまわっていた。
 みんなが戻ると、カーッと目を見開いて、「サルダーテ、ポチム、ベストラハジチ(兵士たよ、どうしてもそんなに急いで帰るのだ)。日本に、『立つ鳥あとをにごさず』という諺があると同じく、ソ連にも、それと同じ意味のものがあるんだ。言いつけられたことは実行してももらわなければならない。君たちがそんなことをするから、タキザーワが責任をとってシベリアに残ると言っているのだぞ」
 ミシャーも、『嘘も方便』という諺を知っていたのだろうか。そんなはずはないと思うが、さも、ほんとうらしく言った。いや、もしかすると、ミシャーはあのとき、ほんきでそう思っていたのかもしれない。
「滝さん、かんべん」
 副長の阿比留が言った。
「いいんだよ。誰だって同じさ。嬉しさのあまりなんだ。みんな、悪気はないのさ。ミシャーだって、立場を考えても怒っただけだと思う。日本人は戦争には負けても、心までは負けていないはずだ。これから先、どんなになっているからわからん祖国日本に帰るのだから、日本人のりっぱな足跡は残しても、恥ずべきことは残さないようにしよう」
 私は、自分に言い聞かせるように言った。みんなで、切羽の整理整頓をはじめた。それは、すごい力だった。またたく間に作業は終わり、気持ちが晴れ晴れしてきた。
「ヤポンスキー、スガサ、ルスキー、サムライ」
 先ほどまで不機嫌だったミシャーが、大声で歌った。みんなも唱和した。全員が、坑内を整然と歩き出した。ルナだけちょっと離れて、私の横にいた。
 シベリアの長い冬が終わり、春と夏、そして秋がくる。何年か、こんな繰り返しで過ごしたシベリア。やがて、それも「思い出」となってしまうことだろう。

40 六月の海

 昭和二十三年(一九四八年)六月。いよいよ、ダモイの日をむかえた。
 アルチョム第十二ラーゲルの門が開く。
 五列に並んだ旧日本軍には、負けたとはいえ、まだどこかに軍人らしい雄々しさがあった。収容所から炭鉱まで、約二キロの道のりを往復した日々。厳寒の朝、短い夏の日、雨や風の道中、そして、星を仰いだ幾年月。
 みんなの胸に、それらの思い出が走馬燈のようにかけめぐる。
 収容所長マルチンコ少佐の胸に、勲章が輝いていた。そのそばに立つ美人で小柄な少佐夫人とかかわいい子どもたち。
 警備兵や職員多数まで、見送ってくれた。私たち帰国集団が出ると同時に、他の収容所から来たという、同人数くらいの集団がやってきた。
 奇遇といおうか、神の巡り合わせといおうか、私はその中に同郷(新潟県柿崎町三ツ屋浜)の内山晴太郎君の元気な姿を発見した。
 彼もほとんど同時に私に目を向け、つかのまの懐かしさに涙する。
 駅に近づくと、各日本人炭鉱関係の監督や知人が大勢見送りにきていた。ルナもいた。ルナは私の手をにぎって、
「東京(日本)へ行きたい」
と言った。そして、手をにぎったまま、いっしょに歩いた。
 ミシャーは、
「日本に帰ったら、手紙をくれよ」
と挙手の札をした。さすがに元軍人、と私もていねいに頭を下げた。
「おい、彼女、いつまでくっついているんだ」
 組員のだれかとだれかが、声をそろえて言った。聞こえたのか聞こえないのか、ルナは、まだ私の手をにぎったままだった。しばらくしてミシャーにたしなめられたルナは、ようやく私から離れ、「バイバイ」と手をふった。ふり返る間もなく、長蛇の隊列はアルチョムの駅に向かって元気よく歩いていく。道の曲がり角にさしかかったとき、ちらりとふりむいた。すると、ミシャーやルナたちがまだ見送ってくれているのが見えた。みな、立ち止まって手をふっていた。
 やがて、その姿も見えなくなり、隊列は休む暇もなく駅の構内のR番線に待っていたダモイ列車に乗車を開始した。
 一時間くらいして、列車はすべるように駅を離れた。
「アルチョムよ、さようなら」
 誰かが、手をふりながらそう叫んだ。
 苦しい労働を強いられてきた数年をふりかえってみる。誰の心も複雑だったと思う。
 ダモイ、ダモイ!
 束縛から解放されたよろこびと、ヤンキー(米国)の支配下にある日本を想像して、一抹の不安を抱くのは私ひとりではなかったのだろう。
 列車は、まもなくナホトカの駅に着いた。千島からスターリングラード号に乗船し、たどりついた異国の地。シベリアでの第一歩を踏んだ思い出の地である。あの時は、地獄の町に見えたが、いまは、少なくとも『思い出の町』なのである。
 昭和二十年(一九四五年)十二月三日、あの凍るような積雪のなかで寒さをこらえるため、精一杯軍歌を歌って体を動かした。逃亡を恐れてか、みんなを地べた(雪の上)に座らせて、いくつもの車座を作った。一晩中、雪の中で眠ることもできず、もだえるように歌った軍歌、そして、懐かしの日本の歌『伊那の勘太郎』や『愛染かつら』など。いま思えば、懐かしいことばかりである。
 アルチョムとナホトカの距離はさほど遠くはなかったのに、なぜ、入国当時は、何日も手間をかけて山の中や森の中を天幕暮らしをしたり、野宿を重ねたのだろう。
 あのころのイワンの話では、ヤポンスキーの宿舎(収容所)がないとか、これから準備するのだとか、防衛上わざと回り道をしたのだとか、いろいろ聞かされた。
 いずれにせよ、すべてわからないままで終わってしまったのである。
 ナホトカの港で、ソ連官憲の身体検査(持ち物検査が主)が行なわれた。その時、福島出身の鈴木勝・独歩(独立歩兵大隊)が、ソ連の紙幣ルーブル(切り下げられて、実際は十ルーブルの値打ち)を三枚ほど、上衣の裏側に縫い込んで国外持ち出しをはかった疑いをかけられた。そのために彼だけが乗船できなくなり、残留となった。(その後のことは、まったく不明)
 ナホトカの港。日本船が、シベリアの夕風に日の丸の旗をなびかせていた。
(おお、まだあんな船が残っていたのか)
 目頭が熱くなった。船の名前は英徳丸。かなり大きく見えた。乗船開始。しかし、みんなの気持ちはなぜか沈んでいるようだった。残された鈴木のことを心配する者、日本でのこれからの生活のことを気にする者。誰の心の中にも心配事がつきまとっていたのである。
 私は、ルナやミシャー、そして、仲のよかった悪友、上田のことを思い出していた。
 英徳丸は、ボォーとドラの音を残して異国の港をすべりだした。
 六月の海は、静かだった。

おわりに

 私は、昭和二十三年六月二十三日に、祖国日本の舞鶴港に帰ってきた。私の戦後は、ここからはじまったといえる。
 まもなく、「終戦」から半世紀をむかえる。青春時代を戦争と捕虜生活で過ごした私たちの世代も年老いた。
 戦争はすでに過去のものになり、すっかり平和になっただろうか。いや、そう安心してはいられないようだ。つい最近も、ある大臣の口から「南京大虐殺はデッチあげだ」などという発言があり、世界の非難を浴びた。
 まだ関係者が生存しており、数かずの証言や証拠が示されてさえも、このような歴史をねじまげる発言が公然とされるのである。日中の国交が回復したからといって、過去の歴史が消えるはずがないのと同じに、ソ連という国家が崩壊したことによって、「シベリア抑留」の事実がなくなることはない。
 シベリア抑留体験が、私個人にとってどのような意味があったのかは、いまだに分からない。私の肉体と精神は、過酷な軍隊生活や捕虜生活や鍛えられたし、楽天性さえ培われた。しかし、もし戦争がなかったなら私の人生も違ったものになっていただろう。
 はっきりしているのは、私は「生きた」ということであり、ある人たちは「戦死」したという事実である。「終戦」後にすら戦死しなければならなかった同胞たちの無念さやいかに!
 もし、「シベリア抑留はデッチあげだ」などと言う為政者が現れたら、私は断じて許せない。
 そのような発言を生まないためにも、歴史の事実は、くりかえしくりかえし語り伝えていかなくてはならない。私の稚拙な文章が、当時のようすの一部を伝える役目をしてくれることを祈っている。

ここから先は

1,599字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?