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❖えぐった心に宿る魂❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年10月20日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

本気や本音のワンピースをはめないままの、カッコつけた、後ろ足重心の守りの表現だから、刺さらない、響かない。重心を前に置くということは退路を断つような覚悟。前に進むことに特化した動作。そこから退こうとしてもワンテンポ遅れるので、攻めに特化した動作。退路を断った分、覚悟や真剣さが宿るので、その思いは伝わるのだろう。これは表現の世界だけではない。卓球もそうだった。卓球の場合はもちろん思いではないが、重心を前に踏み込むことで、打球に勢いが生まれる。本当に検証したわけではないが、重心が後ろだと打球の重みや伸びは、重心前よりも軽く、伸びない印象がある。重心前にすると重くて伸びる威力のある打球になる感覚がある。ボクシングや格闘技のまともな経験はないが、そういった類も同様で、重心前の方が威力があるだろう。しかしそこには簡単に退けなくなる危険性が伴う。格闘技などならばカウンターもありうる。卓球や格闘技ならば物理的な重心を前にする覚悟。表現の世界ならば本気や本音で自分を曝け出し精神的な重心を前にする覚悟。それによって良いパフォーマンスが成立する。だが、それは危険と隣り合わせ。ハイリスクハイリターン。その覚悟をもって、物理的でも精神的でも、前に踏み込もうとするから、打球を生み出すラケットや自分の拳や綴った文字に、魂が宿る。魂が宿ったそれらは他者を圧倒する。だから影響を与える。物理も精神も。物心二元論(心身二元論)を唱えたデカルトでさえ、二つの世界が完全に断絶することを証明できなかった。二つの世界はつながっている。共通点があるということ。どんな世界でも覚悟は大切。翻って、私の表現はどうだろうか。まだまだ覚悟が足りないだろう。一歩前に踏み出す覚悟。奮い立たせて表現するための勇気。自分が傷つかない安全な場所から表現しているうちは、言葉遊びのレベルか。自分の内なる本性に手を突っ込んで、引きずり出すくらい真剣になったとき、私の表現にも魂が宿るだろう。結局は、しっかり自分と向き合うということ。格好をつけているようでは、自分の見てほしい部分、自分の見せたい部分、自分の理想的な部分に重心を置いていては、自分とは向き合えない。真の自分を見つめることは、気づきたくない自分を明らかにすることであり、リスクがある。しかし、そうして自分としっかり向き合うことによって、表現に魂が宿り、それこそがハイリターンとなるのだろう。


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