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★我楽多だらけの製哲書(12)★~サッカーのユニフォームを着なくなった最近の夏とヴォルテール~

「汎用性」を突き詰めていくとどうなるだろうか。
何かの定義について考えるとき、その言葉の対義語と思われるものからの逆算で、言葉の実態を明らかにすることが少なくない。だがそれは、その言葉と対義語が対等な関係に位置していて、同時に、二律背反のような閉じた世界であることが前提となっているだろう。そうでなければ、他方の否定によって、残りの要素全てが、その言葉の定義となり、説明が成立するという綺麗な図式にはならない。

さて「汎用性」について、その綺麗な図式で定義づけを試みているとどうなるだろうか。
「汎用性」の対義語を辞書などで検索してみると、「専門性」や「専用性」という言葉が出てくる。これらの言葉は、特定の目的や特定の対象に関わるものといえる。ここから逆算してみると、特定の目的や特定の対象に限定されずどのようなものにでも適用可能なものとなるだろうか。だから「汎用性」の類義語などを検索したとき、「多機能性」とか「多用途性」といった言葉が出てくるわけである。

日本も秋めいてきて、半袖では過ごしにくくなってきた。そのため長袖のシャツを羽織るようになり、シンガポールやラオスで過ごしていたときは、フォーマルな場面を除くと、そもそも長袖のシャツを羽織ることをしていなかったなあと気づくとともに、そういえば半袖で出かける際、運動をするわけでもないのに、サッカーのユニフォームなどのように運動用の半袖を着ることがほとんどであったなあと気づいた。それは私だけの話ではなく、外で見かける人の中にもそういった人がけっこういたので、サッカーのユニフォームなどで出かけることに微塵の疑問も感じていなかった。

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しかし、日本に一時帰国していたときも、そして本帰国してからも、夏場にシンガポールやラオスと同じように、サッカーのユニフォームを普段着として着て出かけることに、何か抵抗感を覚える自分がいた。日本にいると、それらのユニフォームを着るときは、すでに運動目的で出かけるときであって、単に出かけるときにそれらを着ていると、何となく違和感がある。

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そう考えると不思議なものである。シンガポールやラオスにいたときには「汎用性」を持っていると個人的には感じていたサッカーのユニフォームなどが、日本にいると、全く「汎用性」を持っているものとは感じられず、これから確実に運動をするためであるというような特定の目的で着る「専門性」を持つものに姿を変えているのである。

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ということは、「汎用性」を持つものか、「専門性」を持つものかという問題は、道具などに最初から内在していて切り離すことのできない「絶対的」なものではなく、あくまでも状況によって入れ替わる「相対的」なものだということである。ならばサッカーのユニフォームを時に「汎用性」、時に「専門性」へと変えることとなった状況とは何であるか。

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「常識というやつは、さほど常識的なものではない。」

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