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❖「ノベル」な書き出し「述べる」だけ(第5話)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2023年5月23日)

(小説っぽい書き出しで表現してみるシリーズ)

意味を実体として持つのは言語そのものの部分のはずなのに、当の言語が分からない私であっても、何かしら意味が想像できてしまうのは、言語がそのものの部分だけで意味を構成していないことを物語っている。

単語と単語を繋ぐ間の長さの違い、単語を発したときの声の調子の違い(抑揚、1単語当たりの発出のスピードが速いか遅いかなども)、それから単語を発している主体の表情や姿勢そして身振り、反対に単語を受け取る客体の表情や姿勢そして反応。

有形の単語だけで意味が構成されていない。有形の単語だけでは読み取れない部分がある。
単語以外の要素、例えばさっき頭の中に浮かんだ間とか声の調子とか、そういった要素が組み合わさって初めてコミュニケーション情報が完成しているんじゃないか。

それは音楽に似ている気がする。
音符という有形の要素だけで音楽は構成されていない。
音符という有形の要素だけでは読み取れない部分がある。
音符以外の要素、例えば休符とか、フォルテとかピアニッシモとか、そういった要素が組み合わさって初めて音楽情報は完成する。

休符は決して「無」ではない。
そこに一切のものが存在しないわけではなくて、あくまで「相対無」。

そうだとも休符は「絶対無」というものではない。
同様に、単語と単語を繋ぐ「間」だって、単なる沈黙ではないのだから、こちらも「相対無」だ。

この気づきは偶然じゃない。必然などと言ってしまうと仰々しいが、この場所で気づいたというのは当然のことだと思った。

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【本日はここまで、以下は補足、蛇足?】
もし、単語と単語を繋ぐ「間」に意味がないとしたら、大昔から台本として確立している落語のようなものが、日によってウケたりウケなかったりという状況を説明できなくなると思います。

セリフが同じなんだから、文字だけで考えると反応は安定すると思えそうですが、実際にはそうではないと落語家さんがインタビューなどで話していたのを覚えています。

セリフが同じでも、単語と単語を繋ぐ「間」の取り方一つで、演目の世界にお客を引きずり込めるかどうかが決まるそうです。

この「間」については、教員という職業柄、落語と同じような感覚に陥ったことがあります。話のネタとしては鉄板のエピソードにも関わらず、ウケるときとウケないときがあるのです。聞き手である生徒たちの持っている空気のようなものを、その「間」の中に上手く引き込めて、そこから絶妙のタイミングで次の単語(オチ)を発することができたときは、反応が良いと感じています。

逆に、自分が話の流れを先回りして意識しすぎているときの「間」は、生徒を引き込まないまま、話を進行するような形になって、反応は良くありません。

もちろんこれは音楽の演奏でも同様で、楽譜に記されている音符に対応した音を出すことだけを考えていると、観客を引きずり込むことができず、演奏者と観客との間には見えない壁のようなものができてしまうと思います。

このとき私は「間」の持つ意味に強い関心を持っていました。でもそれは偶然ではなかったように思えました。

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