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ミニマリズムが行き過ぎた僕の失敗とその後

2020年、僕はミニマリストだった。必要なものだけを手元に残し、無駄を徹底的に排除する。その考え方に共感し、生活も大きく変えた。でも、ある日気づいた。手放していたのは、物だけじゃなくて、僕の大切な感情や心の余裕だった。

一人暮らしのために借りた部屋はベランダ無し、お風呂場に湯船なし、少し狭くて変な形をしていたが家賃は安かった。他のミニマリストと同じく、ベッドもない、テレビもない、服も最低限しか持たない。食事は栄養が取れれば何でもいいので、蒸し野菜と蒸し鶏を作るための電子レンジだけ台所に置いた。コンロ置き場に電子レンジを置いていたので、当時の彼女に唖然とされたことがある。

物を持たないことで管理するコストが下がり、結果それ以外のことに集中できる。このミニマリズムの考え方に共感した。必要なものと不必要なものに分別し、不必要と判断したものはことごとく手放した。当時ITエンジニアとして駆け出しだったので、学習時間の確保のためにそれ以外の無駄を省きたいという気持ちからミニマリズムに傾倒していった。

手放したものは物だけではなかった。趣味のライブやフェスへの参加も減らした(コロナ禍だったため自粛されていたためでもある)。ゲームが好きだったが、自分の将来における資産にはならないと考えて、やめた。お酒を飲むのも好きだったがやめた。すべて仕事の学習の時間に当てた。未来に役立つものだけに時間を割き、それ以外には時間を割きたくなかった。コスパとタイパが良さそうな本や動画を選んで見ていた。選択と集中というやつだ。

さて、そんな生活を1年続けたころ、仕事で担当していた事業が行き詰まった。何とかしようと様々な手を打ったが効果はなかった。そして僕はこう思った。

「あれ?僕、この会社に必要ないのでは?」

スキルの足りない僕はこの会社に必要ないと思ったのだ。この会社にいてはいけないと考え、転職活動を始めた。しかし、大したスキルと実績を持っていない僕の転職活動の結果は散々なものだった。

「僕、世の中に必要ないのでは?」

そんなことを考えるようになった。頭の中が真っ白になった。呼吸が浅くなって、胸が苦しくなる。仕事にまったく集中できない。休みの日も何もする気が起きない。ただただ悲しい気持ちに押しつぶされた。もう消えてしまいたい、そんな絶望が、静かに僕の心に忍び寄ってきた。

今になって振り返るとどんだけ極端な考え方だよと笑えてくるし、自分がいなくても世の中が滞りなく回るなんて当たり前のことなのだが、当時は本気でそう考えていたのだ。

紆余曲折の末に運良く仕事を変えることができた。それを機に当時の彼女と同棲することになった。引越しの時に、僕の荷物より彼女の荷物の方が10倍くらい多かったのがおかしかった。中には、彼女が好きなものがたくさん入っていた。今ではテレビボードの上によくわからないかわいい飾りが置かれている。

必要かどうかだけで判断するのはあまりにも味気ない。不必要な物が存在しちゃいけないなんて懐が狭いじゃないか。必要かどうかより好きかどうかを軸に据えて生きる方がよっぽど豊かで健全だ。好きなことも復活させた。ライブも復活させ、週末だけだがお酒も飲むようにした。ゲームは時間が溶けるので、今も滅多にやらないことにしている。良いベッドとマットレスも買った。眠るのが気持ちいい。睡眠の質が上がって日中のパフォーマンスも良くなる。お風呂に浸かるし入浴剤も使う。副交感神経に切り替わってリラックスできるし、良い匂いがして幸せ。寝る前のヨガも気持ちがいい。好きなことをして、面白いと笑って、美しいと感動して、気持ちがいいと笑顔になる。

物が増えると鬱陶しいのは事実なので、鬱陶しくない程度の量にコントロールしながら楽しく生きるのがちょうど良いんじゃないかなと最近は考えている。いらない物を必死になって探して捨てるのでは結局断捨離に執着しているにすぎない。なにごともやりすぎは毒だし、ちょうど良いところでバランスをとるようにしてる。心と体両方の健康を保つことで仕事も学習も高いパフォーマンスが出せる。自分の体とは一生付き合っていかなければならないので蔑ろにすると手痛いしっぺ返しをくらってしまう。

最近、音楽好きが高じてアナログレコードの収集を始めた。レコードが増えるたび、妻は呆れた顔をしている。でも仕方がない、必要な物なのだ。

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