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いま、ここ、わたし。

いま、ここ、わたし。
基本的に写真は、いま、ここで、わたしが撮るものです。過去や未来のものは撮れないし、ここではないどこかは撮れないし、他人が撮るものではありません。原則的な話として。

たとえば大谷翔平のホームランの瞬間を撮りたいと思えば、アメリカの球場に行かなければなりません。そして球場に行き、座席を確保し、カメラを構え、その瞬間を狙います。いつホームランを打つか、それは誰にもわかりません。その日にホームランが出なければ、翌日に再び球場に行くことになります。さらにホームランが出なければ。これが写真です。労力と時間と幸運が必須です。根気が要るのです。これを全て自分が行い、作品に昇華させるのです。こんな酔狂なことが出来るのはよっぽどの熱意があるか、それを仕事としているかだけでしょう。写真は場所と時間の替えが効きません。二度とその瞬間は訪れません。そして写真に記録したものは未来永劫、事実として遺ります。それを観た人はそれぞれに感情を抱き、色々なことを想起します。だから写真は貴重で儚いのです。一方、「いま、ここ、わたし」に縛られることが億劫に感じることがあります。そういう時に、他の分野の表現が羨ましくなります。

たとえば小説は、過去にも未来にも行けます。どの時代のことも書けます。そして自分以外の他人になることも出来ます。そして場所も限定されません。とても自由なのです。最強のメディアだと思うことさえあります。絵画やイラストなどもそうですね。とても自由です。読者や鑑賞者の脳内でイメージされる想像の余地が写真よりも大きい気がします。写真はそれだけイメージを固定しているところもありますが、様々な記憶を喚起するという利点は失っていません。写されているイメージが克明である分、細部まで記憶を喚起する手助けになるかもしれません。メディアごとに良いところ、特色があります。それを理解して上手く使いこなせれば、より多くのことが深く他者に伝わるのかもしれません。

料理や音楽のライブ、演劇、スポーツなどもその場一回限りで潔いですね。集中力を更に要します。逃しても、もう1回はありませんから。料理は味や香りで様々な記憶を蘇らせます。味に感動もします。そして食べたら無くなり、すぐに記憶に変わります。写真や絵画作品のように嵩張って部屋のスペースを占めることもありません。そして定食屋で唐揚げ定食を頼んだとして、2人分が用意され、どちらか美味しそうな方を選んでください、なんてことはありません。料理人は一発勝負。とても潔いですね。スポーツや音楽のライブ、演劇もそうです。三振したけどもう一球お願いします!なんて無いですからね。非情です。厳しい世界です。一方、写真は何枚も撮った後にセレクトできます。でもベストは1枚に絞って差し出しますから、ある意味同じとも言えますが。

私達は日々、様々な出来事に遭遇し、人間が織りなす様々な所業に触れています。それは表現でもあります。その表現には色々な形態、性質があります。それを観察して分解してみると色々な発見がありそうです。感動を産み出すメカニズムが内包されているかもしれません。暇な時間は芸術の産物でもあります。

「いま、ここ、わたし」。
これは私が社会学部生だった大学時代に出会った言葉でもあります。「いま、ここ、わたし」を起点に、その対極にある事象も同時に調べ、考察する。そんな意味だったと思います。相対化の必要ですね。社会学のことはよくわからないまま卒業してしまいましたが、この言葉は今でも頭から離れません。「いま、ここ、わたし」は表現活動にも欠かせない、そして応用が効く考え方でしょう。

「いま、ここ、わたし」。「いま、ここ、わたし」。
念仏のように唱えてみる。いつまでも胸に留めておくように。

将来タイムマシンやどこでもドアが開発されたら?
新しい解釈や表現が目白押しですね。


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