神経質なのは写真だけのせいなのか。
いつの頃からか、私は神経質になったのかもしれない。
少なくとも写真を始めて以来、その気質は強くなったと思う。
もしかしたら社会人になってからかもしれない。
いずれにしても私にはそんな性質がある。
私は母親譲りの完璧主義者のきらいが幼少の頃よりあったと思うが、
それが発揮されるのは自分が興味のある対象のみで、
その他はズボラなところが多々あったと記憶している。
興味のある対象。
野球、絵画、そして必要に迫られたときの勉学。
その他に関してはそんなに執着していなかったと思う。
特に高校の野球部では規律が厳しく、技術の習得とともに日々、
神経を張り巡らせていたと思う。仕事のようで毎日ヒリヒリしていた。
大学でもその感じはあまり変わらなかったと思うが、アルバイトの影響で多少神経質になったと思う。
2年間、製薬会社に通った。
病院などから運ばれてくる血液などの検体を扱う仕事で、
遠心分離機にかけたりする仕事だった。
バイトの割には少し高度な内容だったのかもしれない。
ミスは許されないだろうし、その分時給も割高で、
私が通う大学限定で、紹介制だった。
神経質になる条件がいくらか揃っていたと思う。
卒業後、会社員になり、商社で働いた。
畜産部という部署で、主に牛肉の輸入業務に携わった。
「デリバリー」という仕事が主で、通関業務から国内販売先に受け渡しする仕事内容だった。買付と売付けの成約は主に上司がしていた。
その「デリバリー」業務がとても細かい作業で大変鍛えられた。
肉の部位だけでもたくさんあり、それぞれに値段は異なる。
そして毎日変わる。
輸入なので為替も深く関係する。
為替の変動の原因を顧客に説明しなければならないので、
アメリカや日本の経済のことを日々追う必要がある。
もちろん現地での肉牛の生育状況や、アメリカ国内もしくは輸入ライバル国の需給状況なども知っておく必要がある。
やることが満載で、私には荷が重すぎる仕事だったが、
「根性」でなんとかなるような時代でもあり、また周囲の同僚や顧客、
関係業者に大変助けられ、毎日を凌ぐことが出来た。
特に最初の2年間は生きるか死ぬかの毎日で、
神経質にならなければ多額の損失を招く緊張感もあった。
その後、写真の道に進んだのだが、写真も覚えることが多く、
また個人に責任が乗っかる部分も多いため、集団とは異なる神経の張り詰め方が必要となった。
そして多分、これが私を最も神経質にさせたと思うのが、
作品と現像済のネガフィルムの保存である。
徹底した温度と湿度の管理や、最高級のフィルムシートを使うほどではないが、それでも出来うる範囲の管理はしてきた。
作品は後年、または本意ではないが死後に日の目を見るかもしれないし、
フィルムも保存状態が良ければ後年、その時の技術と哲学を持って暗室でプリント出来る。
作品は多くの人々に支えられて出来たものでもあるので、
私だけの財産ではなく、大げさに言えば後世に受け渡しする
人類の財産だと私は思っている。
これもデリバリー、リレーである。
たまたま私のところにいま、在るに過ぎない。
そう思うと、半ば勘違いではあるにせよ、
最大限の神経質ヤローにならざるを得ない。
台所で料理するときには必ず換気扇を回し、戸は閉める。
同時に作品がある部屋の戸も閉める。その部屋で食事はしない。
カメラなどの機材も置いてあるので、また然り。
それは家族にも徹底してもらわなければならない。
説明しなければならない。
このような種々の経緯があって、多分私は神経質な男になってしまった。
そういえば掃除もこまめにする。
これはアルバイト先やアシスタント時代に影響されたところもある。
アシスタントと並行してアルバイトをしていた高級果物店では、
お中元やお歳暮の時期、忙しくなると一旦手を止め、
皆で掃除することにしていた。
店長の方針で、頭をリセットし、心を新たにする目的だったと思う。
アシスタントをしていたカメラマンの方もそうだった。
事あるごとによく事務所の掃除をした。
考え事があるときは特にそうだったかもしれない。
とにかく手を、身体を動かすのが良いのだろう。
私も良い意味で影響された。
あと、私は暗室や他の写真の仕事を自宅でするときには、必ず歯を磨く。
儀式でもある。
神経質な男は嫌われるらしいが、私は神経質ではない仕事人はあまり好きではない。一方、普段はおおらかに生きたいと、切に思っている。
もっと歳を取ったら、色んなことがどうでもよくなるのかもしれない。
覚えていられることが減ってきて、色々なことに気が回らなくなり、
諦めの境地に至るのかもしれない。
そんな境地にはまだまだ遠いと思うけど。
以上、こんな私ではありますが、どうか末永くお付き合い願いたく、
宜しくお願い申し上げます!
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