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デジタル

時計を見た。10時40分15秒前。そろそろ寝なくてはと思いつつも寝るにはまだはやい、何か一日の最後にやることがあるんじやないか、もう少し起きていたい。そのうちねむくなるまでに。この時計は自動式アナログ時計だ。1日ごとに約一分ほどの遅れが起こり、あるとき世の中の時間と10分ずれていたこともしらずに朝間に合って仕事場に到着したにもかかわらず、遅刻だとおこられたことを思いだしたいま。この時計を買ったのはいつだったかかこ。教職に就くとき少しはマシな時計をと思ってネットオークションで買ったはずだ。そのはずがこの時計で遅刻した。だから、だからかしれないが、1日のはじめに時計を1分進めなくてはいけない。そんな日課、でもそんなことは長く続かない、すぐだ。スマホの時計とその時計を比べて確かめる。スマホの時計は“今”を表示する。アナログで正確な今は捉えづらい。秒の速度は同じはずなのにデジタルは止まって見えるし、アナログは動いて見える。だから合わせるのはあきらめた。どうせ時差がわかるのはいつも“やってしまった”時だけだ。この時計が刻む時間。正確な今を捉えられない時間。それは〜何分前と認識する過去と未来によってかろうじて炙り出される今を刻む時間。12時10分2分前

デジタル的正確な現在とはまさに“点”としての今だ。その正確さはどこか空虚で合理的で機械的だ。デジタルな時間とはその点と点を直線的につなぐ空間であり、面倒な事だったり非合理的なことをスキップするためには適している。カレンダーの31分割された時間。そこにはその日の合理的な予定を書けばいいわけで、浮気相手の名前を書く必要もないし、賄賂の金額も書く必要はない。そもそもそんなに詳細に書くスペースはない。カレンダー上ではそうやって機械的に1日が過ぎていく。
アナログ的な今とはどこか平面的だ。場合によっては立体的に捉えることも出来るかもしれない。町のあちこちにかかれたグラフィティ 、スケボーが削った縁石のキズ。ジャックの数々。それらには正確な今は刻印されていない。しかし“〜is(was) here.”と、確かにここにいた、ここでやったという軌跡としての今が染みついていたりこびりついている。
そうした跡は徐々に風化し日常に溶け込み古い今を捨て新しい今を生成していく。

正確な“今”はとても便利で効率的だ。ただ、時間とはただ点と点を結んでいけばいいということではないことを忘れてはいけない。それは過去や未来に縛られた時間であり、苛立ちや憎しみを生む可能性を充分秘めている。時間を無駄にしないことは生産効率と要約でき、生産性は権力と関係している。
※前投稿「作る」を参照

アナログな時間が、人生という限られた時間を無駄にするわけではないと最近思っている。確かにアナログ時計は日々少しずつ遅れていくし、そのため針を少し早めてセットしてズレを稼ぐという調整をしたりするのだが、それはつまり過去や未来を含んだ現在であり、現在という今に奥行きを与えるのではないか。それが良いことなのかは分からないが、少なくとも時間を無駄にしていることではないと思うようにしている。

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