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❖離れてこそ分かる価値❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年10月30日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

物事を説明するために、物・人と空気との間、物・人と物・人との間に、本来ないはずの輪郭を、絵画で何かを描くかのように、定義という名の境界線として引く。単純に知覚できるものだけではない、雰囲気や状況が別のものとどう異なっているのか、概念同士の区分も、とにかくあらゆるものは、線引きによって、それが何であるかが決まってくる。そうして意味やら意義やらが確定する。それがdefine。語源としては、deが「完全に」で、fineは「fin、終わらせる」のようで、曖昧だった意味をしっかり明らかにすることになる。それは調べて分かったこと。やはり情報収集は大切。過去の自分の記憶とか経験とか、事実かもしれないが、レアケースだったりミスリードだったりするものも、自分と繋がっているから真理だと思ったりして疑わないことは結構ある。その結果、調べる前に自分が抱いていた誤解がもっともらしく出来上がってしまう。例えば、deには「離れる、離す」という意味があるから、物事を離して区別するとfineという「良い状態」になるからかとか。または、fineには「細かい」もあり、そこから細かく分ける=定義(厳密な意味にはっきりさせる)なのかとか。そうやって、fineをdeとして離す?離すというdeによってfineになる?そんな怪しげな理由が真理の顔でウロつく。きちんと情報収集しないと、そんなミスに陥る。defineの語源はそれくらいにして、とにかく、その定義という線引きで物事がはっきりするのは確かである。しかしそれは何かと何かが繋がっていた空間を引き裂くことでもある。定義や意味や関係性は、繋がっていた時ではなく、引き裂いた時に決まる。現に起こっていて、その中にいるときではなく、そこから距離を置いて俯瞰するようになってから実態が分かる。またはそれを失ってから初めて価値が分かる。豊かさとは何か、豊かさから離れ、豊かではない状態に身を置いたときに、豊かさの実態や価値が分かる。親のありがたみも、親元を離れたり、親を失ったりしてから分かる。平和もそうだ。穏やかではない状況や世界になってから分かる。分かってから、元に戻れるなら、それが良いかもしれないが、離れて失ってしまうと戻らないし戻せないものも多い。離れて失ってというのは、繋がりから引き裂かれた状態。そうやって引き裂かれないと、実態や価値が分からないというのは皮肉なものである。しかし絶対に離れて失ってという状態でないと、把握できないものだろうか。他者の話や書籍の力を借りて、類似の状況として、ここでも情報収集することにより、想像力を働かせるための素材を得ることができるのではないだろうか。そうすれば、実際に離れずとも失わずとも、実態や価値を把握できるように思える。狭い材料で生きるのではなく、広く情報収集することにより、いかに自分の生活が豊かになるか。まさに知は力なりである。

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