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作る

ものを作ると言うことにはいろいろな要因がある。評価を得たい、自分の考えを具現化したい、出来たときの達成感、癒し、お金、衝動...ect.。

作ってモノができる(生産)。それは権力と関係している。モノで埋め尽くされた世界、それは大小無数の壁によって構成されている世界でもあり、コトの流れの暴走を跳ね返し食い止め安定させているかにみえる。建造物、街路樹、信号機、車、コンセントボックス、洋服、マスク、マニキュア、コンビニの中華まんから高級なジュエリーまで。それら壁には値札がつけられ、人はそれらを消費し所有しその壁で自分を守る。ここから先は侵入禁止と言わんばかりに。値段とはなにか、壁の強靭さか、権威の強さか。もし、その壁を突破して侵入してくるモノがあるならばそれが公共空間にとってのウィルスであったり、テロであったり、津波のようなモノなのかもしれない。

スケートボードというモノを作るというコト。それを問うとき、モノ的、コト的についてまず考えたい。スケートボードはモノ。スケートボーディングはコト。そもそもスケボーに乗るというコトは、壁なるモノを波乗りのように走り流したり、飛び越えるコト。ボードは後にボロボロになって壊れるモノ。スケボーは、そのモノがなければコトできないし、乗れば乗るだけモノが失われていくようにコトとモノが常に同時にある。

モノ(物質)はコト(現象)を定着させ、意味(権威)を吹き込む。概ね普段の社会ではそうなはずだ。だけどスケボーは違う気がする。モノがコトのダイナミズムを生み出して、コトはモノを“自傷”していく。壁を突き破るほど過激でない。新品の(強靭な)ボードは嬉しいけれど、削れていくことでむしろ愛着がわく。そのような行為は普段の社会からは無意味に見えるかもしれない。だけどスケボーは無意味なわけではなく意味と無意味が同時にあることなんじゃないか。それが楽しむということなんじゃないか。

「怖いのはわかるよ」
「それを恐れちゃメイクは無理だね」
「こればっかはやったもん勝ちよ」
「転んで限度を知るってのもある。逆にびびったままやったらケガするってのもある」

大きな壁になるほど権威を増築させてはならない。メイクが遠のく前に。だからオーリーにチャレンジする。その小さな壁(板)を削りながら。自分の身体を自傷しながら。

削れたボードをリシェイプする。ひとまわり小さな壁。それでオーリーはできないかもしれないけど壁を波のように捉えることの難易度は上がりそうだ。飛び越えるというコトをできないからこそそれを深く考えることができるかもしれない。どれほどまでのちっちゃい壁を乗りこなせるだろうか。前と違う乗り心地を楽しみながら。

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