見出し画像

人間の能力

人間の能力について

「才能」と呼ばれる能力がある。学問やスポーツに優れたチカラを発揮する人間がいる。具体的には記憶力と再現力だ。そのチカラを極限まで高めるとどこまでのことが人間はできるのだろうか。

例えば、鳥のように空を飛べるのか。
魚のように海を泳げるのか。
肺活量は増えるのか。どこまで高く飛べるのか。
極限まで肉体を高め、精神を高めた人間。
それをアスリートと現代人は呼ぶ。
または兵士も同様の極限状態になるが、これはより原始的な特殊な状況だ。

その能力を現代の社会では、お金持ちになることに使われることが多い。
空を飛べても、
海を泳げても
お金持ちにはなれない。
お金持ちになる能力は、人を幸福にすることである。

では、どのように幸福にするのか。
まずは幸福というものは何か?
そこからはじめなくてはならない。

この後の予定もあるので、後日追記するとして、
能力と幸福の関係について書く。
これは能力の高さと幸福感は比例しない。
自己の能力は他人のために使われるものである。
自己のために自分の能力を使っても、その潜在的価値はたかが知れている。

最大限に能力を使いたいならば、
他人のために使うことである。

困っている人間、困っている動物、自然。
解決すべき問題を創ることで、経済をまわすという虚構もある。
しかし、ここでいう困り事は、虚構ではなく、
本当に困っていることの解決である。

他人とコミュニケーションをとれない人間がいる。
それは何らかの理由で、そのほうが幸せだからかもしれない。
しかし、もしその人間が望むのであれば、
コミュニケーションをする手助けをする。

そして、もうひとつ大切なことがある。
気分で人助けはしないことである。
今日は時間があるから、その人を助ける。
今は時間がないから、その人を素通りする。
こういうわけにはいかないのである。

助けると決めたら、トコトン付き合うのである。
お歳暮、お中元、年賀はがき。
始めることは簡単だけれども、
「つきあい」は簡単にやめることはできない。
もちろん不快な関係は即日解消したほうがよい。
そうではなくて、気分でつながろうとしている関係は、
自分に対しても、相手に対しても、
たいへん失礼であると考える。

お金持ちになる能力

前澤さんにお会いしたことはないけれども。彼は自己の能力を開発するやり方ではなく、自分にまわりを引き寄せ、相手の能力をあますところなく活用している。能力のあるものが次々と彼のもとで開花するのだと思う。またその能力にふさわしい対価を与えようとする。
それでバランスをとっているのではないか、と思う。

たとえば、前澤さんと一緒に宇宙にいった若者がいる。
彼は自分のお金ではなく、前澤さんのお金とチカラで宇宙にいった。
しかし、それがその彼の能力なのである。とてもすばらしい能力だ。
『運』だけではなく、『何か』があり、彼は「宇宙にいったもっとも無名な一般人」になったのだ。
ぜひ彼に取材をしたい。
『宇宙』というとんでもないところに行き、前澤さんの影となり、まったく誰にも知られずに、向けているカメラの反対側にいた。
 宇宙からの生中継シリーズで、こいつすげえな、と私は素直に思った。
たしか20代だったと思う。前澤さんが宇宙に連れていきたいとおもった人間である。「1円も使わずに宇宙に行く方法」とか書いたら、売れるのではないだろうか。

つまり、「お金」と「行動」とは関係がない、ということである。
宇宙にいくお金がなくても、前澤さんと出会ったことで、彼は宇宙にいった。それは運命だったと思うし、とても貴重な体験だったのだろう。

私自身はまだ彼に直接会っていないから、なんとも言えない。
しかし、私が彼の立場なら、そう思うだろうな、と想像した。

私は10代の頃から、お金には困らないと思っていた。
理由はわからない。ただ漠然と思っていた。そして、自分が何をすべきか、それをきちんと見極めていくことだ、と思っていた。

今でも覚えていることがある。
はじめて、イベントの現場で栃木かどこかに行った時。
夕方の屋外のステージで、小学生が100人程で唄を歌っていた。
リハーサルだった。夕陽でステージが赤く染まり、彼らの声がすぅっと私の中に入っていった。

―この仕事ならしてもいいかもしれない。

その時、漠然とそう思った。
ただふつうの小学生の唄声が夕焼けに広がっただけのことである。

心が躍る、心が震える。
誰にでもそういう瞬間がある。
それがエンターテインメントやイベントでは生の人間に会うことで、
実際にダイレクトに感じ、揺り動かすことができるのである。

だから、仕事として、続いたのだ。舞台はリアルな虚構という名の現実とファンシーな現実をつなげる「空間」となる。

好きなことをする

好きなことをやれ! よく言われる。最初から好きなもの等、何一つない。
まずはやってみて、そして、だんだん好きになる。
趣味も仕事も、友達も恋人も、唯一、家族については、無条件に愛するかもしれない。
人間は愚かで、弱くて、脆い。
しかし同時に賢く、強く、深い。

どちらも人間であり、そのどちらも愛されるべき存在である。
だから、私はどれほど愚かな者でも、どれほど弱い者でも、
愛すべき人間だと思う。
人間同士で争うことほど愚かしいことはない。

サバンナの動物がいる。群れの中で、オス同士が仲たがいをする。
縄張り争いとする。人間同士の争いはそれと同じだ。つまり動物である。
人間がもし動物ではなく、人間という生物であるならば、少しだけ賢くなってほしい。自分の行為は動物なのか、人間なのか。

本題は「能力」についてである。
人間の能力は、どこまで伸ばせるのか。
社会という虚構の上では、その能力は『無限』である。
なんでもできるようになる。
正確にいうと、他人の夢はなんでもできるようになる。

あなたの夢を叶える人は、現れる。
空を飛びたいと誰かが思った。
人間は空を飛んだ。
宇宙に行きたいと思った人がいる。
人間は宇宙に行った。

なんでもできることを知っていれば、
できることを探すよりも、
何をやりたいのか、何をやるか。
それを探し、楽しむことに注力をする。

私のことを知りたい人は数は少ないだろう。
もしそんな稀有な人がいるとしたら、私が書いているモノを読んでほしい。
時間と空間により、その内容は変わる。
しかし、そのうちここに書かれいてることを理解する人間が増える。

これは標準化という現象である。
一定数の理解を得られると、その思考は標準化されるのである。

信仰や科学の分野に起こった現象である。
過去の知識は非常識となり、現在の知識が常識となる。
しかし本質としては、過去の知識が間違いでなく、解釈や言語が変わったに過ぎないと考える。これから解釈や言語はどんどん変わる。
先端を求めなくとも、人間は生きていられる。
それぞれに会った生活や思考を取り入れればよいだけだと思う。

少なくとも、私の書いていることに興味を持っていただけたなら、
ぜひ私のブログやノートを見てほしい。
そこにすべての思考の探索は書いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?