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窓辺の日常 【随筆】

ふと、今居る場所に違和感を抱く瞬間がある。

具体的には自分の部屋なのに「ここは何処だ?」と眉を顰める瞬間がたまにあるのだ。
実家で暮らしている訳ではないのでそう感じるのかもしれないし、それ以外の理由があるのかもしれない。

先日両親が引き払った為、実家は無くなったので住処として帰るべき場所はもう無いのだが、元々私の幼い頃に親が離婚したおかげで何十年という単位で同じ場所に住み続けた「家」というものはない。
かなり無茶苦茶な家庭環境だったのに関わらず、それでも小さな頃は家に帰ればホッと胸を撫で下ろしていたような経験がある。「住めば都」とは何とも的を得た表現だと感じる。

俯瞰的に自己を「見る」事は基本的に不可能であるが、場合によっては時間という存在が己の存在を俯瞰的に露にさせてくれる場合もある。
そして、その時に初めて気付かされる事が多々ある。

色々な窓からの風景が記憶の片鱗として残されている。
それは単に風景として存在するだけではなく、必ずそこには「人」が介在している。

失敗や後悔の記憶はあるが、一度起こった事はなかった事には出来ない。取り返すか、向き合うか、放り出すかは個人の問題ではあるが、私そのものは近年「放り出す」という選択と覚悟を決めて生きて来たように思える。

上腕に残されたままの傷は記憶を呼び戻すよりも早く存在し、常日頃その存在に自身を否定される思いをして生きて来た。

「早く死んだ方が良いよ」

これは実際に私が言われた言葉で、その時は実際そうなのだろうと思わされた。「はい」としか言えなかった。

もう生きている人生は終わっているのだから、もう何も新しいものは記憶に入れなくて良い。
ただ生きる為に生活をし、ただ残す為に言葉を紡いで行こうと思っていた。

朝にも夜にも興味を失くし、窓を見上げる事もなく心は横たわったまま、床に耳を付けて壁を眺めていた。
ふと顔を上げて窓の外を見てみると、忘れてた陽の光が見えた。
身体を起こし、その光を浴びようと窓を開ける。
見覚えがあるような、ないような不思議な窓を開けた途端に「生きている」事を思わされた。

外の匂いや、夏の音や、光。 

其れ等に触れたこの身体は、心を伴って生きる事を選択した。
窓にはいつも人の介在があり、否定され続けた記憶は新しい物に変えられた。

生きている限り、環境や状況はいくらでも変わるだろう。考え方や、人との付き合い方、向き合い方も。
しかし、生きている限り自分自身という存在からは諦める事や逃げ出す事など不可能なのだ。おまけに、俯瞰的に観測が出来ないときている。
自分がどう言った存在なのかを知る為には、人を介して自身を知るのが一番だ。

私はまだ、生きていて良かったらしかった。

そんな事すら気付かなかった自分の愚かさに頭を掻きながら、言葉をくれた人に首を垂れながら、今も生きている。

「文」という酷く地味で、しかもコミュニケーションが不可能な「小説」という表現をしている。
それは誰かの日常の役に立ったり、情報を与えたり、ヒントになったりする事はまず有り得ない。
目に見えるメリットも、ましてや読んだ者のプラスに働く作用が必ずしも得られる訳でもない。

それでも読んで頂けている事に、日頃からの感謝を申し上げる。

自身で見て来た色々な窓を開け放ち、そしてその色を届ける為に小説を書いているのかもしれない。

喜び。悲しみ。怒り。葛藤。愛。祈り。 

私が現在開け放っている窓も、いつしか描けたら良いと日々願っている。そして、届けたいとも。

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