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【小説】 風が壊れたら

 時々介護ベッドの柵に掴まりながら、一昨日からじい様が苦しそうに咳き込んでいる。
 今も深く咳き込み、ひゅうっという甲高い声だか肺の音だか分からないものを出して、口をぱくぱくさせている。

「じい様、苦しいんか? 水飲むか?」

 胸の上を摩りながら聞いてみるも、枯れ枝のような手を振り振りして、じい様は「いらない」と口元だけで私に伝える。

 冬が厳しくなるにつれ、空気も渇いて来る。
 年明けに少しは雪が降ったおかげで折角湿った赤土も、山から吹き下ろす空っ風のせいで全部湿気を持っていかれてしまった。

 二月に吹く空っ風の酷さは台風なんてものじゃない。
 それこそ朝も夜も関係なく四六時中吹いて、方角だの風向きだのはとにかく滅茶苦茶で、冷たくて荒い風は人の心さえも吹き飛ばしてしまうくらいだ。

 石油ストーブの上にのせた薬缶がちんちんカンカンと一人で喋り始めたものだから、炬燵を出て水を淹れに行く。
 立ち上がりざま、じい様が腕を動かして私に何かを伝えようとするのが見えた。

 内心うんざりする。こんなことが毎日、毎晩、毎朝、毎時間ずっと続いている。
 夜の十二時を回ると、小便だの苦しいだの、あれはどこへやっただの、誰々は今日来たのか? など、二十分起きに起こされる。
 早く死ねばいいのに、と思うこともあるけれど、死んだらきっと寂しくなるからグッと堪えるしかない。

「じい様、なんだい?」
「おまえ、火ぃ、気を、付けろ」
「心配すんない。これでもね、秘密兵器を発明したんだから」
「秘密、兵器?」

 苦しそうにそう言って、じい様は不思議そうな顔をしている。
 この前、薬缶を取り替えようとしたら素手で触ってしまって、右手の中指を火傷してしまった。
 失敗したなぁと思ったけれども、反省した私が編み出した秘密兵器を見たら、きっとじい様はびっくりするに違いない。
 台所に行って、それを準備する。
 薬缶の蓋を開けて、私は掛け声をかける。

「そぉれ!」

 二リットルのペットボトルに入った水をそのまま、蓋を開けた薬缶にドボドボ入れる。
 これなら、熱い薬缶をわざわざ移動させずに水を足すことが出来る。
 なんて私は要領が良いのだろうと思い、水を注ぎながらじい様に胸を張ってみせる。

「ほら! じい様、これなら安全だろう?」

 こんな秘策をじい様は思いつきもしなかっただろうと勝ち誇りながら返事を待ってみるけれど、全く反応がない。
 あれ? と思い目を向けてみると、いつの間にかベッドの上でスポーツ新聞を拡げて読んでいる。

「じい様、見てよ!」

 私が訴えてみても、じい様は新聞に目を落としたまま。

「これなら火傷もしないし、水も足せるんだよ!」

 この野郎。人の気も苦労もしらないで、しらばっくれやがって。
 ちゃんと見やがれ! そんな気合いを込めて言ってみたものの、じい様は新聞に目を落としたまま

「見た」

 と一言。

 いいや、絶対に見ていない。私が火傷を負って発明したペットボトル給水術をチラリとも見ないなんて、やはりこの男と結婚したのが間違いの始まり。

 人の気を分かったつもりでいて、ちっとも分かってない。
 頷いたり、見たとか、わかったとか、聞いたとか言っていればそれで良いと思ってるんだ、この男は。
 畜生。

「見たんだったら、もっと何かないんかい!?」

 じい様は「ない」とつまらなそうに答えて、新聞をゆっくりゆっくり、めくろうとしている。腹が立つから、こんな時は手伝わない。

「もういいよ!」

 そう言って炬燵に入ると、じい様がぽつりと呟いた。

「医者、なん、て?」

 今朝の回診のことだろう。医者は確かに来て、肺の音を聞いたり、頷いたり、薬はコレとコレを出して置きますねぇ、なんて言っていた。
 帰り際にはこんなことも。

「いつどうなっても、という状態ですが……持っている方だと思います」

 そんなことさえ聞き慣れてきたけれど、こっちゃ本人に聞かれないようにいつも気にしてんだ。
 悔しいんだ。なんだ、いつどうなってもなんて、そのいつは「いつ」なんだって、ずっとこっちゃ思ってるんだ。
 簡単に言うな。気休めなんて言うな。クソッタレ。でも、私は頭を下げた。

「本当、いつもありがとうございます」
「ええ、では」

 せめて、諦め切ったような顔するな。
 さっさと帰りやがれとは思うけど、本当にさっさと帰りやがって。

 じい様がさっき「見た」なんて嘘をついたから、私も嘘をつき返す。最初に嘘を言う方が、悪いんだから。

「医者がね、まだまだピンピンしてるってよ。もっと苦しい人はいっぱいいるし、じい様は当分死なねぇってよ」

 じい様は声に出せない笑い声をあげながら、満足そうに首を小さく振る。

 嘘をついたよ。嘘を言うしかないから、嘘をつくんだよ。
 悔しいよ、馬鹿野郎。

 私は炬燵を出て、空のペットボトルに水を淹れて置く。そうすれば、次にまた台所に出なくて済む。
 またひとつ、新しい発見をした。

 外の風が家をガタガタ揺らしている。容赦なく、冷たく、暴力みたいに家を殴り続けている。
 負けるもんか。こんな風に、負けてたまるもんか。

 そっちはその気だろうがね、こっちだってずっとここで暮らして来たんだ。でもね。
 ずっと素直でいられなかったんだ。今だってそうだ。だから、閻魔さんに会った時はせめて素直に舌を出してやろうと私は思う。

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