テクノロジーのトートロジーと筆の小話

技術とは何のためにあるのか。多くの技術を持つことが万能であることにはならない。あのように歌いたい、あのように高く跳びたい、あのようにびっくりするようなことをしでかしたい...、自分ではないものへの憧れは尽きないけれどそのようにかいつまんでばかりでは本来自分にとっての技術からは遠のくばかりであるかのようだ。

あるプロスケートボーダーは、辛くなるくらいだったらオーリーなんかしなくたっていい。と言い切った。諦めが肝心とも言っていた。だから今新しいスタイル(技術)でスケートボードを楽しんでいる。

諦めるとは何かをやめてしまうことではない。何かを(楽しみ)続けようとするために諦めるのだ。それを諦めた(捨てた)時新しい(そうであるしかない)スタイル(技術)を獲得するのだ。テクノロジーとはある分野における“スタイル”と言ってもいいかもしれない。そしてスタイルは刻々と変化する。技術とは、テクノロジーとは、変化するもので、技術とは変化し続けるための技術だ。

テクノロジーと聞くとどこか遠くのもののように感じてしまうが、実は今本当に必要な技術とは目の前にあるのではと思う。とても身近ないまここに。その技術とは優劣とは関係なく新旧とも関係ないそれでしかないもの。人はそんな技術をやすやすととり逃している。そして辛いフリをしている。それは間違いだ。技術とは楽しむための技術だ。




筆は道具で、道具は体の拡張装置のようなものだが、筆はその先の数千もの毛によって分枝されている。それはもう一つの手(触手)のようなものだ。
この触手を活かすこと、操ることがこの道具を使う技術と言ってもいい。

経験上、筆は直線を引いたりある面を均一に塗ることには向いていないように思う。直線や均一な面とは複製技術に起因するものであり、そのためには数千もの触手を制さなければならないからだ。
筆の本質はそれを制する事ではない。操り操られ活かし活かされが同時にある事。それが本来の筆の技術だ。

筆の本質は複製ではない。絵を描く事であり、文字を書く事だ。

制する事ではない、と、諦めること、はこの場合どこか似ている。

筆の技術、絵を描くこと、文字を書くことは何かを諦めることによって成立するのかもしれない。

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