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❖足元美術館Ⅳ(『認識という光のアート』展)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2022年1月31日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

◆足元美術館Ⅳ(『認識という光のアート』展)◆
私は植物にそれほど詳しいわけではないので、この木を紹介するプレートがなければ、それが一体何の木であるか分からない。

プレートには「モミジ」と記されていた。そのプレートの情報によって私は、その木をモミジと認識したことになる。

するとどうだろう、不思議なことに、目の前にある幹と枝だけの黒々とした木に、紅葉の鮮やかで温かな色があたかも存在しているかのように思えてくるのである。

写真を見ても分かるように、当然のことながら、実際に紅葉の葉が現れたわけではない。しかし、それが紅葉だと認識するや否や、私の記憶の中に蓄積されている紅葉のイメージが、目の前の単なる黒い木に着色を始めるのである。

私は人間の認識が持つ力を感じずにはいられなかった。

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」

この感覚こそまさに、カントのコペルニクス的転回ではないかと思えた。

そして、認識が対象を従わせ、今回のように無いはずの葉が有るかのように思わせたわけだが、これに特化した世界こそ「枯山水」であると感じた。

枯山水の庭園では、砂や石などが用いられる。そこには「水」の存在は一切無い。しかし、砂上に描かれる無数の筋と、石の配置により、無いはずの「水」や「流れ」が有るかのように思えてくるのである。

目の前の現実的で物質的な世界に縛られず、認識という筆がそこに生き生きとした要素を描いていく。

これはプラトンで言えば、イデアの想起(アナムネーシス)だろうか。

先ほどから、目の前の世界は、紅葉の葉や水流について「無」であると述べているが、それは有か無かという現象に関わる無である。

しかし無が単なる現象に関わるものならば、いかに認識を駆使しようとも、魔法のように無を有にはできないだろう。

認識は現象を歪曲しているのではなく、有か無かという現象の存在自体を根拠づける土台のような場所からのメッセージを受け取っているのである。

西田幾多郎の言葉を借りるならば、この土台のような場所が「絶対無」になるだろう。絶対無においては、認識も対象も区別のない主客未分の純粋経験が、単に存在の塊として準備されている。それが主客の分化に伴い、時には「有る」となり、時には「無い」となる。西田幾多郎はこの場所を「絶対無」と表現しているが、それは同時に「絶対有」でもあるように私には思える。

だから、現象として「無い」とされるものも、認識の無限の可能性が放つ光に照らされて、紅葉の葉や枯山水のように「有る」になるのだと思う。

この日、私が出会った足元美術館は、「認識という光」が絵の具となって、素敵な世界を表現してくれていた。

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