アンラーン💣リラーン📚ためらわん♫run74…⭐積み重ねた「とうとう900」だけでなく、この先の「あと100」への関心も高まっているのは良い傾向⭐️
(これまでの虚栄を解きほぐす「unlearn」のため、頭の中を刷新する「relearn」を躊躇なく進めるための記録)
【記事累積:1967本目、連続投稿:900日目】
<探究対象…コラム、相対主義、プロタゴラス、過去の努力と未来の努力>
とうとう連続投稿900日となりました。
今日の昼頃に投稿した「無意味感想」シリーズの118回目で連続900日だったのです。
900日なので、最初の投稿は2021年9月頃となり、2年半くらい続けていることになります。こうしてその連続投稿してきている2年半を振り返ると、様々な出来事が思い出されます。そして連続投稿900日について考えるとき、相反する思いが出てきます。さてその思いとはどのようなもので、どうしてそういった相反するものが生まれてくるのでしょうか。
先日記事にしたオンラインRPG「リネージュ1」の沼にハマっていた頃であっても、連続INは100日くらいだったので(たまたま1日入っていないだけで、ほぼ毎日INの状態でしたが)、なかなか1日も途切れることなく継続できたものというのは、自分の人生を振り返ってもなかなかありません。
大学生となり卓球部に所属してから卓球ノートをつける習慣がつきましたが、自分の練習方法、打ち方のメカニズムの考察、試合運びのシミュレーション、練習やゲームにおける自分の心理状態など、練習がない日であっても継続的に記録してはいたものの、やはり1日も途切れずにというのはできていませんでした。
しかしコラムの連続投稿については、今日までで連続900日となりました。もともとはモジによって自分の思考や感情を外部化するのが得意な方ではなかっただけに、こうして続けられていることは驚きです。小さな頃から、何かを表現しようと思ったら、文章を書いたり発言したりというモジではなく、絵やチャート図やグラフのようなイメージでアウトプットする方を選択していました。
また現代文・国語などの読解も昔から大の苦手で、それを克服するためモジによるアウトプットにチャレンジするようにはしていました。教員になってからは、私と同じようにモジで何かを表現することを苦手として苦しんでいる児童・生徒が、どうすればそのハードルを乗り越えられるか、何かアドバイスをしたいという思いから、積極的にモジによるアウトプットをするようにしています。そうすれば、自分が苦手を克服する経験からヒントが得られ、一般論とは違ったアドバイスができるかもしれないと思ったのです。
コラムについても、モジで表現する苦しみの経験を積む一環だと思って綴り続けているところがあります。そしてこうして900日という大台に載ると、「とうとうここまで来たか本当に頑張ったなあ」などと、自画自賛したい気持ちになります。
しかし同時にこれとは相反する気持ちも生まれているのです。900日というのは決してあっという間ではなく、日によっては忙しくて投稿どころではないということもあって、簡単ではありませんでした。それでも「900日までできたのだからあと100日もいけるんじゃないか、そしてあと100日続けば更なる大台の1000日だ」という新たな欲が出てきているのです。
確かにここまでの大変さを「1」とすれば、これからあと100日連続で投稿する大変さは「9分の1」ということで何となく小さなもののように見えなくもありません。ただそれは単純な相対化でしかないので、実際にはこれからも1日1日の積み重ねが必要ですし、900日続いたからあと100日も続けられるはずだという根拠は、そんな机上の論理で導き出せるものではありません。
「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの。」
これは古代ギリシアの哲学者で代表的なソフィストの一人に数えられるプロタゴラスの言葉とされています。
彼が登場する以前の古代ギリシアで展開された自然哲学は、自然的な現象(ピュシス、フュシス)を主な探究の対象としながら、その観察を通じて、万物を構成する原理は何であるかを考察しました。この原理は根源(アルケー)と呼ばれます。その後、古代ギリシアでは探究の対象が人為的な事象(ノモス)に向けられるようになってくると、人間社会の中にある法律や制度についての考察が進みます。しかし自然的な現象(ピュシス、フュシス)に比べ、人為的な事象(ノモス)はどこの国であるか、いつの時代であるか、誰が権力を持ち統治者であるかなどの条件によって「真」とされる姿が変わりうるものでした。そのためプロタゴラスに代表されるようなソフィストたちは、弁論術を巧みに用いながら、その名言にも表れているように、「真」であるかどうかを決める尺度は人間そのものが持っているという「相対主義」を展開したのです。
例えば、室温23℃というものが暑いのか、寒いのか、または丁度良いのかは、23℃という数字自体で決まっているのではなく、それを受け取った人間がどのように感じるかによって決まるのです。それは温度の評価に関する尺度(判断基準)は一人ひとりの人間の側が握っているからなのです。そうすると、23℃を暑いと考える人もいれば、逆に寒いと考える人もいますし、丁度良いと考える人だっています。このように相対主義によって、物事の捉え方には常に唯一解があるわけではなく、視点や立場が変わると異なる解が生じうるという道があることを示したのです。
私のコラムの連続投稿についても同じことが言えると思います。900日という数字は、ここまで積み重ねてきたという努力に対する「900日」という捉え方をすれば、「とうとう900日までやってきた」となります。しかしその「900日」をこれからの努力に対するものとして捉えると、「あと100日で更なる大台に達する」となります。
前者は現在という場所から過去を見つめた場合に思うことであり、「過去の努力を賞賛する」捉え方と言えます。これに対して後者は現在から未来を見つめた場合に思うことであり、「未来の努力を鼓舞する」捉え方と言えます。それぞれの捉え方は、見つめている方向が違うので、その2つを並べてどちらが優れているとか、どちらが正しいということ自体ナンセンスだと思います。またこの2つの捉え方は、誰がそれを見て評価するかでも変わってくるわけで、その優劣・正誤は完全に相対的なものといえるでしょう。
物事に対する価値判断が個々の人間に委ねられるものであるとする「相対主義」は、個人個人のレベルで考えると妥当なものに思えますが、集団における意思形成というレベルで考えると逆の結果を生み出しかねません。実際に、古代ギリシアでは相対主義が広まることによって、ポリスという共同体・集団に共通した倫理観・常識・正義というようなものを見出すことが難しくなり、秩序が崩れていきました。
とはいうものの、相対主義が以前に社会秩序を崩したとされているから、集団に対する相対主義は好ましくないというような前述の展開自体も、相対主義に基づくとそうは言い切れないことになりますね。頭がこんがらがってきたので、これ以上話を広げたり掘り下げたりするのは止めておきます。
話を自分のコラムの連続投稿に戻すと、「900日」の評価は「とうとう900日」か「あと100日」かという二者択一にこだわる必要はないなと思っています。実際、「あと100日」と思えるようになったのは「とうとう900日」があってのことですし、「とうとう900日」もまた以前に「あと〇〇日」という先への思いに導かれながら気づくと「900日」になっていると思います。ですから「『とうとう900日』は『あと100日』のようなものがなければ実現しておらず、また『あと100日』は『とうとう900日』がなければ考えることすらない」という折衷的な捉え方にしておきます。しかし過去の栄光だけを見るのではなく、すぐに未来に向かっての目標をイメージしているのは良い傾向かなと感じています。次は連続投稿1000日を目指します。
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