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カ オ カ オ が行く

最近、
顔の見えないプロフィールを良く見かける。

「顔を隠した方が作品に注意が向くから」と、
モデルの顔を隠したデザイナー、
マルジェラの影響なのか。

それとも、
「神を描くな、偶像崇拝するな、
重要なのは、神が言っていることで、
顔は気にするな、信仰の邪魔だ!」という、
ユダヤ、イスラム式なのか。


子供の頃読んだ本に、

最古の完全犯罪

「被害者の首を持ち去った殺人事件」

というのがあった。


DNA鑑定などない時代、
顔が無いと、被害者を特定できない。

すると、
「人が死んだ、大変だ!」の意味は薄れ、
だんだん、
「物が壊れた、そうなんだ…。」的になって行く。

「解決すべき事件」としての気勢を削ぐ、
どこか釈然としない、前進しない不可解さ。

犯人は、顔の功罪を知っていたのか。



さて、定期的に世間が騒ぐ、
SNSやメディアの「誹謗中傷案件」

あれも「顔が見えない事」と「発言内容」
には相関関係がありそうだ。

顔を出していたら、
確かにそこまで言わないのだろう。

顔出しには責任を伴う。
本人を特定でき、世間にツラを晒し、
反論の標的として、受けて立つ覚悟に迫られるからか。

確かに強盗は顔を隠したがるし、
サングラスのまま採用面接に臨む人はいない。


逆に、
「ワタシ可愛いでしょ!!」とばかりに、
顔写真を一方的かつ大量に、発信されても、
みんなが嬉しいわけじゃない。


「顔無し」には、
イメージの固定化回避と
謎を生み出す両面がある。

今後、メタバースなどで、
顔を「信用の担保」にしない、
アバターな世界が広がるのか。

反面、画像がいつまでも残り、
過去のイメージを背負い続ける、
過去に縛られる未来が待っているのか。

化粧、整形、加工、アバター、
複数の顔をもつ事で、
特定の顔の無い時代、
に入ってゆくのだろうか。


視覚障害の人にとっては、
そもそも相手のカオの重要性は低いのだろうから、

いずれは誰もが、
「顔に重きを置かない世界」になってゆくのか。

いや既に私たちは、
「顔なき世界」を生きているのだろう。



諸星大二郎の描く、
前後に二つの顔がついている怪物

「 カ オ カ オ 」が、

わたし顔の奥を

歩いて行く。





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