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◆(観+洞+推)察・・・シーン2◆ まいに知・あらび基・おもいつ記(2024年1月11日)

(このシリーズの主な探究対象は「ヒト」です。日常のヒトのやり取りを「観察」して探究するための素材・刺激を受容し、本質的な部分まで「洞察」した上で、その結果を「推察」を織り交ぜながら、「七つの大罪」レーダーチャートで「見える化」します。)

去年の年始に実験的に作ってみたシリーズでしたが、1回作ってそのままでした。原因はつれづれに書けるものではないことと、レーダーチャートなどを整えるための工程が意外と多いことだと思います。今回1年ぶりの2回目ですが、年始で何か新しいことをやろうという限定的なモチベーションのなせる業かもしれませんが、とりあえず2回目を書いてみます。

【記事累積:1910本目、連続投稿:844日目】
<探究対象…人間、心理、カフェの利用、ルースベネディクト>

<シーン2>・・・気にするポイントの「三層構造」

先日立ち寄ったスタバにて。通常のテーブル席もありますが、カウンター席が仕切りなしで向い合せになっていて、そちらもちょうど4人掛けのテーブルのような状態です。この席だけがコンセントを繋ぐことができるので私はPC作業をしていました。

最初はその席に私しかいなかったのですが、そのうち斜め前の席に一人。何やら何種類かのファイルを広げて作業を始めました。私もPC作業をしている状況ですから、それについて何かをコメントできる立場ではないと思いますが、その人が気にしていると思われるポイントに一種の違和感を覚えました。さてその違和感とはどのようなものだったのでしょうか。

その人は持ってきた複数のファイルをけっこうなスピードでめくったり戻したりするので、紙の音とはいえ気になってしまいました。さらには、ファイルの資料がタテ開きのため、ファイルはその人の前方の席を覆う形になっていて、前方の席は人を寄せつけないような雰囲気になっていたのです。

しばらくするとその人は荷物をそのままにして、お店の外に出ていきました。ここは駅ビルのスタバのため店内にトイレはなく、お手洗いのために店を出ることは珍しいことではありません。そうしてその人は戻ってきました。しかしコートを手に抱えたまま戻ってきていて、その姿への違和感を覚えたのでした。戻ってきてからもコソコソ、キョロキョロしているので明らかに不自然だったのです。

その様子がどうしても気になってしまうので観察を続けました。まあ、斜め向かいで仕切りなしなので、そのままでも見えてしまうのですが、とにかく様子をうかがっていました。するとコートの中に手を入れて、何かを取り出し前かがみになったのです。どうやら外で買ってきたパンをテーブルの下に隠しながら、周りの目をうかがって、食べている様子なのです。その動きを何度も繰り返すうちに本人も慣れてきたのか、しだいにコートと顔の距離が広がっていきました。その間を行き来するパンの形状から「ランチパック」という種類のパンのように見えました。

その様子を見ていて私が感じたのは、ここまでパンを食べることについては強力な警戒心を持って周囲を気にするのならば、作業の音であるとか空間の占拠とかに関わる周囲の反応ついてももっと気にすることができるのではないかということです。あらゆるものに無頓着であるならば仕方ないですが、少なくとも周囲を気にする感覚は持ち合わせているので、なおさら気になってしまったわけです。

「日本人の行動規範には絶対的な価値軸はなく、あくまで『他人からどう見られるか』という恥の意識によっている。」
「欧米では個人が神に向き合うが、日本人は自己の属する集団に恥をかかせないように己を規制する」
これらの言葉はアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトのものとされています。

彼女は主著『菊と刀』において、欧米社会と日本社会を比較しています。そしてそれぞれの社会の特徴を、端的に「キリスト教的欧米文化は『罪の文化』であり、日本の文化は『恥の文化』である。」とした表現がよく知られています。ここから欧米社会は自らの行為を神との関係で是か非か判断していく内面的なものであるのに対して、日本社会の場合は自分が属している集団からどう見られるかを基準にした外面的なものであることが分かります。なお、欧米社会の「罪の文化」の「罪」というのは「犯罪」ではなく「原罪」の話だと思うので、以下では犯罪との混同を避けるために「ツミ(原罪)の文化」と表現しようと思います。

この点について、スタバで見かけた人はどうだったのか考えてみると、パンのことは気にしていたので、最初は周囲の目や反応と結びついた「恥の文化」に属している人だと思っていました。しかし、その人が「本質の部分」で周囲の目や反応を気にするタイプであるならば、作業面での無頓着が生じてしまうことの説明がつきません。

そう考えると、パンについて周囲の目や反応を気にしているのは、「自分がカフェ内に外部の食べ物を持ち込んで食べている」ことへの違法性に対する認識・自覚、すなわちルールや決まり(法の要素)への関心であって、他者への迷惑(道徳の要素)には関心がないように思えてきたのです。

つまりその人は、神との繋がりでの是非という「ツミ(原罪)の文化」はもちろんのこと、他者への迷惑(道徳の要素)と関わる「恥の文化」にも属していないということなのです。そして「ツミ(原罪)の文化」を最も内面的なものとするならば、そこから外面に向かうものが「恥の文化」であり、さらに外面に向かうものとしてルールや決まり(法の要素)と関わる「罪(犯罪)の文化」があって、この「罪(犯罪)の文化」にその人は属していたのではないでしょうか。

ここから今回のシーンは、周囲の目や反応などものともしない「傲慢」が最も高く、スタバのスペースを思い通りに使いたいという「強欲」や、お腹が空いたがスタバの商品は値が張るので外でパンを買ってでも空腹を満たしたいという「暴食」も高い値になると思います。また別のお店に移らずにここで食事も済ませてしまおうという「怠惰」も多少あると思います。

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