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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(15枚目と周恩来)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

【記事累積:1863本目、連続投稿:808日目】
<探究対象…哲学、美、ラオス、ビエンチャン、LAO ART WEEK>

今日の1枚(絵そのものというよりも絵を含めた空間を1つの作品と捉えている)は、10月下旬にパクソンデパート(NAGAパクソン)で催されていた「LAO ART WEEK」で見かけた作品である。今日の作品からどんな思想を読み取ることができるだろうか。

今日の作品が展示されているスペースの展示の特徴は、1枚1枚の絵が独立して飾られるのではなく、いくつかの絵を並べて大きな長方形のような形にしていることであった。私はその中でも、黒を基調とした版画のような絵を並べたものに惹かれた。16枚の小さめの絵たちが身を寄せ合い、1枚の大きな絵を作り出していた。

小さな絵に描かれているものは多種多様で、主にラオスの自然・生活・文化のイメージが扱われていた。しかし、それぞれの絵が着色された黒の部分と無着色の白の部分とのコントラストを保っているため、それが絵画の集合体の共通したテーマのようになっていて一体感が伝わってくる。

だがこの作品の一体感に一石を投じる仕掛けが、ある部分に施されていた。作品の大部分は黒と白のコントラストだけが用いられていて、落ち着いた雰囲気になっているにも関わらず、作品の中央左側に赤色で枠が設けられていたのである。その枠は16枚のうちの1枚を囲んでいた。

赤という色はもともと力のある色の一つである。それがこのようなモノクロの世界で1つの絵だけを囲むとどのような影響が及ぶだろうか。そうして赤の勲章を与えられた一つの絵は、他の絵たちとは一線を画するような特別な地位を与えられているという印象を見ている人に持たせてしまうのではないだろうか。少なくとも私は最初そのように考えていた。それは赤枠のインパクトを直感で受け止め、反射的に抱いた感想であった。

「自己犠牲の精神によって、人はいっそう輝きを増す。」
これは中華人民共和国の政治家・革命家で初代総理を務めた周恩来の言葉である。

この言葉の中にある「自己犠牲の精神」は利他主義に基づくものといえる。人間というものは一人だけで存在しているわけではなく、他の人と関わり合いながら社会を形成している。それにも関わらず、自分のことだけを考えてしまうような自己本位または利己的な言動を繰り返したならばどうなるだろうか。おそらく他の人から敬遠され、孤独な状況に陥り、いずれ生活すら成り立たなくなるのではないだろうか。仮にその人がある共同体における中心的な存在だったとしても、権力とか財力とかを目的としている人ばかりが周囲に集まり、所詮それは上辺の関わりでしかなくなる。そのうちに権力や財力に陰りが見えてくると、あっという間に人は遠ざかっていくだろう。だから自己本位または利己的な人の人生というものは、徐々に暗くなりいずれ消えてしまう灯のようなものなのである。

これに対して、自己犠牲または利他的な人の周りには、たくさん心を通わせる人が集まり、笑顔が溢れることになる。自己犠牲によって、確かに手放した物・時間・金・権利などのロスはあると思う。本人がどれだけ自己犠牲の自覚があるかは分からないが、そうして他者のために行動した人には、「信頼」とか「仲間」といったさきほどのロスを補って余りある素敵な財産を手に入れることになるのである。だから自己犠牲または利他的な人の人生は、さきほどの周恩来の言葉のように「いっそう輝きを増す」のである。

そのあと他の作品を見ていたのだが、あの作品のことがひっかかっていた。そのため再びあの作品のところに戻り、しばらくその作品を眺め直していた。すると私の受け止め方に変化が生まれたのである。真ん中の赤枠の絵は一見すると主役なのだが、その赤枠は内側の絵を強調する役割よりも、むしろ周囲の絵の存在感を際立たせているような感じがしたのである。

赤枠の中の絵は「電球」であった。電球は暗い場所を照らすために人間が発明した「道具」である。そしてその電球自身は主役であろうとしていないように感じたのである。輝くという行為は自己本位または利己的なアピールではなく、周囲を照らし他の絵に注目が集まるような自己犠牲または利他的なサポートになっていることに気づいたのである。赤枠によって単なる主役に祭り上げられているのではなく、自らの明るさによって他を支えながら盛り立てるような存在に徹していたのである。赤枠で囲われているのは紛れもない事実ではあるが、それは主役という単に他より華やかな存在というレベルを凌駕していて、言うなれば「司令塔」とか「軸」とかというような横並びの優劣で捉えるのとは異なった別次元の位置づけに思えたのである。作者の真の狙いがどこにあるかは分からないが、少なくとも私はこの作品の意図をそのように解釈したのである。

#つれづれ   #哲学   #美術
#周恩来   

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