ポートレートの行く先
ここ3年ほどポートレート講座の講師をしていますが、その際、家族や親族のポートレートを定期的に撮影することを勧めています。相手のことを改めて見つめ直す機会にもなるし、距離を縮める機会になるかもしれません。色々な発見や学びがあります。
そしてそのポートレートが後年、遺影になることがあります。身近な人に撮られた遺影は親族に永く愛されていくでしょうし、よりリアルに思い出が想起され、語られていくでしょう。
私自身も20年ほど定期的に親族を撮影し、ここ最近は遺影に使われることが増えてきました。昨年もそんな知らせがありました。実家近くの親族のあばあさんで、私達兄妹を幼少の頃から可愛がってくれました。コロナの影響もあり、突然のお別れになってしまいましたが、遺影というかたちで葬送に参加することが出来ました。
このおばあさんを含め、帰省の度に親族に会いに行き、フィルムに収めてきました。東京に帰るとせっせと暗室に籠ってプリントし、田舎に郵送するのです。
私が郷里を離れることもなく留まっていれば、家族や親族と共有する時間や思い出がずっと沢山出来たはずです。その代わり、私が写真を撮ることは無く、これらの遺影も無かったはずです。
どちらが良かったのか、いま天秤にかけてみれば、思い出や共有する時間の方が断然尊く、そんな人生の歩みを選ばなかったわたしの、せめてもの償いのかたちが、それらのポートレートでもあります。
少し大袈裟な表現ですが、そんな気持ちを抱きながらポートレートを撮ってきました。歳を経るごとに人生の儚さを認識させられますが、写真はその想いを増幅し、かつ人生の豊かさも教えてくれます。
ポートレートを撮るように私の人生は差配されていたのだと、自分が撮った写真を見つめながら納得するのです。
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