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畑を始める前と後では、写真の観え方が変わっている。

冒頭の写真は田植えをする祖父の姿。
90歳を迎える少し前の頃だと思う。
苗を手で1本1本植えている。

私はずっとこうやって祖父が作ってくれたお米を食べて生きてきた。
それが当たり前過ぎて、それがどんなことなのか、
あまり感じたり考えることがなかった。
写真もその延長線上にあり、祖父の暮らしのひとつの場面として記録していた。

私は今年50の歳を迎えるが、来る50代はこれまでの作品をまとめ、
作品集という形にしたいと思っている。
私は長らく愛聴してきた中島みゆきと浜田省吾の来し方を表現者の生き方として意識してきた。
中島みゆきは50代以降、そのペースは緩やかになったがコンスタントにアルバムを作り、ツアーで全国を周っていた。
一方、浜田省吾の50代はベストアルバムの制作とツアーが中心だった。まだまだ身体が元気な50代のうちにこれまでの総括をしていたのだろう。私は当時30代で、まだ写真を始めて日が浅い時期だったこともあり、その活動形態の意味するところがよく解らなかったが、自分がそのような歳になってきて、なんとなくわかるようになった。

そんなことを思ったこともあり、久しぶりに自分の作品を見返してみたのだが、これまでの観え方とは異なっていることに気付いた。歳を取ったせいもあるが、これは私が今春から始めた畑に関係があるだろうと確信した。

特に観え方が変化したのが、祖父の写真と母方の祖母の写真だ。
写真を始めたのが28歳と遅かったが、ふたりが長生きしてくれたお陰で写真を撮ることが出来た。
ふたりの暮らしぶりを帰省した際に撮影し、そのなかにはふたりがそれぞれ田畑で働く姿があるのだが、畑をやる以前とは違ってふたりの背景に見える物や育てている野菜や米に、ふたりの途方もない労力が込められていることを感じるようになった。そして今後その感じ方は益々強くなり、尊敬の念をもっと抱くことになるだろう。

写真に写るトマトの実のそばに刺してある杭の立て方にも意味があり、経験値が込められていること。
ナスの写真を観ては、自分が育てているナスと違ってとても完成度が高いこと。
ビニルハウスに延々と続き、広がる苺の苗の写真を観ては、この状態を作るまでにどれほどの手間と時間とお金がかかったのか。
田植えの写真を観ては、よくこれだけの広さの田んぼを、ひとりで1本づつ腰を屈めて手作業で植えているものだと。
酷暑のなか、汗だくで作業する写真を観ては、まさにこれはいま私が経験していることで、それがどんなに身体にこたえることなのか。

写真を観ては色々なことが私に迫ってくる。
私は何も知らないまま、経験がなくリアリティーがないまま、
ふたりの姿を追ってきたのだ。

これまでにも祖父の姿を収めた作品を形にしたいと強く思った時期もあったが、直感的に何か決定的に足りないものがあると感じていた。
畑を始めたいま、その足りないものが何なのか、少しづつわかるようになってきた。しかし、まだまだ解っていない。
頭と心と身体で理解し、自分の血肉となってようやく、作品をまとめる段階に来るのかもしれない。

祖父母のように農業を生業にするわけではないのでどれだけ理解し、リアリティーを持てるかわからない。ただ嬉しく思うのだ。ふたりをより理解するために、畑をやる機会が巡ってきたことを。これは写真の神様からのギフトだと思うし、作品集を作るために用意されていた道、大げさに言えば宿命だと私は思っている。

私の畑ライフはまだ始まったばかり。
春夏秋冬、色々なことがあり、色々なことを理解し、
色々なことに想いを馳せるだろう。
とても楽しみだ。
畑は料理とも連動している。
祖母亡き後ひとりで暮らし、自分のために料理していた祖父の姿の印象やそれを記録した写真の観え方は変わってくるだろう。

未来の出来事は、過去の観え方を変える。
そのような意味の、以前観た映画の台詞を思い出している。







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