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私がキリロムを始めることになった理由

キリロムの事業をどうしてやることになったのかについてお話ししたいと思います。

キリロムとの出会い

人と人との出会いに偶然の要素が大きいように、人とビジネスの出会いも偶然の要素は大きいと思います。私がキリロムの事業と出会ったのも偶然の要素が大きいですが、私がカンボジアでキリロムの事業をすることになったのも、さらには事業を進める上で4度の事業内容の変更を行って現在の事業にたどり着いたのも、改めて考えると私の人生の経験が色濃く反映されていると感じます。

おそらく最初に私の生い立ちやこれまでの経験をお話しした方が良いのではないかと思います。

キリロムの松林に惹かれた理由

私は香川県の田舎町のさらに郊外の出身で「田舎の3乗」みたいなところで生まれ育ちました。すべてが最先端の東京と自分の境遇を比べるとすごいハンディを18年間感じて大きくなりました。そして私の故郷は津田の松原という松の木が有名な場所です。キリロムの松林に惹かれた理由の1つかもしれないと思います。私の家族に焦点を当てると私は4人兄弟の長男でしたが、父親が工場で働き、母が内職で子供を育てる貧しい家族でした。私が大学に行ったので弟たちが大学に行けなかったと言っても過言ではありません。私は地域で圧倒的に勉強ができたのでわらしべ長者のように上手くチャンスを掴み続けて30年間でここまできましたが振り返ると私の生まれた地域の子供たちが東京で生まれた子供たちに比べて圧倒的なハンディキャップを負っていることは昔も今も変わりません。また、私の家族が貧しかった理由は第二次世界大戦にあります。私の祖父はとても勉強ができたそうで、神戸の商船学校出身のエリートだったと祖母から聞いています。しかし、第二次世界大戦で輸送船の若き機関長としてASEANに物資の輸送を行ったのですが戦死しました。軍ではなく軍属だったので戦後も家族は遺族年金ももらえず祖母はメイドやゴルフ場のキャディーそして工場勤務などで母子家庭として私の母を育てました。
「家庭が貧しくても、英語ができない国に生まれてもグローバルリーダーになれる。そんな世界を実現したい」

キリロム事業のコンセプトが生まれた理由

キリロム事業のこのコンセプトが生まれたのは私の人生がカンボジアと出会ったからだと思います。このコンセプトの中に出てくるもう一つの概念である「英語ができない国に生まれた試練」に関しては私の最初の起業の経験に由来します。私は地元で圧倒的に勉強ができたと書きましたが正確には圧倒的にできたのは数学と物理だけであり、英語や国語はひどいレベルでした。早稲田大学の物理学科に進みましたが、英語や国語ができなくても入れる一番良い学校だったと思います。英語に関しては必要性さえ感じていませんでしたし、今思えば英語の先生も含めて本当に英語ができる人は周りには誰一人いなかったと思います。こんな私が最初に英語でつまづいたのが大学院で英語の論文を読み、英語の論文を書かなくてはならない状況になった時です。結局修士課程を3年かけて卒業し博士課程を中退して別の道を目指すことになるのですが英語がもしペラペラだったら大学教授になっていた可能性も高いです。2度目にちょっとつまづいたのが新入社員として入ったアクセンチュアという外資系コンサルティングファームの新入社員研修。博士課程中退でスパコンを使っていた私が外国人も含めて一番プログラミングができたにもかかわらず英語が全くできないせいで無能扱いでした。そして3度目に本格的につまづいたのが私が創業したデジタルフォレストという会社での経験です。当時の日本のアクセス解析市場で1位になった私の製品はその後登場したGoogle Analyticsという無料のアクセス解析ツールに市場を大幅に縮小させられてしまいます。当時我々の製品が日本で一番高額だったのですが、そこにGAFAの一角のGoogleが無料でかつ本気で参入してきた訳ですから毎日眠れないほど不安な日々を数年間送ることになります。この時の結論が私が英語ができなかったから世界で起こっていることをモニターしていなかったし、インドなどの英語圏にアウトソーシングすることもできず、資金調達額も米国企業よりも1桁低い額になってしまうという事実です。英語ができないことは罪だと本気で思いました。そして勉強が苦手でなかった私がなぜ英語があまりにもできなかったのかを本気で考えました。そして日本の英語教育は理論が間違っていると思いました。そして世界中の起業家が集まるイベントに参加した時に英語ができないのは日本人だけだということに気づきました。(世界に出なければならないような先進国で圧倒的に英語ができないのは日本人だという意味です。最近世界に出てくる中国人もできない人は多いですが。)この起業家の世界組織の中で気づいたもう一つのことが英語ができなければグローバルのリーダーになれないということです。この英語ができるというレベルは日本人の英語ができるというレベルよりももっと高いものです。

最近世界で新しい戦争が起こるリスクが高まっていると感じます。世界を不安定にしている要因は何なのかを分析したときにスピードオーバーで広がっているFacebookのようなSNS、お金持ちがさらにお金持ちになり下克上が困難になったお金の世界、貧しい国と豊かな国の格差がなくなる一方で先進国の中間層が貧しくなっていくという現象を引き起こしたグローバリゼーションなどですが世界的なイノベーションは世界をどんどん不安定にしています。そして再度戦争が起これば大量な不幸な人・家庭を生み出します。世界が平和な状態で発展していくためには、常に格差が固定されず循環が起きていく必要があると思います。だからカンボジアや日本からもグローバルリーダーが出てくる必要があります。そのためには英語が必須ですし、不安定の素であるイノベーションを起こしているIT技術に長けていなければなりません。また直近のお金持ちはほとんどがIT長者です。英語ができない国の貧しい家庭出身の若者に英語とITとアントレプレナーシップを教え、経済的な自由度を得て世界を安定化するために貢献してもらいたいというのが私の思いです。

キリロム事業との偶然の出会い

最後に私とキリロム事業の偶然の出会いの部分についてお話します。

私が世界に目を向けるようになったきっかけはEOです。EOとはEntrepreneurs’ Organizationの略でおそらく世界最強の起業家組織です。上記の文中に登場した起業家組織とはこのEOのことです。EOは世界中に支部がああるのですが、支部を超えてアジアの支部から参加者が集まる地域のイベントがあります。私はEO Japanという日本支部の会長をやった後でアジアの地域イベントの責任者を任されることになり、私が責任者でカンボジアでイベントを主催することになりました。カンボジアで開催することになったのは本当に偶然でアメリカ人起業家からの強いリクエストに勢いでYESと答えたてしまったという少し反省もあった意思決定でした。

私がカンボジアに初めて入った2011年当時のカンボジアの日本でのイメージは「貧しいカンボジアに小学校を寄付するプロジェクト」が象徴するようにあくまで内戦からの復興の寄付による支援の対象でありビジネスの対象ではありませんでした。しかし、日本以外の国はカンボジアをすでにビジネスチャンスの国だと見ていたように思います。実際にカンボジアに興味を持ってニュースを見るとイギリス政府が「この国にはもう支援は必要なくなった」と宣言して撤退したというニュースが流れていたりして当時の日本人が持つイメージと実態は乖離があると感じたことを覚えています。

初めて訪れた国カンボジアでイベントを開催するというのは簡単なことではありません。カンボジアで事業をしていたEOの会員の起業家の知人にイベントをオーガナイズしてくれるカンボジア人の起業家を紹介してもらいなんとかイベントの開催に漕ぎ着けました。そのイベントのオーガーナイザーがキリロムでの観光事業をきっと成功するから一緒にやらないかと持ちかけてきたのがキリロム事業の最初のきっかけです。

しかし、よく考えてみれば GDPが日本の40分の1しかない、内戦から立ち直ったばかりのカンボジアで山の上のリゾート事業が直ぐに上手くいくはずもありません。リゾートをオープンして半年たったくらいでこのままでは上手くいかないということが明確になり、たちまち第一回目のビジネスピポットとして全寮制の大学をスタートすることになりました。この1回目のピポットの際にはカンボジアの首相になったつもりでカンボジアの過去・現在・未来、周辺国との差別化戦略、外国人としてやるべき事業かどうかキリロムの強みを長期的に生かせるかどうかなど徹底的に考えました。いざ大学をオープンしてみると山の上のリゾートよりは好感触で大学を上位概念とするという第2回目のビジネスピポットをさらに2年後に行います。そしてIT企業が大学とリゾートを保有しているという第3回目のビジネスピポットに続き、2020年に現在行っているシードアクセラレーターを中心とした第4回目のビジネスピポットにより現在の事業の形になりました。当初一緒に共同事業をスタートしたカンボジア企業グループとはピポット後の路線の違いで2年くらい議論したのですが結局は円満に分かれて我々だけの単独事業になり現在に至っています。

日本の軽井沢を思い起こせばカナダ人が発見して有名にした場所ではありますが現在は完全に日本人のための場所になっています。投資家は投資した資金から分相応のリターンを得る必要がありますが、キリロムは数十年かけて徐々にカンボジア人によるカンボジア人のための場所に戻していく必要があると考えています。新しいカンボジア人パートナーを見つける努力は今もやっていて、キリロム工科大学の新学長がカンボジア人になったのもその一環です。

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