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我楽多だらけの製哲書(N78)  ~ラオス人の心と頭とマキャヴェッリそしてニーチェ~

【記事累積:1861本目、連続投稿:806日目】
<探究対象…コラム、ラオス、建国記念日、政治と宗教>

今年のラオスの11月下旬から12月初めはイベント三昧という感じであった。ラオス陰暦の12月の満月を迎える日には「タートルアン祭り」があり、満月自体は現在のカレンダーだと11月27日なのだがその1週間前くらいからタートルアン周辺は賑わっていた。それから5日経った12月2日は48回目の「建国記念日(ວັນຊາດ・ワンサート、National Day)」だったので、1週間の中にラオスにとって重要なイベントが2つもあったことになる。

「建国記念日(ວັນຊາດ・ワンサート、National Day)」は12月2日に固定されているが、「タートルアン祭り」は月の満ち欠けによって当日が動くので、2つのイベントの距離感は毎年同じではない。今年はかなり近かったため、2つのイベントを比較する意識が強くなっていたのかもしれないが、2つは非常に対照的なものに思えた。さて、その対照性はどのようなものだったのだろうか。

タートルアンというのはラオスの首都ビエンチャンを代表する寺院の一つである。金色に輝く大きな仏塔(ストゥーパ)が特徴で、このイメージはラオスの国章にも使われていることは別の記事でも触れたとおりである。「タートルアン(ທາດຫລວງ)」という言葉は、「タート(ທາດ)」が「塔」、「ルアン(ຫລວງ)」が「大きい」という意味で、文字通り巨大な塔なのである。ラオス陰暦の12月の満月が当日となる「タートルアン祭り」にはラオス全土から在家信者も僧侶も集まってくる。ラオス正月(ピーマイラオ)を別にすれば、ビエンチャンでお祝いされるイベントとしては最大のものであり、観光客も大勢押し寄せる。

当日を迎える前からタートルアン周辺は大賑わいで、駐車場を含めた敷地内だけでなく、寺院に向かう通りにも多くの屋台や出店が現れる。こうして連日お祝いされるお祭りであっても、盛り上がるのはだいたい夜になってからだと思っていたが、数日前の朝であっても屋台や出店の中にはしっかりと営業をしているものがあり、的当てを楽しむ子どもたちや家族の姿があった。

当日までの夜も十分に盛り上がっていたが、当日は別格であった。11月27日の朝、6時くらいにはすでに駐車場にも多くの人が集まっていた。在家信者はそれぞれにゴザを敷き、お供えの準備をしていた。各地から集まってきたと思われる大勢の僧侶たちは、川の字のように何本も並べられているテーブルの前でお供え物を受け取るための壺や皿の準備をしていた。上座部仏教の僧侶はオレンジ色の衣装をまとっているが、駐車場にはそのオレンジの列がきれいに伸びていて、独特の雰囲気を作り出していた。そして6時30分を過ぎたくらいから、そのオレンジの列にそって在家信者が順々にお供えを始めたのである。

テーマパーク、人気のラーメン屋、デパートの閉店セール、ドラクエの新作発売日(古い?)など、色々な場面において「長蛇の列」という言葉は使用されるが、タートルアン祭りの当日朝に目の前に広がっていた光景以上にその言葉を見事に形容しているものを私は見たことはない。

そして、夜は夜でしっかりと盛り上がっていた。寺院の中に入ってお供え物をしようと訪れている人もいれば、タートルアンをバックに記念撮影や自撮りをする人もいる。屋台や出店が目当ての人たちも当然いる。そして夜の19時30分を少し過ぎたとき、大音量で無数の花火が打ち上がった。そうして祭りは最高潮に達したのであった。私は花火の後、30分もしないうちに家路についたが、おそらく日が変わるくらいまで祭りの余韻は続いたと思われる。

ラオス第1期として住んでいた4年前にも経験はしていたが、朝は寝坊してしまいお供えの様子を見逃していた。しかし今回は連日タートルアンに足を運び、当日は朝のお供えも夜の花火もしっかりと見たので、骨の髄まで祭りを体感できたと思う。

そのような盛り上がり・賑わいを見せたタートルアン祭りが終わって一週間も経たないうちに、今年は「建国記念日(ວັນຊາດ・ワンサート、National Day)」を迎える形になっていた。第二次世界大戦後、日本の支配が終わり、再びフランスの支配下に入っていたラオスだったが、1950年代前半にようやく完全な形で独立することとなった。しかし1960年代に入ると、ラオス王国の政府とラオス愛国戦線との間で内戦が本格化してしまう。内戦は最終的にラオス愛国戦線の側の勝利となり、1975年12月2日に王政が廃止され、現在の「ラオス人民民主共和国(Lao People's Democratic Republic)」が建国されたので、12月2日は建国記念日として祝日になっている。

そのような歴史的な日であるし、2023年の12月2日は土曜日ということもあって、さぞかし盛り上がるのだろうと思っていた。私が勤務している学校は日本の在外教育施設なので、ラオスの祝日と完全に連動しているわけではなく、その日は通常授業であった。そのため授業が終わってから、建国記念日のビエンチャンの様子をリサーチするために自転車で散策を開始した。

自転車を走らせていると、ラオスの国旗とラオス人民革命党(ラオス愛国戦線の政治組織)の党旗が様々な建物で掲げられていた。旗の色合いを見ると、建国記念日に合わせて掲げられたものか、以前から継続して掲げているか判別することができた。非常に色鮮やかな目新しい旗はたいていこの日に合わせて数日前から掲揚しているものである。継続して掲揚しているものは、色褪せてはいるがその淡い感じを見ていると何だか優しい気持ちになった。目新しい方は色がはっきりしていて綺麗なはずなのに、あまり魅力を感じなかったのは、色の主張の強さと並ぶほど、国や党に対する思いの強さは無いことが何となく伝わってきたからかもしれない。とりあえず建国記念日だから掲揚しておこうという本音のようなものが、新しく鮮やかすぎる旗の色から垣間見えたのである。

政府系の建物や銀行などには、たくさんの旗が掲げられていた。ラーンサーン通りは大統領府とパトゥーサイ(凱旋門)を結ぶ象徴的な場所なので、通りに面して建っている銀行などにはひときわ大きな旗がかかっていた。

そうして日中はラーンサーン通りからナンプー広場へ向かい、そこからメコン川などを散策した。日没後は一度帰宅したが、タートルアンのすぐ近くに「革命記念塔」があるので、建国記念日ならばこの場所に行かない手はないと考え夜の散歩に出かけることにした。

しかしそのとき私は異変を感じた。数日前にあれほど賑わっていたタートルアンまでの道のりは、驚くほど閑散としていたのである。それは駐車場までやってきても変わらなかった。駐車場が広いだけに、その閑散とした様子は余計に強調されるような気がした。普段でも駐車場で遊んでいたりする集団くらいはいるものだが、この日はほとんど無人であった。

その状況は「革命記念塔」の方に行っても変わることはなく、夜の闇の中で四方からライト照らされて浮かび上がる白い大きな塔は、静寂に包まれすぎていて不気味にすら思えた。私はかなり長い時間をかけて、革命記念塔の様子を撮影していたが、観光客も地元の人もおらず、さらには警備している人にさえ会うことはなかった。そうして建国記念日というラオスにとって大切な日に、それを象徴する「革命記念塔」を私は独り占めすることができたのである。

「政治は道徳とは無縁である。」
これはイタリアのルネサンス期に活躍した政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリの言葉とされている。

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日常の出来事と哲学を掛け合わせた考察をつれづれなるままに綴っています。先哲の思想は、昔のことだし抽象的で近寄りがたいと思っている人がいるか…

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